あの日を忘れない

 合唱コンクールは始まり、それから時を置かず、俺たちの出番となった。ぞろぞろと舞台に出ていくクラスメイトたち。俺と陽平(ようへい)が最後に舞台に出ていく。

 クラスメイトが決められた位置で止まると、俺は陽平と顔を見合わせ頷いた。

「頑張ろう」
慎也(しんや)、違うだろ? 楽しむって約束しただろ?」

 小指を立てて、ニカッとする陽平に、俺は鼓動を速めていた。俺は、バカみたいだなと思いつつ、陽平の小指に自分の小指を絡めた。陽平の顔が、さっきまでのニカッ、から、例の慈愛に満ちた表情に変わった。

「慎也。行くぞ」
「楽しもうな」

 俺がそう言うと、陽平は俺の髪を撫でた。それがすごく心地いい。俺たちはもう一度頷きあってから、舞台に出ていった。定位置で足を止めると、一拍置いてから深々とお辞儀をした。拍手が起こった。俺はみんなの方に向き直ると、声を出さずに、「楽しもう」と伝えた。笑顔を見せると、舞台の空気が柔らかくなった気がした。

 陽平に視線を送ると、頷いてくれたけど、機嫌悪そうな顔をしてきた。笑顔禁止令が出ているのを忘れていた。と言うか、普通に無理だと思う。俺は、右手に握ったタクトを軽く振ってみる。不機嫌になってる場合じゃないだろ。それを伝えたかった。わかってくれたかは、微妙だ。

 俺は陽平に頷き、陽平にだけ微笑んだ。陽平が、それに応えるように、目を細めて笑んだ。反則だ、と思ったけど、機嫌が直ったならそれでいいや、と考えを改めた。とにかく、機嫌よく弾いてくれ。タクトを振ると陽平は、今まですねていたのが何だったのかというくらい、美しい音色を奏で始めた。この音に吸い込まれそうだ、と変なことを考えてしまった。

 歌が始まると、俺はそんなことは忘れて、この曲を表現しようと集中した。それにしても、みんな上手い。そして、心に染みてくる歌詞。俺は、何度もみんなの歌を聴いてきたのに、今また心が震えていた。何度聴いても、いいものはいい。そう感じた。

 フィナーレを迎え俺たちは、客席に向かってお辞儀した。大きな拍手が湧き起こった。何だかわからないけど、泣きそうな気持ちになっていた。

 舞台袖に移動すると、担任がそこに立っていて、手を叩くような動きをしてみせた。客席に聞こえるといけないから、の配慮のようだ。担任は、もちろん笑顔で、一人ずつ、「お疲れ様」とか、「よかったぞ」とか、声を掛けていた。担任の興奮した感情が伝わってきた。それは、よくわかる。だって、俺たち上手すぎるから。

 客席へ移動した俺たちは、それぞれの席に着いて他のクラスの演奏を聴いた。合唱コンクールの定番みたいな曲もあれば、最近の曲の合唱用にアレンジされた曲もあった。俺の好みとは関係なく、どのクラスの歌声もすごくよかった。このコンクール、レベル高すぎなんじゃないか? そんなことさえ考えてしまうほどだった。採点する人たち、お疲れ様!

 時間は過ぎていき、全クラスの演奏が終わった。そして、順位の発表。

 去年の俺は、自分が伴奏で失敗したから、クラスメイトに申し訳ないという気持ちと、恥ずかしさでいっぱいになっていた。順位だって、よくないのはわかりきっていた。でも、今回は違う。俺は結構自信があった。

 ベストスリーだけが発表されるのだが、絶対ここに入ってると確信していた。そして、確かにそうだった。俺たちは、当然のように優勝した。クラスメイトの誰もが拳を突き上げて勝利を祝った。俺も、両手を握り締めて突き上げた。すごく嬉しい。達成感? みんなで頑張って結果を出せたから、そうかもしれない。自己満足? それも合ってる気がする。俺は人に認められた。その気持ちはある。

 でも、言葉では言い表せないような何か。それがこの、心の動きかなと思っている。

 閉会して、俺たちは自分の教室へ戻った。担任からもう一度お祝いの言葉をもらった。それから、明日の予定の確認をして、ホームルームは終了となった。一気にざわめく教室。俺は陽平のそばに行くと、

「陽平。お疲れ様」

 陽平がゆっくりと俺の方を向いた。口元に優しい笑みが浮かんでいた。それを見て、俺の心臓が騒ぎ出す。仕方ない。俺は陽平のこと、好きだから。

 これから、それを本人に伝えるのだと考えたら、また手が汗で湿ってきた。緊張するなって言うのが無理だ。

「慎也。時間だぞ」
「そ……そうだね」
「どこにしようか」

 オレは少し考えてから、「ドーナツ屋?」と、首を傾げながら言ってみた。陽平は頷き、

「よし。じゃあ、行こう」
「そう言えば、陽平。お兄さん、来てたの?」

 パッと見た感じでは、いなそうだったけど。陽平は、また顔をしかめて、

「また園路(そのじ)?」
「だって……」

 俺が俯くと、陽平は俺の頭をポンと軽く叩いて、

「慎也、可愛いぞ」

 少しもふざけた感じがない、真面目な声だった。そんな声で言われてしまったら、俺はどうすればいいんだろう。

 俺は顔を上げると、「行こう」と言って、陽平の腕を強く握った。この後起きることを想像すると、また体に力が入っていくのを感じていた。