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于子が女房として左大臣家に仕え始めたのは十四の冬。父に連れられて初めて足を踏み入れた東三条の左大臣邸は、真白き雪を紅の山茶花が鮮やかに彩り、秘色の水を湛えた池は、大きく首を動かしてようやく端が見えるほど。于子の父も受領として富を蓄えていたから家にだって花も池もあったけれども、目の前に広がる景色はまるでものがたりの中のそれのようで、殿上人というのはこれほどまでに見ている景色が違うのかと目を見ひらいた。邸の主である左大臣に挨拶をすると、父は于子を残して帰ってしまった。生まれて初めての、自分の邸以外の場所で過ごすとき。今までは姫君とかしずかれる側だったけれども、面倒を見てくれることになった右近に連れられて、于子は女房としての仕事をこなす。初めの頃こそ勝手の判らぬ仕事に疲れ切り、自分の局でひっそりと泣くこともあったものの、しかし一月もすれば慣れてゆき、得意な仕事も見つかった。
あなたが縫ったのだから、あなたがお持ちなさい。
雪もとうに解け、風が春の匂いを多分にふくんだころ。右近に言いつけられ、于子は左大臣の嫡男である太郎君のところへ向かっていた。透渡殿のすぐそばに植えられた桜の木を見上げると、まだ少しつぼみが残っているけれども、柔らかにほころんだ花びらが美しく枝を彩っていた。ひそやかに風とたわむれ、ひとつ、ふたつ。枝を離れた花びらはゆらゆらと空を舞って、音を立てずに落ちてゆく。
さくらばな、ちりぬるかぜの、なごりには。
知らず知らずのうちに、于子はそう口ずさんでいた。名残惜しく思いながらもその場を過ぎた。ひたひたと裸足が踏む簀子は微かに冷たい。太郎君の居所がある西の対にたどり着いた。すぐにそのひとは見つかった。高欄の柱にもたれ、ゆるりと座している。于子は簀子に膝をつき、ひとつ息を吸って声を掛ける。
「おくつろぎのところ失礼いたします、太郎君。御衣ができあがりましたのでお持ちいたしました」
澄んだ空を眺めていた太郎君は、少し驚いたような素振りを見せてから、こちらを振り向いた。儚げで、水晶を思わせる冴え冴えとした顔立ちをしていた。かたちの美しい薄いくちびるを緩め、そのひとはおもむろに手を伸ばす。衣擦れの音がして、ふわりと伽羅の香があたりに揺らめいた。于子は膝立ちのまま前に進み出て、できあがったばかりの衣を差し出した。受け取った衣に眼差しを向け、ほう、と太郎君は息を吐く。
「……このように美しい縫い目は初めて見る。上手いんだね」
ありがとうございますと返しながら、思わず子供のような笑みが零れた。ああまた、はしたないですよと母上に宥められてしまうと思ったけれども、こちらに向き直った太郎君の眼差しは、驚く程に優しかった。
「新しいひと……だよね」
「はい。藤原の、伊予守の女です。伊予と呼ばれております」
「ああ、伊予守の。伊予守は息災? 先の宴で倒れていたようだけど」
その言葉で、先日受け取った兄からの文の内容を思い出した。端のほうにさりげなく、笑いばなしとして書かれていたことだ。于子が左大臣家に仕え始めてすぐのころ、父は五条の邸で催された宴で、山茶花よりも顔を真っ赤にして倒れたという。
「は……はい。ええと、その節はお見苦しいところをお見せいたしました。お酒が強くないのに飲みすぎたようで。ですが次の次の日くらいにはもうすっかり良くなって、伊予に戻ったそうでございます」
「久方ぶりに京に戻ってきたのだから、人が集うのだろうね。皆に酒を勧められたらたまったものじゃなかっただろう。息災なら良かった」
その宴があったのは、もう二月も前のこと。その後も何度も宴はあっていただろうに、ただの地方官に起きた出来事を覚えている殿上人を意外な思いで見つめる。見つめた先の儚げな瞳が、ひとつ、まばたきをする。絹糸のように細く繊細な睫毛が揺れる。眼差しを緩めて、太郎君が微笑んだ。美しく優しく穏やかで、これまでに見たことがないほどに高貴な笑みだった。
「また、私の衣を縫ってくれると嬉しいよ」
「はい」
嬉しくて、声が高く弾んだ。すると、やはり幼かったのか、くすくすと太郎君が笑う。先程の微笑みとは少し違って親しみやすい笑い方だったけれども、さすがに恥じらう気持ちがうまれる。慌てて頭を下げて、それでは失礼いたします、と下がろうとした。
「待った」
呼び止められ、振り返ると、太郎君はなよやかな指で自分の耳のあたりを示している。
