「優しい嘘で、私は振られた」

 その日の放課後。

 私は、いつもより少しだけ早く教室を出た。

 ――今日は、関わらない。

 昼の会話が、ずっと頭に残っているから。

『勝手に終わらせんなよ』

 あの言葉。

 意味が分からないくせに、やけに引っかかる。

 だから。

 今日は距離を取る。

 これ以上、踏み込まれないように。

 廊下を歩く。

 早足で。

 追いつかれないように。

 でも――

「待てって」

 やっぱり、来る。

 足音。

 すぐ後ろ。

 振り返らなくても分かる。

「……なに」

 立ち止まらずに言う。

「帰る」

「見りゃわかる」

 すぐ横に並ばれる。

 距離、近い。

 避けようと一歩ずれると、同じ分だけ詰めてくる。

 逃げられない。

「……今日はいいでしょ」

「なにが」

「もう話したし」

「足りない」

 即答。

「何が」

「全部」

 意味分からない。

 でも。

 その声は、軽くない。

「……今日は無理」

 小さく言う。

「なんで」

「なんでもいいでしょ」

「よくねーよ」

 少しだけ、声が強くなる。

 周りの生徒がちらっと見る。

 やめて。

 目立ちたくない。

「……外出る」

 小さく言って、歩く速度を上げる。

 靴箱を抜けて、そのまま校門へ。

 外の空気が、少しだけ冷たい。

「……で」

 校門を出たところで、彼が言う。

「なんで逃げてんの」

 ストレート。

 またそれ。

「逃げてない」

「逃げてる」

「気のせい」

「気のせいじゃねーよ」

 即答。

 もう、何回目。

「……今日は無理って言ってるでしょ」

「理由」

「ない」

「あるだろ」

 同じやり取り。

 でも。

 さっきよりも、空気が重い。

「……」

 黙る。

 言えないから。

 言ったら、全部崩れるから。

「……はぁ」

 小さくため息。

 でも、そのあと。

 急に、腕を掴まれた。

「……っ」

 強い。

 今までで一番。

「いい加減にしろよ」

 低い声。

 抑えてるけど、はっきり分かる。

 怒ってる。

「……離して」

「離さない」

 即答。

 迷いなし。

「なんでそんな逃げんの」

「逃げてないって」

「逃げてる」

 距離が、一気に詰まる。

 逃げ場、なし。

「……ほんとに、なんでもないから」

「それもう聞いた」

 即切り。

「じゃあなんで」

「……」

 言葉が出ない。

 詰まる。

 苦しい。

「……避けんなよ」

 低く、はっきり。

 その一言が、胸に刺さる。

「……避けてない」

「避けてる」

 即答。

「昨日まで普通だったのに、急に距離置かれて、意味わかんねーんだよ」

 感情が、少しだけ出る。

 苛立ちと、戸惑いと。

 混ざってる。

「……変わっただけ」

 小さく言う。

「だから、なんで」

「……」

 言えない。

 言えるわけない。

「……」

 沈黙。

 風の音だけが聞こえる。

 でも。

 その中で、彼の視線だけが強い。

「……なぁ」

 少しだけ、声が落ちる。

 さっきまでより、低くて。

「俺、なんかした?」

 また、その質問。

 何度も聞かれてる。

 でも。

 答えは、同じ。

「してない」

 短く。

「じゃあなんで」

「……」

 言葉が詰まる。

 でも。

 そのまま、黙るしかない。

「……ほんとに?」

 少しだけ、声が揺れる。

「なんもしてねーのに、こんな扱いされてんの?」

 その言葉に、胸が痛む。

 ……違う。

 してる。

 してるよ。

 でも、それは――

 この時間のあなたじゃない。

「……」

 何も言えない。

 言えないから、黙る。

「……はぁ」

 また、ため息。

 でも、今度は少し長い。

「……分かった」

 ぽつりと、言う。

 その声は、さっきまでより静かだった。

「じゃあいい」

 え。

 思わず顔を上げる。

 彼は、ゆっくり手を離した。

「もういいわ」

 そのまま、背を向ける。

 あっさり。

 拍子抜けするくらい。

 ……終わり?

 本当に?

「……」

 何も言えないまま、立ち尽くす。

 これでいい。

 これで、距離が戻る。

 そう思った。

 のに――

「……ただ」

 彼が、立ち止まる。

 振り返らないまま。

「逃げてるのは、お前の方だろ」

 低く、はっきり。

 その一言が、胸に刺さる。

「勝手に決めて、勝手に終わらせて」

 ゆっくり、振り返る。

 その目は、真っ直ぐだった。

「それで逃げてんの、どっちだよ」

 ――っ。

 言葉が、出ない。

 何も言えない。

 全部、図星だから。

「……」

 沈黙。

 でも、彼はそれ以上何も言わなかった。

「……じゃあな」

 それだけ言って、今度こそ歩き出す。

 止まらない。

 振り返らない。

 一人、残される。

 夕焼けが、やけに眩しい。

「……なにそれ」

 小さく呟く。

 分かってる。

 言ってることは、間違ってない。

 でも。

 どうしようもない。

 だって――

「……知らないくせに」

 また、同じ言葉が出る。

 この人は、知らない。

 あの未来を。

 あの言葉を。

 あの痛みを。

 でも。

 胸の奥が、ざわざわする。

 さっきの言葉が、残っている。

『逃げてるのは、お前の方だろ』

 ……違う。

 私は、逃げてない。

 傷つかないようにしてるだけ。

 それだけ。

 なのに。

 どうしてこんなに――

 苦しいの。

 そのとき、ふと思う。

 もし。

 もし、あのとき。

 あの告白のとき。

 何か、違う理由があったとしたら。

 ……そんなわけない。

 だって、笑ってた。

 あんな風に。

 でも。

 もし、あれが――

 “嘘”だったとしたら。

 その考えを、すぐに振り払う。

「……ありえない」

 小さく呟く。

 そんなの、都合よすぎる。

 期待したくない。

 もう、したくない。

 でも。

 その疑いは、小さく胸に残ったまま――

 消えなかった。