あの日を忘れない

 それは、小さい頃ピアノの先生と連弾した曲だ。『小さな世界』という、有名なあの曲だ。

陽平(ようへい)。この曲、知ってるよな?」

 俺が訊くと陽平は頷き、

「もちろん知ってるよ」
「じゃあ、一緒に弾いてよ。テンポは、このくらいかな」

 弾いたことのある曲だけど、随分前のことだし、ピアノのレッスンをやめてから一年近く経っているから、上手くいくのかわからない。だから、あんまり速く弾きたくない。

 陽平は真面目な顔でオレを見ると、「行くぞ」と言った。また、「行くぞ」? つい笑いそうになったが、何とか堪えた。

 陽平は、俺が指示したテンポで弾いてくれる。わざと速く弾いたりするんじゃないかと、ちょっと疑っていた。

 俺が弾き始めると、背中の方から歌声が聞こえてきた。これは、つっちーだ。その声は楽しげで、俺の心も弾んできた。サビまで来たら、山ちゃんも歌い出した。もしかしたら、歌詞がわからなくて今まで黙っていたのかもしれない。二人とも、歌うのが好きなんだな、と思った。しかも、本当にいい声だ。

 何とかフィニッシュを迎え、俺は陽平に顔を向けた。陽平は、俺の肩を抱き寄せると、

「やったな。トラウマ、克服だ」

 人前で弾くのがすごく苦手な俺が、そのことをすっかり忘れて楽しんで弾いていた。確かに、克服出来たのかもしれない。きっと俺は、もう大丈夫なんだ。そう思えた。俺は、「陽平。ありがとう」と言ってから後ろに振り向き、

「山ちゃんとつっちーも、ありがとう。歌ってくれたから、すごく楽しく弾けたんだ。母さん。聴いてくれて、ありがとう」

 また目元を拭うような仕草をしている。俺も泣きたくなるから、それはやめてくれ。そう思うそばから、涙がこぼれ落ちてしまった。恥ずかしいから、やめろ。自分を叱ってみても、それは止まらない。でもこれは、悲しい涙じゃない。嬉しくて流れる涙だ。

 陽平は、俺の肩をそっと撫でながら、

慎也(しんや)。すごいぞ。楽しかったよな。伝わってきたぞ。だから俺も、楽しく弾けた。また一緒に弾こう?」

 声にならなくて、何度も頷いてみせた。俺の方こそ、またやってみたいと思ったよ。

 俺はピアノが好きだ。下手くそかもしれないけど、別にそんなのどうでもいいじゃないか。どんなに上手かったとしても、弾くことが辛かったら、聴いている人も辛いだろう。音楽は、ごまかせない。俺は、楽しくやっていきたい。笑いたかったら、どうぞご自由に。俺も笑っちゃえばいいのかもしれないな。

「慎也。ピアノ、また習いたくなったんじゃない?」

 この人、何でそんなことがわかるんだろう。図星だ。正にそんなことを考えていたんだから。抱き寄せられたまま陽平を見ると、

「何で……」

 わかるんだよ、と続けるつもりだったのに、俺の言葉に被せるように、

「わかるよ。だって俺、慎也の親友なんだから」

 母さんがいるから、おかしなことを言うのはやめてくれたようだ。でも、言われたらそれはそれかな、とも思っていた。肩を抱き寄せられている、ただそれだけで、胸はドキドキして、だけどホッとするような気持ちになっている。これは絶対にそれだ。もう本当に、認めるしかないと思う。

 今まで、同性を好きになったことなんかなかった。好きになられたことも、たぶんない。それなのに、こんなことになるなんて、全くわからないものだ。でも、これは否定出来ないやつだとわかる。

「親友……だね?」
「そうだよ」

 そんないい声で、すぐそばで囁くように言われたら、ますます意識してしまう。

 その時、山ちゃんが咳払いをした。つっちーも、困ったような顔をして俺たちを見ていた。困らせちゃってごめん、と心の中で謝った。山ちゃんは、もう一度咳払いをすると、

「陽平。そろそろ帰ろう。もう、外が真っ暗だぞ?」

 昼食からのおやつタイム。それから、ピアノ。あっという間に夜になってしまった感じだ。三人が帰るのは当たり前だけど、何だか寂しいと思っている自分に戸惑った。三人を玄関まで送ると、

「よかったら、また遊びに来てよ」

 思い切ってそう言ってみると、三人は笑顔で頷いてくれた。

「お邪魔しました」

 声を揃えて言うと、三人は本当に出ていってしまった。ま、当然だけど。

 それにしても、楽しい時間だったな、と振り返る。俺は、隣に立つ母さんを見ながら、

「俺……もう一回、ピアノやってみたい」

 去年のことを思うと、逃げたくなるけど、それよりもやってみたいと思う気持ちが(まさ)っていた。去年なんか、もういい。俺は、今、生きてるんだ。今の俺を大事にしてやっても、バチは当たらないはずだ。楽しんだっていいだろ?

 母さんはしばらく、黙ったまま俺を見つめていたが、いきなり背中に両手を回してギュッと抱き締めると、

「やりなさい。やっていいに決まってるでしょ? さっき、安達(あだち)くんと弾いてるのを見てて、慎也が本当に楽しそうに見えて。去年までは、ピアノに向かってても、いつも辛そうな感じが伝わってきたけど。音楽っていう字、音が楽しいって書くでしょ? だから、楽しまないと。別に、プロになるわけじゃないんでしょうから、楽しみなさい。笑ってる慎也が、もっと見たいわ」
「ありがとう」

 心の中が、温かくなった。