あの日を忘れない

「実は、この曲になると思ったので、楽譜も準備してきました」

 陽平(ようへい)がカバンから紙の束を取り出すと、担任に渡した。担任は、「おお。助かるよ」と言い、最前列の人に配り始めた。回ってきたのは、二部合唱の楽譜だった。

 パートは、教室の真ん中で分けて、左側が上、右側が下になった。つっちーと山ちゃんは、ちょうど上と下に分かれた。

「それじゃ、明日から放課後に練習するから、頑張ろうな」

 担任が言うと、クラスメイトたちは大きな声で同意を示した。このクラス、結構いいかも、と思った。

 ホームルームが終わって、俺は陽平(ようへい)を見た。陽平も俺を見ていた。陽平は、小指を立ててニヤッとすると、

「約束」
「わかってるよ。行こう」
「何か、わくわくしてきた。だって、慎也(しんや)の……」

 オレは人さし指を口の前に当てて、黙るように示した。

「何で?」

 不満そうに口を尖らせた陽平が、それでも声のトーンを落として質問してきた。俺も小声で、

「人に知られたくない。これは、内緒だろ? あのこと、クラスメイトに知られたくないだろ?」
「ま、そうかな」

 そう言う割に、あまり気にしていないように見えるのは、何故だろう。考えても仕方ないと思いつつ、つい思考してしまう。

 俺たちが話していると、山ちゃんとつっちーがそばに来て、「帰ろう」と声を掛けてきた。俺たちは、顔を見合わせた後、二人に頷いた。俺たちの様子を見ていたつっちーが、急に笑顔になった。何事かと思ったら、

「だって、お昼休み、陽平たち変だったから。仲直りしたんだろ?」
「俺たち、ケンカなんかしてないぞ」

 陽平が、いつものヘラヘラ顔で反論した。俺は、やっぱりどう返事していいのかわからず黙っていた。山ちゃんは、俺のすぐそばに移動してくると、

「ケンカじゃなかったんだ?」

 囁くように言った。俺は首を傾げるばかりだ。そもそもあれは、ケンカだったのか? 険悪な雰囲気になってしまったが、ケンカかと訊かれても、そうですとは言えない。

「俺もよくわからないんだ」

 正直な気持ちを伝えるにとどめた。山ちゃんは、「そうか」と言い、

「ま、相手が陽平だから、わからないことばっかりだよな?」

 さすが山ちゃんだ。頭がいい。そうなんだよ。陽平が俺を可愛いとか言い出して、それに対して俺が抗議して。陽平は、それから黙ってしまって、それで空気が重くなったんだ。

「そうなんだよ。わからないことばっかりなんだ」

 でも、そんなわけのわからない陽平と一緒に夕飯を食べることを考えると、胸が弾むんだから、俺の方もわけがわからない奴だと思う。

「山ちゃんって、頭いいよね」
「そうかな。ま、でも、褒められたら悪い気はしない。ありがとう」

 笑顔で言う山ちゃん。お礼を言われるのは違う気もするけど、流すことにした。

「慎也の選んだあの曲、本当に受け入れられたね。そうなるかなとは思ってたけど」

 山ちゃんはそう言うけれど、俺は正直なところ心配だった。俺の言うことなんか誰も聞いてくれないんじゃないか。その思いがあった。でも、違った。拍手で俺の提案を認めてくれるなんて、嬉しすぎだ。これは夢なんだろうか。

 いいことがあると、ついそんな風に考えてしまう癖がある。現実ではないんじゃないかと疑ってかかる。こういうの、やめたいなと思えるようになってきて、自分の進歩を感じている。前なら、そんなこと考えもしなかったのに。

「みんな、あの曲歌えるようになってくれるかな。なってくれるといいなって思うけど」
「きっと大丈夫だよ。俺の勘だけど」
「ありがとう、山ちゃん」

 クラスメイトたちが、声を揃えて俺が選んだ曲を歌う。陽平がどの程度ピアノを弾けるのかはわからないけど、きっと練習して弾けるようになってくれる。俺は、ステージの真ん中で一人、みんなの方を向いて指揮をする。そうか。俺は指揮者なんだっけ。陽平のピアノが心配で、すっかり忘れていた。

 駅までの道を、四人で話をしながら歩いた。あの昼休みの空気は何だったのかと言うくらい、普段と変わらない。俺もちょっとナーバスになり過ぎたな、と反省している。

「つっちー。山ちゃん。俺さ、今日これから慎也の家に行くんだ。羨ましいだろ?」

 陽平が言うと、つっちーと山ちゃんが俺を見た。どう説明しようかと逡巡していると、

「慎也と二人で、ブラティーの曲聴くって約束してたから。じゃあな。また明日」

 陽平が俺の背中を軽く叩いた。俺は、つっちーと山ちゃんに手を振って、「また明日」と言った。二人も俺たちに手を振り、去っていった。二人きりになって、俺は何故だか鼓動が速くなった。

「慎也。行こうか」

 声を掛けられて、ドキッとしてしまった。そうだ。俺の家に二人で行って、ピアノを教えるんだ。俺が教えるって、どうしたらいいのかわからないけど、何とかしなきゃ。

 俺は頷き、「行こう」と陽平を促した。陽平は俺の頭をそっと撫でて、微笑んだ。