あの日を忘れない

 昇降口まで来て、自分の靴箱の蓋を開けた。靴を取り出してはくと、逃げるように走り出した。駅まで、ほぼノンストップだった。さすがに息が上がって、改札口を入っていきながら、荒い呼吸を繰り返した。

 追ってくるかと思ったが、そんなことはなかった。呼び止められたけど、それだけだった。親友とか言ってるけど、俺なんて陽平(ようへい)にとって、それだけの価値しかなかったってことだろう。

 バカバカしい。何でそんなに期待したんだろう。本当にバカだ。

 ホームに着くと、すぐに電車が入ってきた。ドアが開くと、たくさんの人が降りてきた。押されそうになるのを、何とかよけた。電車に乗り込むと、空いているシートに腰を下ろした。走り続けたことだけではない疲労を感じていた。窓の外の風景を見る余裕さえなく、俺はすぐに目を閉じた。

 最寄り駅で降りると、家までの道をだらだらと歩いた。もう、やる気が出せない。心が重く沈んでしまっている。俯きがちになって歩いていると、

「お。疫病神じゃん」

 今でも今じゃなくても、いつでも聞きたくない声がそう言った。俺は顔を上げ、そいつを見た。片頬を上げて笑んでいる。何でこんな時にこいつに会わなきゃいけないんだろう。

「この前は、いい態度だったな。今日はアイツと一緒じゃないのか?」
「そんなこと、あんたに関係ないだろ?」

 気が付いたら、普通に言い返していた。まさか俺がそんな行動に出ると思わなかったんだろう。そいつは、口をポカンと開けてしまっていた。

「何か用? じゃなかったら、俺はもう帰るから。あ、悪いけどさ。もう二度と話し掛けてこないでくれよ。ムカつくから」

 そいつを睨みつけながら、俺は全く恐れることなく言い放った。なんだ。俺、こんなことが言えるんじゃん、と妙に感心してしまった。

 俺が歩き出すと、そいつは急にスイッチが入ったかのように動き出し、俺の肩を掴んだ。鳥肌が立つのをどうにも出来なかった。俺は、そいつの手を払うと、

「気軽に触れてんじゃねえよ」
「おまえ……」
「おまえとか言うな。言われる覚えはない」
「生意気だ」
「だったら何だ? あんたさ、俺のことを疫病神とか呼ぶんだったら、そばに来るなよ。運が悪くなるぞ」

 そいつに向かって、俺は意地悪い顔で笑ってやった。そうだ。近付くな。変な呼び方するな。

「いきがってんじゃねえぞ」

 そいつが俺の肩を、ドンと突いてきた。そうくると思ったから、よろけもしなかった。

「その言葉、あんたに返すよ。いきがってんじゃねえぞ」

 去年、あんなにもこいつの態度にビクついていた俺は、どこへ行ったんだろう? あの時このくらい言えてたら……。

 でも、まあいいか、と思い直す。今、思いっきり言ってやれたんだから。陽平とのことがあったから、八つ当たりな部分もなくはないが、去年のお返しだ。受け取れよ。

中野(なかの)。いい加減にしろよ?」
「いい加減にするのは、あんたの方だろう?」

 俺が引っ込み思案ではっきりしないやつだったからって、おかしな噂を流して、人を追い込んだ憎らしいやつ。もしも殴られたら、殴り返してやる。

「とにかく、俺に構うな。次に声掛けてきたら……覚悟しとけよ。いつまでもおとなしい俺じゃないからな。なめるなよ!」

 腹に力を込めて堂々と言ってやると、そいつは何も言ってこなかった。さっきまでの憂鬱な気分が少し晴れて、俺は顔を前に向けて足取り軽く歩き出した。

 が、家に一歩入ると、また気分が下がっていった。母さんに何て言うんだよ。陽平が来ると思ってるのに。

 ドアを開けると、こちらに走ってくる音が聞こえて、すぐに母さんが来た。オレの後ろの方に目をやってから、首を傾げた。

安達(あだち)くんは?」

 何と言ったら納得してもらえるだろうか。逡巡していると、

「そうよね。安達くんにだって、都合があるわよね。何か用事が出来たのね」

 一人で納得している。俺は母さんの言葉に頷くと、

「そうなんだ。それで、今日は来れなくなって。でもさ、陽平は俺が教えなくたって、弾けるから……」
「あら。でも、すごく喜んでくれてたじゃない」

 そうだった。でも、本当は違ったんだ。そんなこと、母さんには言えないけど。

 俺はまた失敗したんだ。仕方ない。陽平のこと、親友としてすごく好きだけど、諦めなきゃだ。また一人ぼっちになるだけだ。でも、親友になってからの時間が楽し過ぎて、元に戻れるのか不安だ。いや。でも、諦めるしかない。陽平にとって俺は、たいしたことのない存在だったんだから。じゃなきゃ、だましたりしないだろ?

慎也(しんや)?」

 俺があんまり黙っていたからか、母さんが眉を寄せて困ったような顔で俺を呼んだ。俺は思い切り首を振ると、

「何でもない。何でもないから」

 語尾が揺れてしまった。さっきアイツを相手に、めちゃくちゃ強気な発言をしまくってたのに、やっぱりこれが俺なんだよな、と納得する。俺は俺だ。別の人間にはなれない。

 俺は、母さんの横を通って自分の部屋に向かった。足取りが重い。部屋に入ると、着替えもしないで、そのままベッドに倒れ込んだ。

 その時、スマホの着信音が鳴り出した。画面を確認すると、『安達陽平』だった。