「優しい嘘で、私は振られた」

 夢じゃない。

 それは、時間が経てば経つほど、はっきりしていった。

 黒板に書かれた日付。
 クラスメイトの会話。
 窓の外の景色。

 全部が、昨日までの“あの日常”と同じ。

 ――いや、違う。

 正確には、「告白する前の世界」と同じ。

 私は一度、あの屋上で振られている。
 笑われて、冗談みたいに終わらされて。

 でも今は、まだ何も起きていない。

 何も知らないふりをして笑っている彼が、そこにいる。

「……」

 胸が、ざわつく。

 思い出したくないのに、勝手に蘇る。

『冗談だろ?』

 あの軽い声。

 あの笑い方。

 あのときの空気。

 全部。

「おい」

 不意に、目の前で手が振られた。

「ぼーっとしすぎ」

 顔を上げる。

 すぐ近くに、彼がいた。

 いつもの距離。
 近すぎるくらいの距離。

「……なに」

 反射的に、少しだけ体を引く。

 その動きに、彼が一瞬だけ眉をひそめた。

「いや、なんか今日変じゃね?」

「別に」

 短く返す。

 目も合わせない。

 それだけで、少し空気が変わったのが分かった。

 でも、構わない。

 もう決めたから。

 ――関わらない。

 好きにならない。

 それが、一番傷つかない方法だから。

「ふーん」

 彼は少しだけ首を傾げてから、あっさりと引いた。

「まぁいいけど」

 そう言って、友達の方へ戻っていく。

 その背中を見て、胸が少しだけ痛んだ。

 ……でも。

 これでいい。

 これが正しい。

 昼休み。

 いつもなら一緒に食べていたメンバーの誘いを断って、私は一人で屋上に来ていた。

 あの日とは違う時間。
 でも、同じ場所。

 フェンスに手をかけて、空を見上げる。

 ――どうして、こんなことになったんだろう。

 過去に戻るなんて、現実じゃありえない。

 理由も分からないし、いつまで続くのかも分からない。

 ただ一つ言えるのは。

 これは“チャンス”だってこと。

 やり直すチャンス。

 でも――

「……やり直さない」

 小さく、呟く。

 やり直すってことは、もう一度好きになるってことだ。

 そしてまた、同じように傷つくかもしれない。

 そんなの、無理だ。

 耐えられない。

 だから私は、選ぶ。

 最初から何もなかったことにする。

 好きじゃなかったことにする。

 そうすれば――

「ここいたんだ」

 背後から、声。

 びくっと肩が跳ねる。

 振り返らなくても分かる。

 この声は――

「……なに」

 ゆっくり振り向くと、やっぱり彼がいた。

 ポケットに手を突っ込んで、いつもみたいに気だるそうに立っている。

「いや、なんかいねーから」

「探してたの?」

「別に。なんとなく」

 軽い。

 いつも通りの、軽い返し。

 ――でも。

 前の私は、こんなことで嬉しくなっていた。

 探してくれた、って。

 少しでも気にしてくれてる、って。

 ……バカみたい。

「ふーん」

 興味なさそうに返す。

 それだけ。

 それだけのはずなのに。

 彼の表情が、ほんの少しだけ変わった。

「……なにその反応」

「普通だけど」

「いや、いつもと違くね?」

「気のせい」

 視線を外す。

 これ以上、近づかれないように。

 期待しないように。

「……」

 沈黙。

 風の音だけが流れる。

 居心地が悪い。

 こんな空気、知らない。

 いつもなら、彼が適当にからかって、私がそれに返して。

 そんな軽いやり取りが続いていたのに。

 今は違う。

 私が壁を作っているから。

「……なぁ」

「なに」

「なんかした? 俺」

 その一言に、心臓が跳ねた。

 ――したよ。

 思いっきり。

 私の気持ち、踏みつけたよ。

 でも。

 そんなこと、言えるわけない。

 だってこの世界の彼は、まだ何もしていないから。

「してない」

 平坦に答える。

「じゃあなんで」

「なんでもないって」

 言い切る。

 これ以上踏み込ませないために。

「……そっかよ」

 少しだけ、不機嫌そうな声。

 でも、それ以上は何も言わなかった。

「じゃあ、戻るわ」

 あっさりと背を向ける。

 そのまま、扉の方へ歩いていく。

 ――それでいい。

 それでいいのに。

 胸の奥が、ぎゅっと痛む。

 呼び止めそうになる。

 でも。

 ぐっとこらえる。

 ここで呼んだら、また同じになる。

 また好きになって、また――

 傷つく。

 だから。

 何も言わない。

 扉が閉まる音がして、完全に一人になる。

 大きく息を吐いた。

「……これでいい」

 自分に言い聞かせる。

 これが正解。

 これでいい。

 そう思っているのに。

 どうしてこんなに、苦しいんだろう。

 その日の帰り。

 靴箱で靴を履き替えていると、後ろから声がした。

「なぁ」

 振り向かなくても分かる。

 今日、何度目だろう。

「……なに」

「今日さ」

 少しだけ間があって。

「マジでなんかあったなら言えよ」

 予想外の言葉に、動きが止まる。

「別に」

「ほんとかよ」

「ほんと」

 短く返す。

 それ以上、会話を続けるつもりはない。

 そのまま立ち上がって、歩き出そうとしたとき――

 腕を、掴まれた。

「……っ」

 驚いて振り返る。

 彼は、真剣な顔をしていた。

 こんな顔、前はあまり見たことがない。

「避けられんの、普通にムカつくんだけど」

 低い声。

 冗談じゃない。

 本気で言ってる。

 ――なんで。

 どうしてそんな顔するの。

 あのときは、笑ったくせに。

「……離して」

「理由言えよ」

「ないって言ってるでしょ」

「あるだろ」

 食い下がる。

 離そうとしない。

 その強さに、胸がざわつく。

 知らない。

 こんな彼、知らない。

「……ほんとに、ないから」

 少しだけ強く言うと、彼は一瞬だけ黙った。

 そして。

 ゆっくりと手を離した。

「……わかった」

 低く、それだけ。

 でもその声には、明らかに不満が滲んでいた。

 外に出る。

 夕焼けが広がっている。

 あの日と同じ色。

 同じ時間。

 でも、違うのは――

 私たちの距離。

 確実に、変わっている。

 それはきっと、いいことのはずなのに。

 どうしてか。

 胸の奥が、ざわざわして落ち着かない。

 ……本当に、これでいいの?

 一瞬、そんな考えがよぎる。

 でもすぐに、首を振る。

 いいに決まってる。

 これ以上、傷つかないためにやってるんだから。

 間違ってない。

 絶対に。

 でも。

 このとき私は、まだ知らなかった。

 この“選択”が――

 彼を変え始めていることに。