「優しい嘘で、私は振られた」

 逃げるつもりだった。

 放課後のチャイムが鳴った瞬間、誰よりも早く教室を出るつもりで。

 でも――

「待てって」

 ドアの前で、先に立っていたのは彼だった。

 ……最悪。

「どいて」

「どかない」

 即答。

 逃げ道、塞がれてる。

「急いでるから」

「じゃあ早く終わらせる」

「何を」

「話」

 短い言葉。

 でも、その目は本気だった。

 ふざけてない。
 軽くもない。

 逃げられないって、分かる。

「……はぁ」

 小さくため息をつく。

「ここで?」

「人多いし、無理」

「じゃあどこ」

「屋上」

 その一言に、心臓が強く鳴った。

 ――屋上。

 あの日と、同じ場所。

 同じシチュエーション。

「……やだ」

 反射的に拒否する。

 行きたくない。

 思い出したくない。

「なんで」

「行きたくないから」

「理由」

「ない」

「あるだろ」

 食い下がる。

 逃がす気、ない。

「……」

 沈黙。

 でも、このままここで揉めるのも目立つ。

 周りの視線も気になる。

「……5分だけ」

 小さく言う。

「それ以上は無理」

「いい」

 即答だった。

 屋上。

 夕焼け。

 風。

 全部、あの日と同じ。

 違うのは――

 立ち位置。

 私はフェンス側じゃない。
 彼から少し距離を取った位置に立っている。

「で」

 先に口を開いたのは彼だった。

「なんで避けてんの?」

 ストレート。

 回りくどさゼロ。

 だからこそ、答えに困る。

「避けてない」

「避けてる」

「気のせい」

「昨日からずっとだろ」

 即座に返される。

 逃げ場がない。

「……たまたま」

「たまたまであんな露骨になんねーよ」

 正論。

 何も言えない。

「……」

 沈黙が落ちる。

 風の音だけが響く。

 居心地が悪い。

 苦しい。

「……俺、なんかした?」

 少しだけトーンが落ちる。

 さっきまでより、低くて。

 ほんの少しだけ、不安が混ざってるみたいな声。

 ――したよ。

 思いっきり。

 でも、それは“こっちの時間”の話。

 今の彼には、関係ない。

「してない」

 短く答える。

「じゃあなんで」

「……なんでもないって言ってるでしょ」

 少しだけ強く言う。

 これ以上、踏み込まれたくない。

「……」

 彼が黙る。

 じっと、こっちを見る。

 その視線に、また心臓がうるさくなる。

「……意味わかんねー」

 小さく吐き捨てる。

「昨日まで普通だったじゃん」

 ――普通、じゃなかったよ。

 私はずっと、好きだった。

 でも、あなたは――

「……変わっただけ」

 ぽつりと、言う。

「は?」

「気持ちが」

 一瞬、言ってしまいそうになる。

 “好きだったけど、やめた”って。

 でも。

 それは言えない。

 言ったら、全部崩れる。

「……どう変わったの」

 彼の声が、少しだけ低くなる。

 探るみたいに。

 確かめるみたいに。

「……どうでもよくなった」

 出た言葉は、それだった。

 本当じゃない。

 でも、嘘でもない。

 無理やり、そう思い込もうとしてるだけ。

 その瞬間。

 空気が、変わった。

「……は?」

 彼の表情が、一気に固まる。

「どうでもいいってなに」

「そのまま」

「俺が?」

「……」

 答えない。

 でも、それが答えみたいなものだった。

「……ふざけんなよ」

 低く、押し殺した声。

 怒ってる。

 明らかに。

「昨日まで普通に話してたやつが、急に“どうでもいい”とか意味わかんねーだろ」

「しょうがないでしょ」

 思わず、言い返す。

「変わるときは変わるんだから」

「そんな簡単に変わんのかよ」

「変わるよ」

「じゃあ今までなんだったんだよ」

「……知らない」

 投げるように言う。

 これ以上、続けたくない。

 苦しい。

「……っ」

 彼が言葉を詰まらせる。

 初めて見る顔だった。

 怒ってるのに、どこか戸惑ってるみたいな。

 理解できてない顔。

「……もういい」

 小さく言って、私は背を向けた。

 これ以上いたら、壊れる。

 自分が。

 決めたはずなのに。

 全部、揺らぎそうになるから。

「待てよ」

 腕を掴まれる。

 強い。

 今までで一番、強い。

「……離して」

「よくねーだろ」

 低い声。

 怒りと、何か別の感情が混ざってる。

「どうでもいいとか言われて、はいそうですかってなるわけねーじゃん」

「……知らない」

「俺は知る」

 即答。

 迷いがない。

「なんでそんな変わったのか、ちゃんと聞く」

「聞かなくていい」

「よくねーよ」

 距離が、一気に詰まる。

 逃げ場がない。

 目を逸らせない。

「……なんでだよ」

 少しだけ、声が落ちる。

 さっきまでの怒りとは違う。

 もっと、奥の方の感情。

「なんで急に、そんなこと言うんだよ」

 その問いに――

 一瞬だけ、心が揺れた。

 だって。

 本当は、どうでもよくなんかないから。

 むしろ、まだ――

 でも。

 ダメだ。

 ここで崩れたら、全部無駄になる。

「……ほんとに、どうでもいいだけ」

 言い切る。

 自分に言い聞かせるみたいに。

「もう、関わらないで」

 はっきりと。

 線を引く。

 その瞬間。

 彼の手が、ゆっくりと離れた。

「……は」

 小さく、笑うような音。

 でもそれは、全然楽しそうじゃなかった。

「そこまで言う?」

 低い声。

 怒ってるのに、どこか冷えてる。

「……うん」

 小さく頷く。

 これで終わり。

 そう思った。

 のに――

「……わかった」

 意外なほど、あっさりとした返事。

 一瞬、拍子抜けする。

「じゃあもういい」

 そのまま、背を向ける。

 あっさり。

 本当に、あっさり。

 ――え。

 そんなに簡単に?

 昨日まであんなに食い下がってたのに?

 一瞬だけ、胸がざわつく。

 でも。

 それでいい。

 その方がいい。

 そう思おうとした、そのとき。

「……ただ」

 彼が、立ち止まった。

「俺は諦めないけど」

 振り返らないまま、そう言った。

「どうでもいいとか、勝手に決めんな」

 低く、はっきりと。

「それ、俺が決めることだから」

 ――え。

 理解が追いつかない。

 何それ。

 どういう意味。

 でも。

 問い返す前に、彼はそのまま屋上を出ていった。

 一人、残される。

 風が強く吹く。

「……なにそれ」

 ぽつりと、呟く。

 意味が分からない。

 どうしてそんなこと言うの。

 あのときは。

 笑ったくせに。

 どうでもよさそうに、終わらせたくせに。

「……ほんとに、意味わかんない」

 でも。

 胸の奥が、うるさい。

 ざわざわして、落ち着かない。

 まるで――

 何かが、始まってしまったみたいに。