玄関に入ると、母さんが廊下を右へ左へと歩いていた。少し俯き加減で、俺が入ってきたことにも気が付いていないみたいだ。
「ただいま」
半ば怒鳴るように言うと、母さんは体をビクッとさせて俺の方に顔を向けた。俺は目をそらして、靴を脱いで上がった。自分の部屋に行く為に二階へ行こうとした時、
「遅かったのね。何かあった?」
声がちょっと震えている感じだ。去年のことがあってから、母さんは俺に対して恐怖心があるみたいだ。そうして、腫れ物みたいにされると余計に苛立ってくる。が、その感情をぶつけたらダメだってわかっている。俺は振り向き、
「と……友達とドーナツ食べて、いろいろ話してた」
友達という単語を発する時、胸が騒いだ。でもそれは、嫌な感じではない。
「あ……そうなんだ?」
俺は何も答えずに階段をゆっくり上がり始めた。あれ以来、上手く接することが出来なくなってしまったんだから、仕方ない。俺が悪かったんだろうか。でも、どうしようもなかった。
暗い気持ちになりかかったその時、
「ドーナツ……おいしかった?」
階段を上がる足が止まった。手摺りに掴まって、階段下に立つ母さんを見た。両手を強く握り締めているみたいで、顔も強張っているように見えた。でも、俺と関わろうとしてくれた。その事実が鼓動を速めた。
しばらくの間、俺は母さんを見ていた。母さんも、黙ったまま俺を見ていた。
何か言った方がいいよな? そう思いながらも、何と言っていいのかわからない。逡巡して、ようやく、
「おいしかった。それから……」
つばを飲み込んでから、
「た……楽しかった」
その言葉を口に出来た自分を褒めてやりたい、と思った。楽しいなんてこと、すっかり忘れていたはずなのに。
母さんは、口を半開きにして固まったようになっていたが、頭を左右に振った後、
「楽しかったんだ? よかったね、慎也」
「……ああ」
俺はまた階段を上がり始めた。一段上がるごとに、心が軽くなっていくような気がした。何だか、鼻歌でも歌ってみようかな、なんて気分だ。
そういえば、陽平の好きなバンド、名前は何だっけ、と首を傾げる。外国語のような響きだったのは記憶にあるが、何しろ俺は世間のことに疎い。もしかしたら、すごく有名なのかもしれないけれど、俺は全くわからなかった。
「そうだ。陽平に訊いてみよう」
部屋に入ってカバンをその辺に置くと、スマホを取り出した。電源を入れて、「あ」と声が出た。肩を落として制服のままベッドに倒れ込むと、大きな溜息を吐いた。
「連絡先……」
訊くのを忘れていた。何やってんだ、俺。自分で突っ込まないではいられなかった。せっかく親友が出来たのに。やっぱり、しばらく友人関係だった人がいなかったから、そういうことに頭が回らなくなってるんだな、と思ったが、何の助けにもならない。
「明日、訊くぞ」
力を込めて呟いた。山ちゃんとつっちーも教えてくれるだろうか。それは望み過ぎだろうか。
マイナス思考がよみがえる。が、俺は首を振った。とにかく、訊いてみる。それでダメなら、諦める。それでいいだろ?
自分に言い聞かせて、頷く。深く考えないで、まず行動。今の俺がすべきことは、それだ。
「頑張れ、慎也」
揺れてはいても、去年よりずっとマシだ。俺はベッドから体を起こして、両腕を天井に向かって伸ばした。背筋がしゃんとして、少し気が晴れた。
悪い想像ばっかりしていると、それを引き寄せるって聞いたことがある。なら、良い想像をした方が得なんじゃないか?
思うのは簡単だけど、実行は難しい。俺は、そういう奴だけど、やってみよう。そう決めた。
ベッドから立ち上がると俺は、ようやく着替え始めたのだった。
翌日の朝は、いつもよりだいぶ早くに目が覚めた。三人の友人たちは、俺の願いを叶えてくれるだろうか。目覚めてすぐから、またそんな心配をし始める。全くしょうがない奴だ、と大きく息を吐き出した。
ベッドから出ると、普段したこともないのに、ラジオ体操のようなことすらしてしまった。今日の俺は、本当に変だ。
電車の中では、三人に掛ける言葉をシュミレーションしてみたりした。どこまで小心者なんだろう。たかだか友人たちに連絡先を訊くだけのことじゃないか。
そう思うそばから、「今の俺は、そうなっちゃうんだよ」と答えている自分がいる。やっぱり小心者か。自分が恥ずかしくて、嫌になる。
学校の最寄り駅で電車を降りて、鬱々としながら歩いていると、「慎也〜」と後ろから呼ばれた。昨日、親友になった人の声だった。心臓が速く打ち始めて、ちょっと苦しい。
「慎也。おはよ〜!」
ポンと肩を叩かれた。朝から元気な人だ。そんな陽平が羨ましい。俺は、陽平の方に顔を向けると、
「おはよう」
陽平とは対象的な、沈んだ声で言った。朝には相応しくないという自覚はある。陽平は、俺の顔を覗き込むようにして見て、
「具合が悪いのか?」
「違うよ」
ただ緊張しているだけ、とは言えなかった。
「ただいま」
半ば怒鳴るように言うと、母さんは体をビクッとさせて俺の方に顔を向けた。俺は目をそらして、靴を脱いで上がった。自分の部屋に行く為に二階へ行こうとした時、
「遅かったのね。何かあった?」
声がちょっと震えている感じだ。去年のことがあってから、母さんは俺に対して恐怖心があるみたいだ。そうして、腫れ物みたいにされると余計に苛立ってくる。が、その感情をぶつけたらダメだってわかっている。俺は振り向き、
「と……友達とドーナツ食べて、いろいろ話してた」
友達という単語を発する時、胸が騒いだ。でもそれは、嫌な感じではない。
「あ……そうなんだ?」
俺は何も答えずに階段をゆっくり上がり始めた。あれ以来、上手く接することが出来なくなってしまったんだから、仕方ない。俺が悪かったんだろうか。でも、どうしようもなかった。
暗い気持ちになりかかったその時、
「ドーナツ……おいしかった?」
階段を上がる足が止まった。手摺りに掴まって、階段下に立つ母さんを見た。両手を強く握り締めているみたいで、顔も強張っているように見えた。でも、俺と関わろうとしてくれた。その事実が鼓動を速めた。
しばらくの間、俺は母さんを見ていた。母さんも、黙ったまま俺を見ていた。
何か言った方がいいよな? そう思いながらも、何と言っていいのかわからない。逡巡して、ようやく、
「おいしかった。それから……」
つばを飲み込んでから、
「た……楽しかった」
その言葉を口に出来た自分を褒めてやりたい、と思った。楽しいなんてこと、すっかり忘れていたはずなのに。
母さんは、口を半開きにして固まったようになっていたが、頭を左右に振った後、
「楽しかったんだ? よかったね、慎也」
「……ああ」
俺はまた階段を上がり始めた。一段上がるごとに、心が軽くなっていくような気がした。何だか、鼻歌でも歌ってみようかな、なんて気分だ。
そういえば、陽平の好きなバンド、名前は何だっけ、と首を傾げる。外国語のような響きだったのは記憶にあるが、何しろ俺は世間のことに疎い。もしかしたら、すごく有名なのかもしれないけれど、俺は全くわからなかった。
「そうだ。陽平に訊いてみよう」
部屋に入ってカバンをその辺に置くと、スマホを取り出した。電源を入れて、「あ」と声が出た。肩を落として制服のままベッドに倒れ込むと、大きな溜息を吐いた。
「連絡先……」
訊くのを忘れていた。何やってんだ、俺。自分で突っ込まないではいられなかった。せっかく親友が出来たのに。やっぱり、しばらく友人関係だった人がいなかったから、そういうことに頭が回らなくなってるんだな、と思ったが、何の助けにもならない。
「明日、訊くぞ」
力を込めて呟いた。山ちゃんとつっちーも教えてくれるだろうか。それは望み過ぎだろうか。
マイナス思考がよみがえる。が、俺は首を振った。とにかく、訊いてみる。それでダメなら、諦める。それでいいだろ?
自分に言い聞かせて、頷く。深く考えないで、まず行動。今の俺がすべきことは、それだ。
「頑張れ、慎也」
揺れてはいても、去年よりずっとマシだ。俺はベッドから体を起こして、両腕を天井に向かって伸ばした。背筋がしゃんとして、少し気が晴れた。
悪い想像ばっかりしていると、それを引き寄せるって聞いたことがある。なら、良い想像をした方が得なんじゃないか?
思うのは簡単だけど、実行は難しい。俺は、そういう奴だけど、やってみよう。そう決めた。
ベッドから立ち上がると俺は、ようやく着替え始めたのだった。
翌日の朝は、いつもよりだいぶ早くに目が覚めた。三人の友人たちは、俺の願いを叶えてくれるだろうか。目覚めてすぐから、またそんな心配をし始める。全くしょうがない奴だ、と大きく息を吐き出した。
ベッドから出ると、普段したこともないのに、ラジオ体操のようなことすらしてしまった。今日の俺は、本当に変だ。
電車の中では、三人に掛ける言葉をシュミレーションしてみたりした。どこまで小心者なんだろう。たかだか友人たちに連絡先を訊くだけのことじゃないか。
そう思うそばから、「今の俺は、そうなっちゃうんだよ」と答えている自分がいる。やっぱり小心者か。自分が恥ずかしくて、嫌になる。
学校の最寄り駅で電車を降りて、鬱々としながら歩いていると、「慎也〜」と後ろから呼ばれた。昨日、親友になった人の声だった。心臓が速く打ち始めて、ちょっと苦しい。
「慎也。おはよ〜!」
ポンと肩を叩かれた。朝から元気な人だ。そんな陽平が羨ましい。俺は、陽平の方に顔を向けると、
「おはよう」
陽平とは対象的な、沈んだ声で言った。朝には相応しくないという自覚はある。陽平は、俺の顔を覗き込むようにして見て、
「具合が悪いのか?」
「違うよ」
ただ緊張しているだけ、とは言えなかった。


