眠れぬかと思ったもののいつの間にかきちんと眠っていたようで、于子は薄明りの中で目を覚ました。身体を起こすと、引き被っていた衣が下に落ち、身体が冷たい風にさらされる。春になったといえども朝方はまだ寒い。靄がかかったように重い頭を持ち上げ、身支度を整えた。局を出ると風はやはり冷たいものの、山の端から差す光が空に残る薄闇に美しい筋を描いていた。思わず目を細める眩さに、頭の中の靄も少しは晴れた気がした。今日から仕えを辞す一月の間に、太郎君の御衣を仕上げなければならない。今日の仕事を確認するため、于子は右近の局に向かう。一歩一歩進めるごとに、足の先から簀子に熱を奪われてゆく。
「あ、」
建物の角から、出仕前の太郎君が現れた。こちらに向かってくるようで、于子は咄嗟に身をすくめた。けれども渡殿に逃げ道はない。その場に立ち止まり、心の音を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ――。息を吸って、于子は足を前に踏み出した。大丈夫だと自分に言い聞かせる。身体の芯でどくどくと生み出される熱は、きっと簀子が奪ってくれる。
顔を上げ、一歩一歩進んでゆく。太郎君と目が合い、眼差しを伏せて頭を下げる。すれ違う手前、身体を端に寄せようとしたところで、声を掛けられた。
「桜、戻っていたんだね」
衣擦れの音とともに、ふわりと伽羅が香る。「はい、昨日戻りました」と答えて、瞼を伏せて微笑む。
「久方ぶりの実家で寛げたかな」
「ええ、久しぶりに、父とゆっくり話をしました」
「それは良かった。伊予守は息災?」
「……ええ」
まばたきをした瞼の裏で、桜の花びらが舞う。高貴な微笑は、優しい眼差しは、穏やかな声は――あの頃とまったく変わらない。
「あ、」
建物の角から、出仕前の太郎君が現れた。こちらに向かってくるようで、于子は咄嗟に身をすくめた。けれども渡殿に逃げ道はない。その場に立ち止まり、心の音を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ――。息を吸って、于子は足を前に踏み出した。大丈夫だと自分に言い聞かせる。身体の芯でどくどくと生み出される熱は、きっと簀子が奪ってくれる。
顔を上げ、一歩一歩進んでゆく。太郎君と目が合い、眼差しを伏せて頭を下げる。すれ違う手前、身体を端に寄せようとしたところで、声を掛けられた。
「桜、戻っていたんだね」
衣擦れの音とともに、ふわりと伽羅が香る。「はい、昨日戻りました」と答えて、瞼を伏せて微笑む。
「久方ぶりの実家で寛げたかな」
「ええ、久しぶりに、父とゆっくり話をしました」
「それは良かった。伊予守は息災?」
「……ええ」
まばたきをした瞼の裏で、桜の花びらが舞う。高貴な微笑は、優しい眼差しは、穏やかな声は――あの頃とまったく変わらない。
