あの日を忘れない

 それから一時間くらいして店を出た。

慎也(しんや)って、家どこ?」

 陽平(ようへい)に訊かれて、口ごもり目が泳いだ。別に悪いことをしているわけでもないのに、急に心臓が速く打ち出して、落ち着かなくなる。

「慎也?」

 陽平が、顔を覗き込んできた。そうされて、俺は一瞬呼吸を忘れたが、すぐに手を横に振り、

「何でもない。平気だから」
「ということは、平気じゃないんだな? 何があったんだ?」

 さらに訊こうとする陽平の肩を、山ちゃんがポンと叩いた。

「陽平。人にはいろいろ事情があるし、訊かれたくないこともある。わかるよな?」

 冷静な口調の山ちゃんに、陽平は頷き、

「わかってるさ。で? 慎也の家はどこだって?」
「だから」

 止めようとしてくれる山ちゃん。頭がすごく良さそうで、正直なところ最初はとっつきにくいのかと思ったけど、全然違った。俺は二人を少し見上げると、両手を握り締めた。

「電車で通ってる。ここから五駅先の……」

 俺の家の近くにも、高校はある。自転車で通えるくらいの距離で、中学の同級生もけっこう受験して、入学している。

 俺は、そんな学校には行きたくなかった。絶対に嫌だった。でも、その理由は言いたくない。俺は無理矢理笑ってみせて、

「で……電車通学に憧れてて……この学校がいいなって思って……」
「電車通学、いいよな。俺もさ、してみたかったんだけど、親があの学校を勧めてきて。兄貴が卒業してるから、同じとこに行かせようとしてさ。本当は男子高より共学の方がよかったけど、ま、いっかってなって」

 笑顔のつっちーが言った。俺は、「そうなんだ?」と返したけれど、心に余裕はなかった。この人たちのせいではない。自分の問題だ。わかってる。俺は三人に向かって手を振ると、

「誘ってくれて、ありがとう。じゃ、また明日」

 くるりと背中を向けて走り出した。小心者の俺が顔を出す。でも、こうせずにはいられなかった。

 駅のホームに立つと、ハーハーと荒い呼吸を繰り返した。しばらくすると呼吸は落ち着いてきたが、頭の中は混乱していた。

 どこに住んでいるのか訊かれただけなのに、この動揺ぶり。本当に自分が嫌になる。

 電車に乗り込むと、俺は手摺りに掴まって目を閉じた。浮かんでくるのは、去年の夏休み前の自分の姿だ。

「俺の勝手だろ? ほっといてくれよ」

 両親に当たり散らした毎日。母さんは泣いて、父さんには、「いい加減にしろ」と、何度も叱られた。それでも俺は、態度を改めなかった。そうしていなければ、自分を保つことが難しかった。

 高校なんか行きたくない。それが、家族の揉め事の発端だった。俺が黙っていれば、あんな日々を送らなくてよかったんだってわかる。でも、黙っていることも、親に従うことも出来なかった。

 高校どころか、毎朝学校に行くことすら苦痛だった。時々は、頭が痛いとか熱があるとか嘘を言ってはズル休みをしていた。それが、精一杯の抵抗だった。

 当時を思い出して溜息を吐いた時、アナウンスが耳に入って目を開けた。窓から見える空は、嫌味なくらいに澄んでいた。さっきまでは、そのことが俺の気分をよくしてくれていたのに、今は真逆の感情を持ってしまう。

 ドアが開いて、ホームに降り立った。人が俺の横を急ぎ足で通り過ぎていく。この人たちは、どこへ行くんだろう。そんな、どうでもいいことを考えている自分を、心の中で笑った。

 友達が出来て、しかも親友まで手に入れたのに、結局これか? 何も変わってないじゃないか。

 改札口を抜けて俯いて歩いていると、後ろから肩を叩かれた。驚いて体がビクッとしてしまった。ゆっくり顔を上げて振り向くと、そこには陽平が立っていた。

「え……何でここに……」
「何となく一人にしない方がいいかなって思って」

 相変わらず、ヘラヘラ笑っている。ふざけんな。俺は落ち込んでるんだ。ほっとけ。そんな言葉が頭の中に浮かんでたのに、それはどれも真実ではないと気が付いていた。

 ここに親友がいてくれて嬉しい。

 それが真実だった。俺は流れ出してしまった涙を手の甲で拭うと、

「ありがとう」

 くぐもった声で、どうにかそう言った。陽平の手が俺の方に伸びてきたと思ったら、頭を撫でられた。

「何があったか知らないけど、いろいろあったんだよな? 山ちゃんもそう言ってたし」

 山ちゃんは、別に言い切ってはいない。でも、実際いろいろあったのは間違いないから、否定はしなかった。

「言わなくていいし、俺も訊かない。でもさ、我慢し過ぎるのはどうなんだ?」

 何でそんなに優しく語りかけてくるんだよ。余計に泣けてくるだろ。そう抗議したくても、言葉は出てこない。

「しばらく一緒にいるからさ。安心しろ」

 その言葉が引き金になって、俺は涙をボロボロと流し続けた。陽平は、「よしよし、いい子だな」と、まるで小さい子をあやすみたいなことを言いながら、俺の頭を撫で続けていた。

 俺の中の黒くて硬い物が粉々に砕けて、浄化されていくような気がしていた。