あの日を忘れない

 幸い陽平(ようへい)は、その後は母さんに余計なことを言わなかった。昼食を終えた後、母さんはケーキを持ってきた。まだ食べるのか。俺は胃もたれしそうだったが、陽平は笑顔だ。あれだけ食べても、まだこの食欲。本当に羨ましい人だ。

「コーヒーもどうぞ」
「いただきます!」

 相変わらず元気な陽平。そして、あっという間に完食。もう、素晴らしいとかそんな言葉しか浮かんでこない。

 陽平みたいな勢いはないものの、山ちゃんとつっちーも完食した。俺は、頑張って何とか食べた。そんな感じだ。

「ごちそうさまでした」

 三人が口々に言う。母さんは、「お粗末さまでした」とにこやかに言うと、お皿を下げ始めた。俺も立ち上がり、それを手伝った。さっき誓ったんだから、忘れない内にやってみないと。

 俺が動いたら、三人も立ち上がり、お皿を運ぼうとしている。

「いや。ダメだから。三人は、お客様なんだから、やらなくていいよ」
慎也(しんや)がやってるんだから、俺もやる」

 陽平がそう言うと、山ちゃんとつっちーも頷いた。

「とにかく、やらなくていいからさ。座って待ってて」

 俺はお皿を重ねて、一気に流しに持っていった。

「あら。ありがとう」
「ああ」
「慎也。三人とも、いい人たちね。友達になれて、よかったね」

 俺は黙って頷いた。本当にその通りだ。

「後は母さんがやるから、大丈夫。ありがとうね」

 そんな風に言われると、何だか照れる。俺はそれには何も言わずに、その場をあとにした。三人の元に戻ると、陽平が挙手した。何か俺たち、いつも挙手して発言している気がするな。俺は陽平に、「何?」と、声を掛けた。陽平は、

「ピアノ、弾きたい」
「ピアノ? いいよ」

 陽平の家の防音室を見た山ちゃんたちは、普通の部屋にアップライトピアノが置かれているのをどう思うだろう。でも、防音室なんて普通はないと思う。うちが変わっているわけではないと言いたい。
 
「ここ。中に入って」

 三人が来ると、部屋が狭く感じられた。俺は陽平に視線を向けると、

「弾いていいよ」
「じゃ、遠慮なく」

 ピアノの椅子に座ると陽平は、

「じゃあ、弾くぞ。『慎也に捧げるラブソング』」

 何だよ、それ。山ちゃんとつっちーも、驚いたような顔をして、陽平を見ていた。その気持ち、わかる。俺も、めちゃくちゃ驚いてるよ。捧げられて、俺はどうすればいいんだよ。

 陽平は深呼吸をしてから、鍵盤に手を置いた。流れてきたのは……。

 山ちゃんたちの表情が引き締まった。歌う気、満々だ。そう。陽平が弾き始めた曲は、『花は咲く』だった。またからかわれたらしい。腹が立つより、笑っちゃいそうだった。

 曲が終わると、後ろの方から拍手が起こった。振り向くと、そこには母さんが立っていて、頭の上に両手を挙げて拍手をしていた。スタンディングオベーション?

安達(あだち)くん、すごいわ。アンコール! 安達くんだけじゃなくって、山本(やまもと)くんと土屋(つちや)くんの歌も素敵だった。合唱部だったとか?」

 母さんの質問に、二人は笑い出し、落ち着いてから、

「俺は化学部です」
「俺はバスケ部です」

 俺に教えてくれたのと同じように答えていた。そうそう。山ちゃんは、化学部。つっちーは、バスケ部だって言ってたな。それを聞いて母さんは、

「え? 本当に? 絶対に合唱部だと思ったのに。だって、すごく上手だから」

 興奮気味に訴える母さんに、俺は、

「うちのクラス、みんな上手すぎるんだ。それに、やる気もある。もしかしたら、優勝出来るかもしれないって思うくらいなんだ」

 例え優勝しなくても、うちのクラスのすごさは、俺がよく知っている。初日であの歌声って、いい意味でおかしい。

「俺も、指揮を頑張ろうと思えてる。頑張らざるを得ないだろ?」

 母さんは、何度も頷いて、「そうね。よかった」と言っていた。

「安達くん。たくさん弾いてね。そのピアノ、慎也がやめてから、ずっと放置されてた可哀想なピアノなのよ」

 何も言い返せない。

「慎也、ピアノが大好きで。でも、いくら好きでも、続けるのって大変なのよね」

 残念そうな顔をした母さんが、俺を見た。俺は母さんの視線から逃れると、

「陽平。連弾しよう」

 ピアノの前に椅子を持っていくと、ピアノの脇に置いてある本棚から、子供の時に使っていた楽譜を取り出した。