それから何分くらい経ったかわからないけど、何故俺は、いつまでも陽平の腕の中に収まっているんだろう。しかも、それが全く嫌じゃないって、意味がわからない。
「どうしてピアノやめたんだ?」
陽平が低く訊いてきた。俺は首を振り、
「答えたくない」
まだ過去に出来ていない。心の奥の方が鈍く痛む。それを人に説明するのは難しい。だから、今は言えない。言いたくない。
「そうか。わかったよ」
そう言って、陽平は俺から離れた。カバンの中を探っている陽平の背中を見ながら、何だかわからない寂しさのようなものを感じていた。寂しいって何だよ、と自分に突っ込んでみても、その感情は消えてなくなったりはしなかった。
陽平は、手にスマホを持ってニカッとすると、
「約束」
また小指を立ててみせる。今度は何の約束だっけ、と思ってすぐに思い出した。
「推しバンド?」
「そう。それ」
陽平はスマホを操作して、動画のサイトを開いた。
「ほら、これ」
音楽が流れてきた。暗い感じのメロディーにヴォーカルのせつなげな声がのる。一度聴いたら忘れられないような、印象的な曲だ。美形のヴォーカリストのその横で、チョッキを着たウサギみたいな人がギターを弾いている。オレは画面から顔を上げ、
「え? この人?」
陽平は、オレが何を言いたいのかわかったらしく、笑い出した。
「そう。その人が、オレの推し。バンド名は、『黒いお茶会』って意味らしい。それでウサギの格好」
あの有名な話に出てくる、懐中時計を持ったウサギのことだろうか。じゃあ、歌っている人は、主人公の女の子? そんなことないか。
「このギタリストだけが、そういう格好してるんだ。面白くない? ちゃんと時計も持ってるみたいだよ」
曲が終わるとそのギタリストは、懐中時計を取り出して時間を見ているような動きをしている。独特で、確かに面白い。
「曲、暗い感じで雰囲気があって、かっこいいね」
初めて聴く『ブラティー』の音楽世界に、すっかり魅了されてしまった。他の曲も聴いてみたい。そんな気持ちになった。
そう言えば、気のせいかもしれないけど、ヴォーカルの男性、ちょっとだけ陽平と顔立ちが似てる? 美形男子は、何となく似ているように見えるものなのかもしれない。
「『ブラティー』、いいだろ? 慎也は、誰がよかった?」
四人で構成されているバンドだけど、やっぱり一番目立っていたヴォーカルがオレの推しかな、と思った。陽平に伝えると、何故か大きな溜息を吐き、
「慎也は、『園路』がいいのか」
「『園路』? それがあの人の名前なんだ?」
「本名じゃないけどな」
何だか、知り合いの話でもしてるみたいな感じだった。それがおかしくて、つい笑ってしまった。陽平は口を尖らせて、
「何だよ、笑っちゃってさ」
そんなことを言いながら、肩を抱き寄せるって何だ? それは、どういうことなんだ?
「園路がライバルか。でも、俺は負けないからな」
「は? 意味がわかんないけど」
「化粧とったら、普通の人だぞ。それでも園路がいいのか?」
「陽平、落ち着いてよ。さっきから、何か変なこと言ってるぞ?」
「だってさ、慎也は園路がいいんだろう?」
「声がすごくいいし、見た目もかっこいいから。でもさ、何でそんなにムキになってるんだよ」
陽平はそれには何も答えず、スマホをカバンに戻してしまった。ムッとしているように見えるのは、気のせいだろうか。
俺は何故、そんな態度を取られてるんだ? また何かやらかしたのか?
オレがそんなことを考えている間も、「園路め……」と呟いている。陽平、どうしたんだろ。わからな過ぎて、混乱してしまう。
「陽平……園路さん、陽平とちょっと似てるよね」
「似てない」
「怒ってる?」
思い切って訊いてみた。どうも、そういう風にしか見えない。陽平は俺の両肩を掴むと、
「怒ってる。でも、慎也に怒ってるんじゃなくて、園路に怒ってる。アイツめ……」
どうしていいのか本当にわからなくて固まってしまったその時、母さんが夕飯が出来たと声を掛けてくれた。助かった。
「陽平。夕飯、食べに行こう」
「いただきます!」
その言葉は、まだ早いから。心の中で、陽平に突っ込んでみる。リビングまで行く間、陽平は一言も話さなかった。園路さんに怒ってるって、何で? 訊いてみたいけど、たぶんまともな解答は得られないだろうとは思う。訊くだけ無駄か。
「練習、はかどった?」
母さんが陽平に、笑顔で訊いた。陽平は急に普通の顔つきに戻って、
「はい。慎也くんのおかげです」
「あら。それはよかったわ」
茶碗にご飯をよそいながら、「これくらいで足りるかしら?」と訊いている。陽平も、「はい。十分です」と、まともな返答をしている。俺は、陽平のそんな態度に翻弄されるばかりだ。
夕飯が終わって、帰る時間になってしまった。
「門のところまで一緒に行ってくる」
母さんに声を掛けて、陽平と並んで玄関を出た。無言が続き、何となく気まずい。門まで来て、「じゃ、また明日」と言って門扉を開けると、陽平は、
「アイツには負けねえから」
意味不明の言葉を残して、帰っていった。
「どうしてピアノやめたんだ?」
陽平が低く訊いてきた。俺は首を振り、
「答えたくない」
まだ過去に出来ていない。心の奥の方が鈍く痛む。それを人に説明するのは難しい。だから、今は言えない。言いたくない。
「そうか。わかったよ」
そう言って、陽平は俺から離れた。カバンの中を探っている陽平の背中を見ながら、何だかわからない寂しさのようなものを感じていた。寂しいって何だよ、と自分に突っ込んでみても、その感情は消えてなくなったりはしなかった。
陽平は、手にスマホを持ってニカッとすると、
「約束」
また小指を立ててみせる。今度は何の約束だっけ、と思ってすぐに思い出した。
「推しバンド?」
「そう。それ」
陽平はスマホを操作して、動画のサイトを開いた。
「ほら、これ」
音楽が流れてきた。暗い感じのメロディーにヴォーカルのせつなげな声がのる。一度聴いたら忘れられないような、印象的な曲だ。美形のヴォーカリストのその横で、チョッキを着たウサギみたいな人がギターを弾いている。オレは画面から顔を上げ、
「え? この人?」
陽平は、オレが何を言いたいのかわかったらしく、笑い出した。
「そう。その人が、オレの推し。バンド名は、『黒いお茶会』って意味らしい。それでウサギの格好」
あの有名な話に出てくる、懐中時計を持ったウサギのことだろうか。じゃあ、歌っている人は、主人公の女の子? そんなことないか。
「このギタリストだけが、そういう格好してるんだ。面白くない? ちゃんと時計も持ってるみたいだよ」
曲が終わるとそのギタリストは、懐中時計を取り出して時間を見ているような動きをしている。独特で、確かに面白い。
「曲、暗い感じで雰囲気があって、かっこいいね」
初めて聴く『ブラティー』の音楽世界に、すっかり魅了されてしまった。他の曲も聴いてみたい。そんな気持ちになった。
そう言えば、気のせいかもしれないけど、ヴォーカルの男性、ちょっとだけ陽平と顔立ちが似てる? 美形男子は、何となく似ているように見えるものなのかもしれない。
「『ブラティー』、いいだろ? 慎也は、誰がよかった?」
四人で構成されているバンドだけど、やっぱり一番目立っていたヴォーカルがオレの推しかな、と思った。陽平に伝えると、何故か大きな溜息を吐き、
「慎也は、『園路』がいいのか」
「『園路』? それがあの人の名前なんだ?」
「本名じゃないけどな」
何だか、知り合いの話でもしてるみたいな感じだった。それがおかしくて、つい笑ってしまった。陽平は口を尖らせて、
「何だよ、笑っちゃってさ」
そんなことを言いながら、肩を抱き寄せるって何だ? それは、どういうことなんだ?
「園路がライバルか。でも、俺は負けないからな」
「は? 意味がわかんないけど」
「化粧とったら、普通の人だぞ。それでも園路がいいのか?」
「陽平、落ち着いてよ。さっきから、何か変なこと言ってるぞ?」
「だってさ、慎也は園路がいいんだろう?」
「声がすごくいいし、見た目もかっこいいから。でもさ、何でそんなにムキになってるんだよ」
陽平はそれには何も答えず、スマホをカバンに戻してしまった。ムッとしているように見えるのは、気のせいだろうか。
俺は何故、そんな態度を取られてるんだ? また何かやらかしたのか?
オレがそんなことを考えている間も、「園路め……」と呟いている。陽平、どうしたんだろ。わからな過ぎて、混乱してしまう。
「陽平……園路さん、陽平とちょっと似てるよね」
「似てない」
「怒ってる?」
思い切って訊いてみた。どうも、そういう風にしか見えない。陽平は俺の両肩を掴むと、
「怒ってる。でも、慎也に怒ってるんじゃなくて、園路に怒ってる。アイツめ……」
どうしていいのか本当にわからなくて固まってしまったその時、母さんが夕飯が出来たと声を掛けてくれた。助かった。
「陽平。夕飯、食べに行こう」
「いただきます!」
その言葉は、まだ早いから。心の中で、陽平に突っ込んでみる。リビングまで行く間、陽平は一言も話さなかった。園路さんに怒ってるって、何で? 訊いてみたいけど、たぶんまともな解答は得られないだろうとは思う。訊くだけ無駄か。
「練習、はかどった?」
母さんが陽平に、笑顔で訊いた。陽平は急に普通の顔つきに戻って、
「はい。慎也くんのおかげです」
「あら。それはよかったわ」
茶碗にご飯をよそいながら、「これくらいで足りるかしら?」と訊いている。陽平も、「はい。十分です」と、まともな返答をしている。俺は、陽平のそんな態度に翻弄されるばかりだ。
夕飯が終わって、帰る時間になってしまった。
「門のところまで一緒に行ってくる」
母さんに声を掛けて、陽平と並んで玄関を出た。無言が続き、何となく気まずい。門まで来て、「じゃ、また明日」と言って門扉を開けると、陽平は、
「アイツには負けねえから」
意味不明の言葉を残して、帰っていった。


