その好きは隠しておいてね


 昔ながらの喫茶店は静かでお客さんは一組ほどしか入っていなかった。
 三人はブレンドコーヒーを注文した。
 給仕の女性がいなくなると、前田がふうっと息をついた。

「……久しぶりだね」

 前田とはほとんど面識がなく、その言葉は一色に向けた言葉だと思った。
 一色は、うん、と答えて口を開いたが、何も言わなかった。

「さっき言ってた本当の事って何?」

 光希が尋ねると、前田がこちらを向いた。

「藤崎くんに関係することだったから……」

 そう言った時、給仕の女性がやって来た。テーブル席にコーヒーの香りが漂う。三人とも黙って給仕の女性の動きを見つめていた。
 伝票を裏返しにすると彼女は去って行った。
 前田は、コーヒーには触れずに続けた。

「母から、藤崎くんが休みの間、寮にいるって聞いてから、いても立ってもいられず、会いに来てしまったんだ。どうしても君に言いたいことがあった。それと、一色くん、君にもたくさん助けてもらったから、最後に挨拶ができたらと思ってて」

 それを聞くと、ようやく一色が口を開いた。

「僕も……。僕もだよ……」
「一色くんにも会えてよかった。来てくれてありがとう」
「前田からメッセージをもらって急いで帰って来たんだ。僕こそ会えてよかった」

 一色が涙ぐんで前田を見つめた。

「思い出すのはすごく辛いけど、きっちり言いたい。これで終わりにして前に進みたいと思った」
「うん」

 一色が頷く。
 光希は端で二人の様子を見ながら、ドキドキしていた。
 あの日、一体何があったのだろう。
 なぜ、前田は自分に伝えたいことがあるなんて言うのだろうか。
 光希はコーヒーを飲もうと自身の方へカップを引き寄せた。
 香ばしい香りが漂っている。一口飲んでホッとした。
 喫茶店のコーヒーは少し酸味を感じたが、ちょうどいい熱さでのど越しを通っていった。
 前田と一色も同じくコーヒーを飲んだ。
 一口だけ口をつけてから前田が話し始めた。

「あの日……、思い出すのも嫌でたまらないけど、……オリエンテーションの最終日だったろ? 覚えてる?」
「うん。もちろんだよ」

 一色が答えた。

「3日間続いたオリエンテーションが終わって、寮生みんなが一斉に戻ったものだから、入浴は順番に入るように指示があったんだと思う。それで、いつも以上に多くの学生がお風呂に入ってたんだ」

 突然始まった前田の話を聞いて、過去に引き戻された気がした。

「……俺も思い出した。いつもならみんなバラバラに帰って来るのに、3日間は集団行動だったから大勢いて……。普段ならお風呂は空いていることが多いけど、それに、あの日は1年生も混じってたね」

 4月の始めの方だ。史苑たち3年生は別で、後からお風呂に入ったのだと思う。
 前田が痴漢だと言われた事件の事だ。
 光希はごくりと唾を飲んだ。

「俺は普段通りにお風呂に入ろうとしていた。やたら学生がいるもんだから、早く済ませようと思ってたと思う。そうしたら、斜め前に知らない顔があってそいつが何だか嫌な目つきで何かを見ていたんだ」
「前田は、知らない奴だったんだ……」
「うん。見たことのない顔だった。でもあの時は一年生の顔だって分からないよね。それで、何を見ているんだと思って。ただ、そいつをじっと見ていたらいきなり愛河が、何をしてるんだよって叫んだんだ」

 前田の体が震える。
 その時のことを思い出すだけで辛いのだろう。
 苦しそうな表情で頭を押さえた。

「大丈夫? 無理しないで」

 隣に座っていた一色が背中を撫でた。

「ありがとう。大丈夫だよ」

 前田の顔は青ざめていたが、何とかほほ笑んだ。

「それで、何が起きたのか全然分からなくて、気がついたら痴漢にされていた。俺はただ、そいつを見ていただけだったのに」
「誤解から始まったのか……」

 光希は呆然として言った。

「うん……。二人とも俺の言う事、信じてくれるんだね」
「当たり前だろっ」
「ありがとう。一色くん」

 前田がフッとほほ笑んだが、顔を伏せて両手を組んだ。

「それからは……大騒ぎだよ。愛河がすごい声でわめき始めて、そうしたら一色くんともう一人が、俺の事を庇ってくれて、前田はそんな事するはずがない、見間違いだろって、愛河に言った途端、あいつはキレて、さらに興奮しだした」

 それは覚えている。
 愛河は異常なほどに興奮していた。プライドが高いのか、間違いを絶対に認めないぞと、そんな風に見えた。
 話を聞いていた一色は口を震わせながらうつむいた。

「愛河になじられて僕も怖かった。もしかしたら僕は間違っているのだろうか。愛河がどんどん僕を嘘つき呼ばわりし始めると、何だか自信を失っていって、もう一人の奴も同じように委縮していった。ごめんよ、前田。僕はあの時の事を思うと胸が痛くなって思い出すのも怖かった」
「いいよ。愛河はああいう奴だってことが分かったし、俺自身が弱かったんだと思う。痴漢しただろって言われて辛かったけど……」

 それからは言葉が出なくなって、前田はうつむいたままだった。
 それからふうっと息を吐いて顔を上げると、少し笑顔になっていた。

「寮を出て家に帰ったら、何だか別世界にいるみたいで、お母さんに、生きていてくれるだけでいいのよって言ってもらえて、ああ、生きるだけでいいんだって思えるようになったんだ」

 前田はゆっくりと言葉を紡ぐと、光希を見た。

「藤崎くんに言いたかったのは、その、見知らぬ奴が見ていたのは君だったからだよ」
「俺を?」
「うん。君の何を見ていたのか分からないけど、見ている目がちょっと異常だと思ったから」
「そいつは、今もこの寮にいるんだよね?」

 一色がおずおずと尋ねた。

「いると思う。だから、藤崎くん気を付けて。あいつの目つきが気持ち悪くて、君に伝えたいとずっと思っていた」
「うん……」

 光希は背筋がぞくりとしたものの気づかれないよう頷いた。
 それから前田は、はっきりとした口調で強く言った。

「そして誓って言う。俺は痴漢なんかしていない」
「うん。信じてるよ」

 一色がそう言うと、前田は目を細めて笑った。