あの日を忘れない

 ドーナツ屋でドーナツに噛みつきながら、陽平(ようへい)は、

「それで? つっちーんとこは、誰が来るんだ?」

 つっちーは、口の中のドーナツを飲み込んでから、

「うちは、兄貴とじいちゃんとばあちゃん」
「へえ。三人か」
「そう。兄貴はあの学校の卒業生だから、来たいって。そしたら、そばで聞いてたじいちゃんたちも来たいって言い出してさ」

 めんどくさそうに言っているけど、顔は嬉しそうに見えた。俺は思わず微笑みを浮かべた。すると、また陽平から、

「ダメ」

 注意された。微笑むのすらダメって、俺はこれからどうやって生きていけばいいんだろう。ニコリともしないで、常に真顔? 怖くないか?

 俺は微笑みを引っ込めて、山ちゃんを見た。

「山ちゃんとこは、誰か来るの?」

 俺が訊くと山ちゃんは、

「両親揃って来る気らしい。来なくていいよ、とも言えないし。あ、そう、としか言えなかった」

 困ったような顔をしている山ちゃん。揃って来られるのはちょっと……って思うのも、わかる気がする。うちは一人でよかった。

 陽平は、頷きながらも食べるのはやめない。ヤケ食いするとか言ってたけど、個数は一ヶ月前と同じ、五個だった。五個でもびっくりはするけど、十個も食べるんじゃないかと想像してたから、そんなに衝撃ではなかった。

 ガツガツと食べる陽平。その一心不乱な様子を可愛いと思える俺は、どうなんだろう。アバタもエクボ? 何か違う気もするけど。結局、どんな陽平も、今の俺にはマイナス評価にならないんだろうなと思う。

「陽平。俺さ、ピアノ再開しようかと思ってる」

 あの日思ったことを、ようやく言えた。何だか、言いそびれていたんだ。陽平は、ドーナツにかぶりついたまま俺の方に向き、

「マジで?」

 あっと思う間もなく、ドーナツが口から落ちた。当然、そうなるよな。お皿に落ちてよかったね。

 陽平は、ドーナツが落ちたことにも気付いていないのか、俺をじっと見続けている。

「陽平と弾いて、すごく楽しくて。これからは、気負わずに、楽しくやっていけたらいいなって……」
「どこで習うんだ?」
「これから探す。前に習ってたとこには行かないと思うから。あの先生は、進学させたい人だから」

 それでも、いつかは俺も花が咲くんじゃないかと、熱心に教えてくれていた。期待を裏切って悪いけど、俺は咲かないと思う。もっと違う形で頑張りたいんだ。プロになることが全てじゃないだろ?

 陽平は、両手を強く握り締めると、

「俺じゃダメか?」
「は? 陽平が、俺を指導してくれるの? それ、ダメだから」
「何でだよ」

 噛みつくかの勢いで言った。俺は俯き、

「レッスンにならないのが目に見えてるからだよ」
「何だよ、それ。意味がわかんないぞ」
「陽平、冷静に教えてくれるの? 陽平にそんなこと、出来ないだろ?」

 教えられたとしても、冷静に適確な指導なんてしてくれないだろう。上手い人が良い指導者になるとは限らないって言うからな。

 俺の発言に、陽平は黙った。どうやら、当たってしまったらしい。

「合唱コンクールが終わったら探し始めて、なるべく早く始めたいと思ってるんだ」

 レッスンが始まったら、こうして度々ドーナツ屋に来ることも難しくなるのかな。それは残念だけど、ピアノもやりたい。

「ピアノ、弾きたいんだ。ゆっくりでいいから、好きな曲を仕上げていきたいんだ」
「そうか」

 顔を上げて陽平を見ると、眉が下がっていて悲しげだった。

慎也(しんや)は、俺よりもピアノがいいんだな。そうかよ」
「陽平とピアノ……比べる?」

 やっぱり陽平だ。言動が変わっている。それこそ陽平、とも言える。何だかおかしくなってきて、吹き出してしまった。つっちーと山ちゃんも、下を向いて笑ってるらしかった。陽平は俺たちをぐるっと見ると、

「おかしくないから」

 いや、絶対におかしい。言わないけど。

「とにかく……そういうことだから。陽平は、復活しないの?」
「するわけない」
「そんな頑なな……。あんなに弾けるのに、もったいない」

 いくら練習しても、限界がある俺。陽平はそうじゃない。いくらでも上に行ける人だ。そう思う。

 俺がそう言うと、陽平は口を尖らせて、

「もったいなくなんかない。俺は、もうあの世界に戻る気はないんだ。あそこは俺の居場所じゃないから」
「でも……」

 言い返そうとして、やめた。人にはそれぞれ考えがある。それを否定する権利、俺にはない。俺は唇を噛んだ後、

「陽平。ごめん」

 才能があるからって、その道を押し付けるなんて、やっちゃいけないことだ。俺がバカだった。

「謝るなよ。慎也は悪くない。ただ俺は、戻りたくないんだ。俺には向いてなかった。もっと楽しみたいんだ」

 音楽は、音を楽しむと書く。そういうことだよな。俺は頷き、

「そうだよな。俺たち、音を楽しまないとな」
「そう。楽しみたいんだよ。だから、合唱コンクールも楽しもう。兄貴が来るぞ」

 ニカッとしてくれて、ホッとした。ようやく、いつもの陽平の表情に戻った。

 与えられた道。それが何かはわからないけど、とにかく今を楽しもう。そんなことを思っていた。