あの日を忘れない

 その夜は、何度も寝返りを打って、ろくに眠れなかった。陽平(ようへい)と学校で会ったら、こう言おう。陽平がこう言ったら、俺はああ言おう。薄暗い部屋の中で、シュミレーションし続けた。その結果、寝不足になってしまったというわけだ。

 そんなことしたって意味がないとわかっているのに、しないではいられなかった。玄関で靴をはこうとしていたら、「慎也(しんや)」と呼ばれた。屈めていた体を伸ばして振り返る。

「母さん。行ってきます」
安達(あだち)くんと仲直り出来るといいわね」
「仲直り……したい」

 終わりの方は、囁き声になっていた。俺は母さんに背中を向けると、もう一度、「行ってきます」と言ってから玄関を出た。

 駅までの道を歩いていると、どこからか青臭いような匂いがしていることに気が付いた。そうか。もう五月が近いんだな、と思った。

 ゴールデンウィークとか、そんなことは今の俺は考えられない。それより、合唱コンクールだ。その前に、仲直りだ。でも、陽平を許せるんだろうか。また、頭の中がぐるぐるしている。

 学校の最寄り駅で降りると、学校までの道をゆっくり歩いた。そうしながら、頭でいろいろ考えていた。でも、何もまとまらない。

 学校の門を入った時だった。昇降口に、親友が立っているのが目に入った。何だか人待ち顔に見えるのは、気のせいだろうか。俺を待ってるのか? 昨日も家の前で待ってたし。俺の都合のいい解釈かもしれない。

 そばまで行ったら、まず何て言おう? 散々シュミレーションしてたのに、この期に及んで俺は迷い始めた。

 急に足取りが重くなった。混乱は、ますますひどくなる。でも、昇降口の陽平まで一キロも離れているわけじゃない。前に進んでいる以上、陽平に少しずつ近付いているということだ。そして、とうとう三十センチの距離まで来てしまった。

 目の前に、昨日俺をだました親友がいる。胸が騒ぎ出した。黙って通り過ぎるか、挨拶するか。

「慎也……」

 陽平は、顔を歪めて俺を見ていた。俺は自分の荒ぶりそうな心を抑える為に、陽平から視線を外した。

 陽平は大事な親友だから、こんな苦しい状態でいたくない。でも、俺のこの感情は、どう処理したらいいんだ?

「慎也。俺の話を聞いてくれ」

 俺は一瞬迷ったが、

「わかったよ。聞く」

 陽平が、笑顔になって俺の両手を握り締めてきた。

「聞いてくれるんだな? ありがとう、慎也」
「聞くだけだからな。許すとは言ってないぞ?」

 そんなやり取りをしていたら、後ろから俺たちを呼ぶ声が聞こえた。つっちーだ。

「おはよう。仲直り、したの?」

 昨日の険悪な状態を見てたんだから、友人としては気になるところだろう。こうやって、気にしてもらえるって、やっぱり嬉しい。

「つっちー。慎也がさ、俺の話を聞くって言ってくれたんだよ」

 声が弾んでいるけど、俺は許すとは言ってない。聞くだけだ。本当にそれだけだ。ムキになっている自分がバカみたいだと思いながらも、取り敢えずそこは譲れない。

「そもそも昨日の朝から、陽平、変だったよね。ピアノ上手いのを隠そうとしてる感じでさ。陽平がそうしてほしいみたいだったから、俺も黙るって言ったけど、明らかにおかしいなって思ってた。そうしたら、放課後……」

 つっちーの言葉を聞きながら、やっぱり陽平はピアノが上手いのか、と再認識させられた。上手いならそれでもいい。何で弾けないフリをして、俺に教えてもらおうとするんだか、それがわからないし、腹立たしい。俺は、自慢じゃないけど、ピアノは下手なんだよ。

「何で隠そうとしたか? それは……」

 陽平が言いかけた時、今度は山ちゃんが俺たちに声を掛けてきた。三人、ほぼ同時にそちらに振り向いた。そうされて、戸惑ったような顔をした山ちゃんは、片手を挙げて、「おはよう」と言った。

「こんなところで、何を話してるんだ? そうだ。慎也。昨日の問題は、解決したのか?」

 俺は首を振り、

「解決、してない。今、その話をしようとしてたんだ」
「そうか。陽平。慎也、昨日可哀想な感じだったぞ。ピアノが関係あるんだよな? 朝、俺のこと黙らせたし。慎也に何を隠そうとしたのか何となくわかるけど、何でそんなことをしたのか。それから、何で慎也をだますみたいなことしたのか。俺とつっちーはともかく、慎也には説明しないとダメだろ? 絶交されるぞ」

 絶交宣言、しちゃったけどな。そうか。俺が陽平に宣言したのを、山ちゃんは聞いてないんだった。それなのに、山ちゃんは俺と陽平のことを心配して、そんなことを言ってくれているのか。何ていい人だろう。

「だから、今から説明しようと思ってたのに、山ちゃんが呼ぶから……」

 山ちゃんは、大きな溜息を吐くと、

「俺のせいにする気か? そういうのを、責任転嫁って言うんだけど、陽平、知ってる?」
「知らねえ」

 知らない? 嘘に決まってる。だって、高校生だし、そのくらいのことは知ってるもんじゃないのか?

「知らねえ、じゃなくて、知りたくない、だった」
「相変わらず、わかんないこと言うな、陽平は」
「まあ、いいじゃん。では、これから、ことのあらましをお伝えしたいと思います」

 深刻そうだった仮面は外れ、いつもの調子が戻りつつあった。