胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 24.

知暎が運転席に座ったまま、シートをそっと後ろに倒そうとしたとき。スーツのシャツに付いた血を遅れて確認した。苛立つようにウェットティッシュを探した知暎。グローブボックスを漁ろうとしたとき、着信音が鳴った。左手首に嵌められた黒い腕輪がちゃらりと揺れた。知暎がポケットに手を入れて電話を先に取り出した。耳にあらかじめ挿してあったイヤホンをいじると、聞き馴染んだ声が流れ出た。

知暎 : うん。お母さん。

以心 : 疲れたでしょう。

知暎 : 大丈夫。ちょっと気持ち悪いけど。

以心 : そうだろうね。

以心の溜息が知暎のイヤホンに流れ込んできた。以心の溜息に知暎も軽い溜息をついた。短い間に深い沈黙が流れ出た。以心の言葉がしばし止まったとき、知暎もしばし言葉を継がなかった。静寂を先に破ったのは知暎だった。知暎が運転席に深く身を沈めながら、母、以心に声を伝えた。

知暎 : 岐路って、本当に怖いものなんだね。

知暎の嘆息が、ふつうの声で流れ出た。

知暎 : 今日も、選ばなきゃいけなかった。結局は助けられなかったし。

以心は答えなかった。知暎の嘆息が淡々と流れ出ていたが、以心はいつも話を聞こうとした。安易な慰めは伝えなかった。

知暎 : ちゃんと、渡れたかな。三途川(サムドチョン)に。

知暎の独り言のような問いに、以心の穏やかな声が伝わった。

以心 : わかるでしょ。あなたも。

知暎 : わかってる。死んだ人が無理やり渡ってきたんだから。壊れたらそのまま消えるだけ。でも、ただ戻って行ってくれたらよかったのに。

知暎の長い嘆息がしばし止まっていた。もどかしい心情をもう見せたくなかった。知暎が声色を変え、脈絡と異なる言葉を伝えた。

知暎 : 私も、本当は信じたくなかったんだよね。

以心 : 何が?

知暎 : もっと長く一緒にいたくて。このまま。でもやらなきゃいけないんでしょ。そうすると決めたことだから。ただ。

知暎のぼやきがしばし止まった。運転席に深く身を凭れるように横たえて座ったまま、聞こえないほどの小さな溜息をつき、決意を小さく呟いた。ある薄暗い地下駐車場に、車が一台急いで入ってきていた。美しい韓服姿を整えてから駐車もろくに済ませない人が、急いで降りる姿まで確認した後、少し遅れて後の言葉を繋いでいった。

知暎 : 全力を尽くそうって。後悔しないように。


Scene 25.

早朝。惟碩が自分の広い執務室の机の椅子に凭れるように座り、電話に届いた映像を一つ見ていた。画質がさほど良くないCCTVの映像を見ながら、怪訝さを隠せずにいた。映像の中、複数の部屋を映していたカメラが素早く切り替わりながら別の場所を映し出していた。顔に粗布の袋を被せられた連曦の前に瑞娥が立っていた。別の場所を映したカメラに収められた状況を見ながら、惟碩は腑に落ちないとばかりに眉間をかすかに寄せていた。軽い正装姿のほっそりとした女だった。荒々しく振るうもう一方の手が動くたびに、女の前に立ちはだかる人間たちの身体の一部が斬り落とされていた。当時の状況をすべて収めた録画は、さほど長くなかった。カメラが粉砕され、黒ずんだ画面を映し出した。惟碩が電話をいったん置き、口に煙草を一本咥えた。長い煙を外に吐き出したとき、電話が鳴った。しばらく交わしていた会話だったらしく、かかってきた番号を確認もせず、画面を確認するために途切れていた通話を再開した。

成賢(ソンヒョン) : 見た?

惟碩 : おかしいな。

成賢 : 俺はまあ、身を隠して長いからよく覚えてもいないけど。あれ。ダンチョウじゃないか?

惟碩 : だな。

電話の向こうの人間がしばし言葉を止めた。ためらいながら再び繋ごうとした言葉は、思いのほかそれまでの会話とは関係のない話のようだった。

成賢 : シヨンオンニは。うまく片づい、

惟碩 : そんなこと、お前がなんで訊くんだ。

成賢 : なんでって。

惟碩 : お前にはもう関係なくなっただろ。自分の手で売り渡しまでしたくせに。

成賢 : 俺が売り渡したんじゃない。あんなふうに殺すとは思わなかったし。あんたが命じさえしなければ、俺によくしてくれたオンニを俺が自分の手で、

惟碩 : そう言えば楽だろうけどな、条件を呑んで結局は濡れ衣まで着せて死なせたのはお前だ。

悔しさが胸いっぱいに込み上げてきたが、しばし言葉を呑み込んで怒りを押し殺した。間違った言葉でもなかった。惟碩の薄ら笑いが浮かんだとき、言い返しも反問もしない声を相手にしている時間が惜しいとばかりに、惟碩が黙って電話を切った。長く伸びた灰色の灰が灰皿の上に落ちた。惟碩の手に持たれていた煙草ではなかった。いつの間にか静かに入ってきた一つの気配が、滑るように動いて黒い影を運んできた。

假先知者 : どこまで突き止めたか。

惟碩が執務室の椅子に座ったまま、口に咥えていた煙草を遅れて抜き取り、灰皿の上に落とした。凭れて座った視線はまだ天井に留まっていた。わざわざ声の聞こえた方を確かめはしなかった。

惟碩 : 私がどこまで考えているか、我々がどこまで考えているか気になるのでしょうが、私はあなたの三寸の舌に踊らされるほど愚かではありません。

假先知者 : 余が、保証しよう。余に従えば、そなたに大きな報いを与えよう。

惟碩が嘲笑をいっぱいに含んだ。

惟碩 : そこまでお急ぎなら、ご自身でお出になればよろしい。ああ。この界隈を出ることはおできにならないのでしょうね。長い間、候補者(コウホシャ)の遺骨に触れることもできなかったでしょうから、霊験に偽装した狡猾さもじきに色褪せてゆくことでしょう。

假先知者 : 余に楯突いたところで、そなたに得るものはあるまい。

惟碩 : あんな取るに足らない石ころと志を同じくしたところで、私が得られるものも何もないでしょう。

惟碩の嘲りを最後に、部屋で感じられていた物寂しい気配はもう感じられなくなった。惟碩はなおも天井を見つめたまま、短くなった煙草を再び口に咥えた。


Scene 26.

誰もついてくることができなかった。真夏の猛暑が感じられなかった。管理すらされていないある古道には、分厚い石で造られた階段が据えられていた。階段を黙々と歩いていった。誰かがついてくるか確かめる理由もなかった。数歩を運んで高まる山懐深く登るたびに、暑さどころか寒さが骨を刺すほど急激に温度が下がっていた。鬼気に近い物寂しさが感じられた。しかし、馴染みの物寂しさは團長の歩みを阻むことはできなかった。誰の補佐も受けない歩みを孤独に歩いて登っていった。霧の立ちこめる山懐深く。階段をすべて抜け、整備されていない土道の辺りに辿り着くと、枯れ果てた枝と生気の欠片もない土道の上に、荒々しい風が吹き荒れ始めた。狂ったようにはためく裾を合わせながら、團長がたやすい歩みを進めていった。吹き荒れる激しい風に身体がよろめいたが、それすらも馴染みだった。それすらも退けることはできなかった。荒々しい風をすべて突き破った歩みは、ある深い洞窟を前にしていた。乱れた身なりを正した團長が、再び落ち着いた歩みで深い洞窟に入っていった。地の底深くへ続く洞窟は、陽の差す時間にも深い闇を露わにしていた。團長が手首に巻いた腕輪を解き、黒い鉄糸を立ち上がらせた。燦然と伸びた黒い鉄糸の上に、青い光の人火(インブル)を灯した。仄かな光を放ち始めた鉄糸が、團長の歩みを照らしていった。深い洞窟の片側の壁には数多の遺骨が据えられていた。積み上げられた遺骨が、深い洞窟の入口の片側の壁をまるごと埋め尽くしていた。どれほど多くの遺骨が据えられているのか知る由もないほどだった。深い死を長い時間繋いできた場所だった。薄暗い洞窟の深い果てまで辿り着いた團長の歩み。粗末な壇の上には、祭祀を執り行おうと用意していた膳が一つ置かれていた。何もない空の膳を見つめ、團長は薄い嘲笑を含み始めた。團長の気配を察したかのように、深淵のように暗い洞窟の果てから微かな光の粒が現れた。

團長 : 雑多なる妖しき惑わしが、あらゆる命を弄んできた時。もう終わりにせねばなりますまい。

團長の淡々とした宣戦布告だった。

團長 : もはや、これ以上候補者たちの命を渡すことはいたしません。無益な延命も止まることになりましょう。

宣戦布告を続けた團長の落ち着きに、光の粒がいっそう激しく立ち上がり、團長の意を詰り始めた。激しさを増す光の粒に、團長の顔がしかめられた。

團長 : 私の者すべてを奪い、私の娘たちの母を連れ去りました。「候補者の命」を呑み込みながら、かくも無責任で無用なる存在を、長き時よくぞ繋いでこられましたが、もはや、あなたは何者でもないものとなるでしょう。あなたは、善人でもなく、案內者でもありませんでした。優れてもおらず、嫉みばかりが深く、その醜い姿を保とうと弱き者すべてに囁きかけ、離間してまいりました。まもなく、終わりましょう。私でなくとも、必ず終わりましょう。

團長の落ち着いた宣戦布告が終わった。宣戦布告が終わるや否や、いっそう猛烈な光を四方に撒き散らした。團長は光の群れを見つめ、嘲笑が止まらぬとばかりに、まともな眼差しすら向けぬまま、身を翻した。光の群れがいっそう激しく噴き出した。團長は言葉を伝えることも、応じることもしなかった。黙々と自らの行くべき道を辿るのみだった。