「優しい嘘で、私は振られた」

 翌朝。

 教室のドアの前で、私は少しだけ立ち止まっていた。

 ――普通に話す。

 昨日の約束。

 無視をやめる代わりに、ちゃんと“いつも通り”に戻る。

 ……無理。

 そう思いながらも、ドアに手をかける。

 逃げるわけにはいかない。

 約束したから。

 それに――

 このまま避け続けるのも、限界だった。

 教室に入る。

 いつもと同じ朝。

 でも。

「おはよ」

 すぐに声が飛んできた。

 迷いなく、まっすぐ。

 顔を上げる。

 彼がいた。

 いつもの席で、こっちを見ている。

 ……逃げられない。

「……おはよ」

 小さく返す。

 たったそれだけなのに、心臓がうるさい。

「ちゃんと返した」

 少しだけ笑う。

「約束守るじゃん」

「……守るよ」

 それくらいは。

 それくらいしか、できないから。

「へぇ」

 少しだけ満足そうな顔。

 でも、その目はまだこっちを見ている。

 外さない。

 席に座る。

 ノートを出す。

 でも、落ち着かない。

 横から視線を感じる。

「……なに」

 思わず言ってしまう。

「見すぎ」

「見てる」

 即答。

「なんで」

「見れるから」

 意味分からない。

「……やめて」

「やだ」

 昨日と同じやり取り。

 でも。

 今日は少しだけ違う。

 空気が、軽い。

 ピリついていない。

「……普通に話すって、これ?」

「なにが」

「距離近いの」

「いつも通りだけど」

 あっさりと言う。

 ――そうだ。

 前は、これが普通だった。

 距離が近くて。

 軽くて。

 何も考えずに、話せていた。

 でも。

 今は違う。

「……前より近い」

「気のせい」

「気のせいじゃない」

「じゃあ意識してるだけ」

 その一言に、言葉が詰まる。

「……してない」

「してる」

 即答。

「めっちゃしてる」

 少しだけ笑う。

 その顔に、少しだけイラっとする。

「してないって」

「じゃあ顔見て言って」

「……」

 無理。

 そんなの。

 でも。

「ほら」

 顔を覗き込まれる。

 距離が近い。

 逃げ場がない。

「……してない」

 なんとか言う。

 目を逸らしながら。

「はい、してる」

 即座に返される。

「逸らしてる時点でアウト」

「……うるさい」

 思わず言い返す。

 その瞬間。

 彼が、少しだけ笑った。

 今度はちゃんと、楽しそうに。

「やっといつも通り」

 ぽつりと呟く。

 その言葉に、少しだけ胸がざわつく。

 授業中。

 ノートを取りながら、ふと気づく。

 ――静かだ。

 さっきまであんなに絡んできてたのに。

 後ろからの視線も、感じない。

 少しだけ気になって、振り返る。

 彼は、普通に授業を受けていた。

 こっちを見ていない。

 ……なんで。

 さっきまで、あんなに見てたのに。

 少しだけ、落ち着く。

 でも同時に。

 なぜか、少しだけ――

 物足りない。

「……」

 何それ。

 意味分からない。

 さっきまで、嫌だったのに。

 昼休み。

 今日は、普通に教室で食べることにした。

 逃げない。

 避けない。

 それが約束。

「ここいい?」

 声がして、顔を上げる。

 彼が、トレーを持って立っていた。

「……いいけど」

 断る理由もない。

 むしろ、断ったらまた面倒になる。

「どうも」

 軽く言って、向かいに座る。

 距離、近い。

 でも。

 さっきよりは、マシ。

「……」

 少しの沈黙。

 前なら、ここで自然に会話が始まっていた。

 でも今は。

 どこかぎこちない。

「……なんか変」

 ぽつりと、彼が言う。

「なにが」

「普通にしてるのに、普通じゃない」

 その言葉に、少しだけドキッとする。

 ……分かるの?

 そんなの。

「気のせい」

「気のせいじゃない」

 即答。

 迷いなし。

「なんか、距離ある」

 ――やっぱり。

「……昨日まであんな避けてたんだから、急には無理でしょ」

 正直に言う。

 それくらいは、いいと思った。

「まぁ、それはそう」

 あっさり納得する。

 でも。

「でもさ」

 少しだけ顔を上げる。

「それでも話すってことは、完全に嫌いじゃないってことだよな」

 ――え。

 言葉が詰まる。

 そんな風に、考えるの?

「……別に」

「別にじゃねーよ」

 少しだけ笑う。

「嫌いなら、そもそも来ねーだろ」

「……来るよ」

「来ねーよ」

 即答。

「俺なら来ない」

「……知らないし」

「じゃあなんで来たの」

 まっすぐ聞かれる。

 逃げ場なし。

「……約束だから」

 それが、一番安全な答え。

「へぇ」

 少しだけ間。

「じゃあ約束なかったら?」

 ――え。

 考えてなかった。

 そんなこと。

「……来てない」

 小さく言う。

 本音。

 その方が、楽だから。

「そっか」

 短く、それだけ。

 それ以上は、何も言わなかった。

 少しの沈黙。

 でも。

 空気は、さっきより少しだけ重い。

「……なぁ」

 彼が、ぽつりと呟く。

「昨日言ってたやつ」

「なに」

「“同じになるから変えた”ってやつ」

 心臓が跳ねる。

 その話、するの?

「……なに」

「同じってなに」

 また、その質問。

 避け続けてきたやつ。

「……」

 言えない。

 言えるわけない。

「……言えないならいい」

 意外なほど、あっさり引く。

 でも。

「その代わり」

 少しだけ目が細くなる。

「勝手に決めんな」

 低く、はっきり。

「俺、そんな弱くないから」

 ――え。

「何があっても、勝手に終わらせんなよ」

 その言葉に、胸がざわつく。

 ……何それ。

 どういう意味。

 何も知らないくせに。

 あの未来も。

 あの言葉も。

 全部。

「……知らないくせに」

 思わず、出てしまう。

 彼が、少しだけ目を見開く。

「……なにを」

「……なんでもない」

 すぐに目を逸らす。

 言いすぎた。

 絶対、怪しまれる。

「……」

 彼が黙る。

 じっと、こっちを見る。

 さっきまでの軽さが、消えている。

 ――まずい。

 これ以上、踏み込まれたら。

「……ほんとに、なんでもない」

 小さく言う。

 でも。

 その言葉は、全然軽くならない。

 少しの沈黙のあと。

「……まぁいいや」

 彼が、ぽつりと呟く。

「今は」

 その一言に、少しだけ引っかかる。

 “今は”。

 じゃあ、あとで聞くつもり?

「……」

 何も言えない。

 でも。

 そのとき、ふと思う。

 もしかして――

 変わってるのは、私だけじゃないのかもしれない。

 だって。

 前の彼は、こんな風に踏み込んでこなかった。

 こんな風に、しつこく聞いてこなかった。

 こんな風に――

 離れようとしなかった。

 じゃあ。

 なんで、今は違うの?

 答えは、まだ分からない。

 でも。

 確実に何かが、少しずつズレ始めている。