マルボロ王国第二王女、クリスティ・アルシェイル・マルボロ。
それが、亡き母からいただいた私の名だ。
あぁ、いや……。
だった、と言うべきかもしれない。
政略結婚として隣国ウルバリス王国のルシアン国王に嫁ぐことになった私は、これからマルボロを名乗る事なんてできないのだから。
「ご安心ください、クリスティ様。ウルバリス王国は番を何よりも尊ぶ国。妻となる方を大切にしてくださるはずですわ」
出立の朝、ウルバリスまで付き添ってくれることになった侍女はそう言って微笑んだ。
突然の結婚に戸惑う私を落ち着かせようとする優しさからの言葉であることは分かっている。
けれどその言葉の中にある“期待”は、私にとって少しだけ重かった。
────番。
それは獣人たちにとって絶対的な伴侶で、生涯ただ一人、魂で結びつく存在。
けれど人間である私には、それが分からない。
ただ一生のうちで番に出逢えるかはもはや産んで、だいたいの獣人は番関係なく結婚してある程度の関係性の中で結婚するものみたいだから、今回の番でないであろう人物との結婚も珍しくはないみたいだけれど。
「ええ、そうね」
私は、ただ曖昧に微笑んで応じるしかなかった。
そもそもこの結婚は、私がルシアン国王の番であるからとかそういう夢物語的な理由で決まっているわけではない。
マルボロ王国とウルバリス王国、両国の利害が一致した結果に過ぎないのだから。
ウルバリスは軍事力を持つが、資金繰りに難がある。
マルボロは財政は安定しているが、軍事力に乏しい。
結婚という結びつきによりウルバリスはマルボロに軍事力を。
マルボロはウルバリスに資金を提供する。
そう。これは、互いに足りないものを補うための婚姻。
そこに愛だの運命だのが入り込む余地は、最初から存在していなかった。
それでも──少しは、まともな待遇だといい。
そう願ってしまう。
馬車の窓から遠ざかる祖国を眺めながら、私は小さく息を吐いた。
***
国境を越えてすぐに到着したウルバリス王国は、想像していたよりもっとずっと、“獣の国”だった。
王都の門をくぐった瞬間から感じる、野性的な視線。
人間の国では感じたことのない、どこか本能的な圧。
まるで値踏みをされているみたいで、落ち着かないわね。
「……あれが、人間の王妃か?」
「番でもないのに、よりにもよって人間と結婚しなければならないとは……王が気の毒だな」
隠す気のない囁きが、馬車の中にまで聞こえてくる。
ああ、なるほど。
歓迎されていない、ということね。
人の言葉というものは悪意があればあるほど他者を引っ張り込んでしまう。
だからこそ、余計な感情は持たないようにしているのだけれど…………こうまで分かりやすいと、逆に引っ張り込まれる心配がなくていい。
私は思わず、口元が緩みそうになるのをこらえながら車窓のカーテンを閉めた。
番以外と結婚することがほとんどであるにもかかわらず、私がこんなにも嫌われている理由は明白だ。
この国において、番でない伴侶など“偽物”も同然で、しかもよりにもよって国王の番が”偽物”なうえ、別種族の人間なのだから。
“偽物”である”人間”が、王妃として我が物顔でやって来た。
面白くないに決まっている。
とはいえ、聞いていて心地良いものではない。
ウルバリスとの国境までついて来てくれた侍女も、今はもういないし、声に飲まれないようにしないと……。
やがて城門を抜け、城の前で馬車が停まると、扉が開かれた。
「クリスティ・アルシェイル・マルボロ王女様。国王陛下がお待ちです」
淡々とした案内役の声に、私は軽く頷いた。
「えぇ。……案内してちょうだい」
さて──。
問題は夫となる人が、どの程度まともか、ね。
私は馬車から降り獣人の国の大地を踏みしめると、ぴんと背筋を伸ばし、大きな石造りの城へと入っていった。



