「優しい嘘で、私は振られた」

 翌朝。

 教室に入った瞬間、また視線を感じた。

 ……分かってる。

 見なくても、誰かなんて。

 私はそのまま、自分の席に向かう。

 いつも通りに。

 何も変わってないふりをして。

「おはよ」

 横を通り過ぎるとき、軽く声をかけられる。

 昨日と同じ。

 でも今日は――

「……」

 返さなかった。

 聞こえていないふりをして、そのまま席に座る。

 鞄を置いて、ノートを出す。

 手は少しだけ震えていた。

「……は?」

 小さく、聞こえた。

 でも無視する。

 もう、決めたから。

 中途半端はしない。

 完全に距離を取る。

 それが、一番安全だから。

 授業が始まっても、落ち着かない。

 背中に、ずっと視線を感じる。

 気のせいじゃない。

 確実に、見られてる。

 ……なんで。

 前は、こんなことなかったのに。

 休み時間。

 席を立とうとした瞬間、机を軽く叩かれた。

「なぁ」

 顔を上げる。

 すぐ目の前に、彼。

 近い。

 昨日より、さらに距離が近い。

「……なに」

「いや、“なに”じゃなくてさ」

 少しだけ、苛立った声。

「無視すんなって」

「無視してない」

「してたろ今」

「聞こえなかっただけ」

「嘘つけ」

 即答。

 逃がしてくれない。

「……別に、話すことないでしょ」

「あるから来てんだけど」

「私はない」

 視線を逸らす。

 それ以上、踏み込ませないように。

「……はぁ」

 小さく、ため息。

 その音に、胸がちくっとする。

 前なら、ここで何か軽口が返ってきて、笑って終わってた。

 でも今は違う。

 空気が重い。

「……マジでなんなの」

 低く、呟くみたいに言う。

「急に態度変えすぎだろ」

「変えてない」

「変えてる」

「気のせい」

「気のせいじゃねーよ」

 言い合いみたいになる。

 こんなの、初めてかもしれない。

 いつもは、こんな風にぶつからなかったのに。

「……じゃあ、なんで」

 彼が言いかけたとき。

「ちょっとー」

 横から、明るい声が入った。

「なに、ケンカ?」

 クラスの女子が、興味ありげに覗き込んでくる。

「別に」

 私はすぐに立ち上がった。

「違うから」

 それだけ言って、その場を離れる。

 これ以上、見られたくない。

 関わりたくない。

 廊下を歩きながら、息を吐く。

「……最悪」

 小さく呟く。

 うまくいってない。

 距離を取るって決めたのに、余計に絡まれてる気がする。

 なんで。

 どうして。

 前は、あんなにどうでもよさそうだったのに。

 放課後。

 今日は絶対に、すぐ帰る。

 そう決めて、急いで荷物をまとめる。

 教室を出ようとした、そのとき。

「待てって」

 また、腕を掴まれた。

「……っ」

 反射的に振り返る。

 彼だ。

 今日は、逃がす気がないみたいに、しっかり掴まれている。

「……なに」

「いい加減、ちゃんと話せよ」

 真っ直ぐな目。

 ふざけてない。

 本気だ。

「話すことないって言ってるでしょ」

「ある」

「ない」

「ある」

 同じ言葉の繰り返し。

 でも、引く気配がない。

「……離して」

「やだ」

「は?」

 予想外の返答に、思わず顔を上げる。

 彼は、少しだけ苛立った顔をしていた。

「逃げるだろ、お前」

「逃げてない」

「逃げてる」

「逃げてないって」

「じゃあなんで避けんの」

「避けてない」

「避けてる」

 また同じやり取り。

 でも、さっきよりも距離が近い。

 声も低い。

 逃げ場がない。

「……ほんとに、なんでもないから」

 少しだけ声が弱くなる。

 それでも、これ以上は言えない。

「……」

 彼が黙る。

 じっと、こっちを見る。

 その視線に、心臓がうるさくなる。

 やめて。

 そんな顔、しないで。

「……じゃあさ」

 少しだけ間を置いて。

「俺のこと、嫌いになった?」

 ――え。

 一瞬、言葉が出なかった。

 そんなこと、考えたこともなかった。

 嫌い、なんて。

 なれるわけない。

 でも。

 ここで否定したら、意味がない。

 また、同じになる。

「……別に」

 曖昧に答える。

 それが、一番安全だと思ったから。

 でも。

「“別に”ってなんだよ」

 彼の声が、少しだけ強くなる。

「嫌いかどうか聞いてんだけど」

「……」

 答えられない。

 本当は、嫌いじゃない。

 むしろ、まだ――

 でも。

 言えない。

「……わかんない」

 やっと出た言葉は、それだった。

 嘘でも本当でもない、逃げの答え。

 その瞬間。

 彼の表情が、明らかに変わった。

「……は?」

 信じられない、みたいな顔。

「わかんないってなに」

「そのまま」

「いや意味わかんねーよ」

「だから、わかんないって言ってるでしょ」

 少しだけ強く言い返す。

 これ以上、踏み込ませないために。

「……」

 沈黙。

 さっきまでの勢いが、少しだけ落ちる。

 でも。

 その代わりに。

 何か別の感情が、混ざった気がした。

「……そっかよ」

 低く、吐き捨てるみたいに言って。

 やっと、手が離された。

 解放された腕を押さえながら、一歩下がる。

 距離ができる。

 でも。

 なぜか、さっきよりも息が苦しい。

「……じゃあな」

 彼はそれだけ言って、背を向けた。

 そのまま、教室を出ていく。

 呼び止めなかった。

 呼べなかった。

 一人になった教室で、立ち尽くす。

「……なにこれ」

 小さく、呟く。

 分からない。

 全部、分からない。

 前はこんなこと、なかった。

 こんな風に追いかけてくることも。

 こんな顔をすることも。

 全部。

 違う。

 でも。

 たった一つ、確かなことがある。

 それは――

 彼の中で、何かが変わり始めているってこと。

 そしてそれは、きっと。

 私が“距離を取ったから”。

 ――どうして。

 どうして今さら。

 胸の奥が、ざわざわする。

 嫌な予感がする。

 このままじゃ、きっと。

 また――