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「あら伊予、戻ったのね」
透渡殿を歩いていたら、後ろから声が掛かった。于子は振り返る。右近だった。茜色の日に縁取られて玄色に染まった美しい顔は、おそらく笑っているのだろう。
「はい。たった今戻ったところでございます」
そう、と年相応に掠れた、けれども雅やかな声で相槌を打ちながら、右近は于子の隣に並ぶ。
「御父上のおはなしは何だったの?」
何気無い問いに、于子はひとつ、まばたきをした。息を吸って、何気無い声をよそおって答える。
「わたくしに素晴らしい縁談が舞い込んだとの、朗報でございました」
「……そう」
右近がこちらを向いて立ち止まり、于子もならって足を止める。于子よりやや背の高い右近を見上げ、その目を見返した。
「お相手はどなた?」
「源の中納言様の四郎君の、兵衛佐様です」
「なるほど、立派な方ね。それで、どうするの」
「お受けいたします。お断りする理由など、ございません」
真っ直ぐに見返した右近の瞳の中には、小さくて朧げな自分の影が映っている。そう、と相槌を打つ右近の眉が少し下がった気がした。再び歩き出した右近に半歩遅れ、于子もまた歩みを進める。簀子には、儚く散った花びらがひとつ、ふたつ。
「太郎君の御衣のことだけれど」
右近の言葉ではっと顔を上げる。はい、と一息分遅れて返事をした。
「一昨日ね、布が織り上がったの。縫うのは全てあなたに任せようかと思うのだけれどどうかしら。太郎君は、あなたの腕を気に入っていらっしゃるから。……ただ」
そこで一旦言葉が切れ、右近の瞳は于子の瞳を捉える。案ずるように、慮るように、于子を見下ろす瞳が静かに揺れる。
「あなたも自分の婚儀の準備があるのだから、きっと慌ただしくなるでしょう。無理は言いませんよ」
……ああ、きっと、右近殿は。
下がった眉は気の所為ではない。于子がひた隠しにしようとした心を、右近はおそらく知っている。そうよね、と于子は内心で薄笑う。右近殿は、最初からずっと、わたくしの面倒を見てくださっていたひとなのだから。
「太郎君にはたいそうお世話になりました。わたくしの最後の務めです。最後まで力を尽くします」
自分は随分と大人びた声を出せるようになったのだな、などと思ったのは、昔を思い出していたせいだ。于子はかつての記憶から目を背けるようにそっとまばたきをした。
「頼みましたよ」
かたちの美しい眉を下げたまま、右近が微笑んだ。はい、と于子も笑おうとした。けれども、声を発そうとしたかたちのまま、于子のくちびるはひたと止まる。
