「優しい嘘で、私は振られた」

――やるって言った。

 だから、やるしかない。

 教室に戻って、自分の席に座る。

 視線は前だけ。

 後ろは見ない。

 絶対に。

「……」

 分かってる。

 見られてる。

 さっきの“賭け”、本気でやるつもりでいるってこと。

 だから余計に、視線が重い。

 でも。

 無視。

 徹底する。

「なぁ」

 後ろから声。

 反応しない。

「おい」

 反応しない。

「聞こえてるよな」

 反応しない。

 ペンを動かす。

 ノートに視線を落とす。

 何も聞こえていないふり。

「……マジでやってんの?」

 少しだけ低い声。

 でも、無視。

 絶対に振り返らない。

 数秒の沈黙。

 そのあと。

「……へぇ」

 小さく、笑うような音。

 でも、その笑いは軽くない。

「ほんとにやるんだ」

 ぽつりと、呟くみたいに言う。

 でも。

 それでも、振り返らない。

 授業が始まる。

 先生の声が響く。

 でも、頭に入らない。

 後ろが、気になる。

 気にしちゃダメなのに。

 気にしたら終わりなのに。

 でも。

 気になる。

 ふと、背中に何か当たった。

 小さな衝撃。

 振り返りそうになるのを、必死でこらえる。

 机の横に、丸めた紙が落ちている。

 ……絶対、あいつ。

 でも、拾わない。

 見ない。

 関わらない。

 それがルール。

「……」

 少しだけ間があって。

 また、小さな音。

 今度は、もう少し強く当たる。

 ……しつこい。

 でも、無視。

 徹底する。

 昼休み。

 席を立つ。

 今日はトイレに行くふりして、そのまま別の場所で食べよう。

 そう思って歩き出した瞬間――

「ちょっと待て」

 腕を掴まれた。

「……っ」

 反射的に振り払う。

 でも、また掴まれる。

「無視すんなって言ってんだろ」

 低い声。

 昨日よりも、さらに低い。

「……」

 答えない。

 目も合わせない。

 そのまま、もう一度振り払おうとする。

「いい加減にしろよ」

 ぐっと、力が強くなる。

 少し痛いくらい。

「……離して」

 やっと、言葉を出す。

 それでも視線は合わせない。

「話しかけんなって言ったの、お前だろ」

「……」

 言葉が詰まる。

 確かに、言った。

 でも。

「じゃあなんで返事した」

 低く、問いかけられる。

「……」

「今、“離して”って言ったよな」

 ……しまった。

 完全に、ミス。

 反応してしまった。

「どうでもいいんじゃなかったの?」

 昨日と同じ言葉。

 でも、今回は少しだけ違う。

 少しだけ、苛立ちが強い。

「……条件反射」

 小さく言う。

 苦しい言い訳。

「便利だな、それ」

 吐き捨てるように言う。

 でも、手は離さない。

「……やめて」

「やめない」

 即答。

 迷いなし。

「……っ」

 振り払おうとする。

 でも、離れない。

「なんでそんな徹底してんの」

 また同じ質問。

 でも、今度は少しだけ違う。

 さっきよりも、近い。

 距離が。

「……関係ないでしょ」

 やっと言い返す。

「ある」

「ない」

「ある」

 また同じやり取り。

 でも、今回は引かない。

「俺のこと無視するって言ったの、お前だろ」

「……だからしてる」

「できてねーじゃん」

「……今のは例外」

「例外多すぎ」

 ため息。

 苛立ちが隠れてない。

「……ちゃんとやれよ」

 ぽつりと、言う。

 その言葉に、少しだけ違和感を感じる。

 ……なんで。

 なんでそんなこと言うの。

 普通、止める側じゃないの。

 無視される側なのに。

「できねーなら、最初から言うな」

 続けられる言葉。

 少しだけ、冷たい。

 でも。

 どこか――

 試してるみたいな。

「……やる」

 小さく、言う。

「ちゃんとやる」

 強がりでもいい。

 ここで引いたら、全部終わる。

「……へぇ」

 少しだけ、笑う。

 でもその目は、やっぱり笑っていない。

「じゃあ、次は絶対反応すんなよ」

 じっと見てくる。

「何されても」

 その一言に、心臓が跳ねる。

「……わかった」

 小さく頷く。

 引けない。

 もう。

 その瞬間。

 彼の手が、ふっと離れた。

「……いいよ」

 あっさり。

 でも、その声は低いまま。

「どこまでできるか、見てるから」

 そう言って、少しだけ距離を取る。

 でも、完全には離れない。

 逃げ道は、まだ塞がれている。

 しばらくの沈黙。

 周りのざわざわした声だけが聞こえる。

 でも。

 その中で、彼の視線だけがやけに強い。

「……」

 息が苦しい。

 何もしてないのに。

 ただ、見られてるだけなのに。

 それだけで、こんなに――

「……なぁ」

 また、声。

 低くて、近い。

 でも。

 ――無視。

 約束したから。

 何されても、反応しないって。

「……」

 彼が、一歩近づく気配。

 分かる。

 音で。

 空気で。

「……ほんとに無視すんの?」

 すぐ近くで、声。

 耳元に近い距離。

 でも。

 無視。

 何も聞こえないふり。

 数秒の沈黙。

 そのあと。

 ふっと、空気が動いた。

 次の瞬間――

 顎に、軽く指が触れた。

「……っ」

 反射的に、顔が上がる。

 視線が、ぶつかる。

 至近距離。

 逃げ場なし。

「今のも反応?」

 低く、囁くみたいに言う。

 近い。

 近すぎる。

 心臓が、うるさい。

「……」

 言葉が出ない。

 無視、できなかった。

「ほら」

 少しだけ口角を上げる。

「やっぱ無理じゃん」

 勝った、みたいな顔。

 でも。

 どこか余裕がない。

「……」

 悔しい。

 でも、それ以上に。

 ――怖い。

 こんな距離、知らない。

 こんな彼、知らない。

「……続ける?」

 小さく、問われる。

 試すみたいに。

「それとも、やめる?」

 逃げ道を出される。

 でも。

 それは、選びたくない。

「……やる」

 震える声で、言う。

 彼の目が、少しだけ細くなる。

「意地張るなよ」

「張ってない」

「張ってる」

 即答。

「めっちゃ張ってる」

 少しだけ笑う。

 でも、その奥は読めない。

「……じゃあさ」

 少しだけ距離を戻して。

「次、反応したら負けな」

 軽く言う。

 でも、その目は本気。

「負けたら?」

 思わず、聞いてしまう。

「なんでも一つ、言うこと聞く」

 ――は?

「無理」

「じゃあやめる?」

「……やる」

 また、それを選ぶ。

 引けない。

 ここまで来たら。

「いいよ」

 小さく頷く。

「じゃあ、続き」

 その言葉と同時に。

 また、一歩近づく。

 さっきよりも、さらに。

 逃げ場なんて、最初からないみたいに。

 ――無理。

 本能が、そう叫ぶ。

 でも。

 やめたくない。

 やめたら、全部崩れる。

 だから。

 耐える。

 絶対に。

 でも。

 その決意とは裏腹に。

 彼の距離は、どんどん近づいてくる。

 まるで――

 逃がす気なんて、最初からないみたいに。