「優しい嘘で、私は振られた」

――近い。

 とにかく、近い。

 あと一歩で触れそうな距離で、彼が立っている。

 視線は逸らせない。
 逸らしたら、それも“反応”になる気がして。

 呼吸が浅くなる。

 でも。

 ――無視。

 やるって決めたから。

「……」

 彼は何も言わない。

 ただ、じっと見てくる。

 試すみたいに。

 追い詰めるみたいに。

 この沈黙が、一番きつい。

 数秒。

 いや、もっと長く感じたかもしれない。

 そのあと。

「……すげーな」

 ぽつりと、言われる。

「ほんとにやるんだ」

 少しだけ、感心したような声。

 でも。

 その奥にある感情は、分からない。

「……」

 無視。

 徹底する。

 あと少し。

 このままいけば――

「じゃあ、これも?」

 その瞬間。

 指先が、そっと触れた。

 手首に。

 びくっと体が反応する。

 でも。

 声は出さない。

 顔も上げない。

 ――耐える。

 これくらい。

 これくらいなら。

「……反応しないんだ」

 少しだけ低い声。

 さっきより近い。

 息がかかる距離。

 心臓が、うるさい。

 でも。

 無視。

 ゆっくりと、指が離れる。

 一瞬、安心した。

 このまま終わるかもしれないって。

 でも。

「……じゃあさ」

 次の瞬間。

 ぐっと、腕を引かれた。

「……っ」

 バランスが崩れる。

 体が前に引き寄せられる。

 気づいたときには――

 すぐ目の前に、彼の顔があった。

 近い。

 近すぎる。

 逃げられない。

「これでも?」

 低く、囁く。

 その距離に、頭が真っ白になる。

 ――無理。

 こんなの。

 無理に決まってる。

「……」

 でも。

 声を出したら終わり。

 反応したら負け。

 だから。

 何も言わない。

 何も、しない。

 数秒。

 彼が、じっとこっちを見ている。

 その目が、少しだけ揺れた。

 ほんの一瞬。

 何か、迷ったみたいに。

 でも。

 すぐに消えた。

「……」

 ゆっくりと、手が離れる。

 距離が戻る。

 空気が少しだけ軽くなる。

「……ほんとにやるんだな」

 小さく呟く。

 さっきよりも、少しだけ静かな声。

「……はい、俺の負け」

 え。

 思わず顔を上げる。

 今の、反応じゃない?

 でも。

「ちゃんと耐えたじゃん」

 あっさりと言う。

 その顔は、少しだけ笑っていた。

 でも。

 その笑いは、どこか寂しそうで。

「……なんで」

 思わず、口に出ていた。

 ――しまった。

 また、反応してる。

 でも。

 彼は気にしていないみたいに、肩をすくめた。

「別に」

「……負けてないでしょ」

「負けてるよ」

 あっさり。

「普通、あそこでなんか言うだろ」

「……」

 言えなかっただけ。

 怖くて。

 動けなくて。

 でも。

 それは言わない。

「約束だし」

 そう言って、彼は少しだけ視線を外した。

「一個、言うこと聞く」

 ――なんでも。

 その言葉に、胸がざわつく。

「……いい」

 反射的に、断る。

 こんなの、怖い。

「なんで」

「いいから」

「よくねーよ」

 少しだけ強く言う。

「俺が負けたんだから、ちゃんと使え」

「使わない」

「使え」

「使わない」

 小さな言い合い。

 でも。

 その空気は、さっきまでと少し違った。

 少しだけ――

 軽い。

「……じゃあ俺が決める」

 は?

「お前、明日」

 少しだけ考えてから。

「普通に話せ」

 ――え。

「無理」

 即答する。

「なんで」

「なんでもいいって言ったでしょ」

「言ったけど、それはナシ」

「なんで」

「それがいいから」

 理不尽。

 でも。

 拒否できない。

 約束だから。

「……最低」

 小さく呟く。

「知ってる」

 あっさり返される。

 でも、その声は少しだけ柔らかい。

 少しの沈黙。

 風が吹く。

 昼休みのざわざわした空気。

 でも。

 この空間だけ、少しだけ違う。

「……なぁ」

 彼が、ぽつりと呟く。

「前からさ」

 その言葉に、少しだけ意識が向く。

「なんでそんな顔すんの」

「……は?」

「今じゃなくて」

 視線が、こっちに戻る。

「前から」

 少しだけ、真剣な目。

「たまに、変な顔してた」

 ――え。

「なんか、我慢してるみたいな」

 心臓が、止まりそうになる。

「……してない」

 すぐに否定する。

 でも、弱い。

「してた」

 即答。

「気づいてたし」

 その一言に、息が詰まる。

 ――気づいてた?

 そんなの、嘘。

 だって。

 あのときは。

 あの告白のときは――

「……」

 言葉が出ない。

 頭が混乱する。

「……まぁいいけど」

 彼は、あっさりと話を切った。

「どうでもいいんだろ?」

 また、その言葉。

 でも。

 さっきとは違う。

 少しだけ、静かで。

 少しだけ――

 寂しそうで。

「……うん」

 小さく頷く。

 それしか、言えない。

「……そっか」

 短く、それだけ。

 それ以上は何も言わなかった。

 昼休みの終わりのチャイムが鳴る。

 立ち上がる。

 これで終わり。

 そう思った。

 のに。

「……明日、忘れんなよ」

 後ろから声。

「普通に話すってやつ」

 軽く言う。

 でも。

 その声には、どこか期待が混ざっている気がした。

 教室に戻る途中。

 胸が、ずっとざわざわしている。

「……なんで」

 小さく呟く。

 気づいてたって、なに。

 我慢してた顔って、なに。

 そんなの――

 知らなかった。

 気づかれてないと思ってた。

 ずっと。

 でも。

 もし、本当に気づいていたなら。

 どうして――

 あのとき。

 笑ったの?

 答えは、分からない。

 でも。

 確実に何かが、少しずつ繋がり始めている。

 そんな気がした。