Scene 20.
高級な大型セダンがくたびれたアパートへ入ってきていた。熱帯夜の訪れた漆黒のような夜であった。一帯に灯された明かりといえば、ひび割れてゆく街灯と、管理されていないように見えるアパートの入口のみ。なかなか大きな車の後部ドアが開き、韓服姿の以心(イシム)が席から降りた。黒い腕輪がさらりと鳴った。その場に立ち、背筋をまっすぐに伸ばして以心が軽い溜め息をついた。扉を閉め、운혜(雲鞋:ウンヘ)を運んだ。ゆるやかな足取りで、所姬が送ってきた住所を電話機で確かめたのち、崩れかけたアパートの中へ歩いていった。廊下式アパートの古いセメントの匂いがしたが、人が暮らす場所がどこであれ何が違うだろうかという思いが過ぎった。エレベーターが止まると、くたびれた廊下へ足を踏み出した以心が、ちらつく廊下の灯りに沿って歩を進めた。玄関の扉の前に立ち、ベルを鳴らした。びしょ濡れの髪をタオルで懸命にこすりながら扉を開けた。以心は扉を開けてくれた子の瞳をあまりにもよく知っていた。なかなか様になった室内へ入った以心を、洗い上がりの始緣(シヨン)は止められなかった。居間に座っていた所姬(ソヒ)が体を起こし、以心を迎えた。
所姬 : お母さん!
始緣がわざとらしいほど驚いた表情で以心をまじまじと見つめた。所姬が以心に歩み寄り、思いもよらぬ登場に驚いたように、なかなか驚いた顔を浮かべたまま、以心の手を取って居間へ招き入れた。以心が晴れやかに笑いながら所姬の手に引かれ、居間へ버선(襪:ポソン)の足を踏み入れた。始緣がおずおずと所在なさげに立っていると、所姬が始緣にかつてできなかった紹介をきちんとしようとした。そんな所姬の代わりに、以心が始緣に向かって先に明るく笑いかけながら言葉を伝えた。
以心 : はじめまして。この前は、みんな余裕がなかったものね。
閑かな声であった。明るい声の向こうに感じられる温かな感情が始緣に届いていた。始緣がしばし呆けた表情で以心の温かな挨拶を受け取った。先に自分が挨拶をすべきだったということくらいは分かっていた。けれど始緣はふと所姬が羨ましいという思いだけを胸に浮かべたまま、何もできずに以心の笑顔と向き合っているだけであった。
始緣 : あ、ああ。こんにち、は。わた、あたし。わた、しは。
所姬が静かに始緣の言葉を待った。以心も急かさなかった。言いたいことの多い始緣の目を、誰もが待っていた。
始緣 : 李始緣です。
以心は以前のことをあえて口にはしなかった。まだ水気を帯びた始緣の手をそっと握ってやった。頷きながら以心が晴れやかに笑った。知っていた。所姬の選択であった。そして知暎の鏡であった。あまりにも同じであまりにも異なる始緣を見つめながら、以心が穏やかに始緣と向き合っていた。
以心 : ええ。また会えて、本当に嬉しい。
始緣 : あ、お座り、ください。
始緣が誰かにまともな敬語を使ったのがいつだったか、記憶すらなかった。しどろもどろの始緣の手を握ってやった以心が、始緣の勧めに従って足を運んだ。居間のソファに腰を下ろしたのちも、始緣の手を放さなかった。始緣も以心の温かな心遣いが嬉しかった。嬉しかったが、ぎこちなく、嬉しかったからこそ放したくなかった。ずっと恋しかった大人の温かな手であった。温かな手を遅まきに知ったことが惜しかった。穏やかで温かく、荒くて柔らかかった。以心と始緣が並んでソファに座っていた。所姬が台所から茶と飲み物、茶菓子を盆に載せて運んできた。以心は始緣を慰めなかった。黙々と始緣のやわらかな手を握ってやっているだけであった。言葉もなく始緣の手を大切に包み込むように握ったまま、始緣が自分の温もりを感じられるよう助けていた。始緣もそんな以心の手を握りたかった。所姬が茶菓子の載った盆をソファのテーブルの上に置き、以心と始緣をじっと見守っていた。
以心 : きれいね。始緣の手。
以心が始緣の手をしっかりと握ったまま、慈しみ深い笑みを浮かべて所姬を見ながら始緣への褒め言葉を代わりに伝えた。始緣がおずおずと所姬を見やった。以心が腰をしばし伸ばしながら多くの思いが浮かんだようにしばし始緣と向き合った。以心をちらちらと窺った始緣が、以心の手をもう少しきゅっと握った。以心が首を回して所姬をしばし見つめた。慈しみ深い微笑みと共に軽く頷いた以心が、所姬が運んできた茶菓子を片手で取って始緣に渡した。始緣が残った手で以心のフォークを受け取り、そのまま固まったまま呆然と茶菓子の膳を見ていた。以心がフォークをもう一本取って所姬に渡した。所姬が向かいに座っていた体を起こし、以心が渡したフォークを受け取った。最後のフォークで以心がアオイ林檎を一つ突いた。
所姬 : お母さん、夜も遅いのに来てくれたんですね。
以心 : 所姬が不安が多いって言うから。お母さんが帰る途中に寄ったの。
所姬が深く溜め息をついた。始緣は自分の手を握ってくれている以心の温かな手を放したくなかった。かといって深刻な所姬を知らぬふりもできなかった。始緣が様子を窺う間に、以心が始緣の手をもう少しきゅっと握ってやりながら所姬の溜め息を慰めた。
以心 : 地面が沈みそうだわ。うちの所姬の溜め息で。
所姬 : ただ、なんか。必要なことだから通り過ぎることなんですけど、私は初めてでもあって。だからって、ひどく顔に出したくもなくて。オンニは毎日死ぬか生きるかの思いをしながら手伝ってくれてるのに、たかだか今回の一度が何だって言うのに。
以心 : 一度だろうと何度だろうと、痛くて辛いことは記憶に残るものよ。お母さんに何か手伝えることはない?
所姬が首を横に振った。軽く腰を伸ばしながら以心に笑みを伝えた。
所姬 : 来てくださっただけで十分です。
以心 : この前のこと以来、しばらく来られなくて気にかかってたの。ついでに来たのよ。
所姬 : 今夜のうちに帰るんですか?
以心 : そうしなきゃ。帰りに寄るところもあるし。最近、本廳でも私の後をつけ回しているみたいだし。
以心がさっぱりとした表情で林檎をすべて食べ終え、もぐもぐしながら席から立ち上がった。立ち上がるそのときまでも、始緣の手は放さなかった。始緣も以心の手をしっかり握っていた。
以心 : 林技師を長く待たせちゃうわ。行かなきゃ。二人の顔を見ようと寄っただけだから。林檎、いいの選んだね。おいしい。
所姬と始緣がつられて席から立ち上がった。以心が穏やかな微笑みを始緣に向け、遅れて手を放してから始緣の細い体を両腕を広げてそっと抱きしめた。
以心 : また会いましょうね。始緣も。
始緣が温かな大人の胸を受けたのち、静かにその場に立っていた。所姬が以心の歩みを見送った。きちんと挨拶ができなかった。恋しかった母の胸がどんなものかは知らなかったが、もし在るのだとしたら、こういうものなのだろうと思った。芳しい木の香りが始緣の洗い上がりの体に残っているように感じられた。以心を見送って戻ってきた所姬が、呆然と立ち尽くしている始緣を見ていた。始緣の目が赤く滲み、今にも泣き出しそうであった。
始緣 : あたし、なんでこんなにバカなんだろ。
所姬 : なんで?
始緣 : 情けないくらい、ろくに喋れもしないで。
始緣の悔しげな自責に、所姬が慰めるように笑いながら始緣に歩み寄った。
所姬 : ううん。十分にたくさんのこと、言えてたよ。それに、今日できなかったらどうだっていうの。今日が終わりでもないのに。
始緣 : そうだよね?? また会えるよね? また、お会いできるよね??
所姬が頷いた。
所姬 : 当たり前でしょ。うちのお母さんなんだから。
高級な大型セダンがくたびれたアパートへ入ってきていた。熱帯夜の訪れた漆黒のような夜であった。一帯に灯された明かりといえば、ひび割れてゆく街灯と、管理されていないように見えるアパートの入口のみ。なかなか大きな車の後部ドアが開き、韓服姿の以心(イシム)が席から降りた。黒い腕輪がさらりと鳴った。その場に立ち、背筋をまっすぐに伸ばして以心が軽い溜め息をついた。扉を閉め、운혜(雲鞋:ウンヘ)を運んだ。ゆるやかな足取りで、所姬が送ってきた住所を電話機で確かめたのち、崩れかけたアパートの中へ歩いていった。廊下式アパートの古いセメントの匂いがしたが、人が暮らす場所がどこであれ何が違うだろうかという思いが過ぎった。エレベーターが止まると、くたびれた廊下へ足を踏み出した以心が、ちらつく廊下の灯りに沿って歩を進めた。玄関の扉の前に立ち、ベルを鳴らした。びしょ濡れの髪をタオルで懸命にこすりながら扉を開けた。以心は扉を開けてくれた子の瞳をあまりにもよく知っていた。なかなか様になった室内へ入った以心を、洗い上がりの始緣(シヨン)は止められなかった。居間に座っていた所姬(ソヒ)が体を起こし、以心を迎えた。
所姬 : お母さん!
始緣がわざとらしいほど驚いた表情で以心をまじまじと見つめた。所姬が以心に歩み寄り、思いもよらぬ登場に驚いたように、なかなか驚いた顔を浮かべたまま、以心の手を取って居間へ招き入れた。以心が晴れやかに笑いながら所姬の手に引かれ、居間へ버선(襪:ポソン)の足を踏み入れた。始緣がおずおずと所在なさげに立っていると、所姬が始緣にかつてできなかった紹介をきちんとしようとした。そんな所姬の代わりに、以心が始緣に向かって先に明るく笑いかけながら言葉を伝えた。
以心 : はじめまして。この前は、みんな余裕がなかったものね。
閑かな声であった。明るい声の向こうに感じられる温かな感情が始緣に届いていた。始緣がしばし呆けた表情で以心の温かな挨拶を受け取った。先に自分が挨拶をすべきだったということくらいは分かっていた。けれど始緣はふと所姬が羨ましいという思いだけを胸に浮かべたまま、何もできずに以心の笑顔と向き合っているだけであった。
始緣 : あ、ああ。こんにち、は。わた、あたし。わた、しは。
所姬が静かに始緣の言葉を待った。以心も急かさなかった。言いたいことの多い始緣の目を、誰もが待っていた。
始緣 : 李始緣です。
以心は以前のことをあえて口にはしなかった。まだ水気を帯びた始緣の手をそっと握ってやった。頷きながら以心が晴れやかに笑った。知っていた。所姬の選択であった。そして知暎の鏡であった。あまりにも同じであまりにも異なる始緣を見つめながら、以心が穏やかに始緣と向き合っていた。
以心 : ええ。また会えて、本当に嬉しい。
始緣 : あ、お座り、ください。
始緣が誰かにまともな敬語を使ったのがいつだったか、記憶すらなかった。しどろもどろの始緣の手を握ってやった以心が、始緣の勧めに従って足を運んだ。居間のソファに腰を下ろしたのちも、始緣の手を放さなかった。始緣も以心の温かな心遣いが嬉しかった。嬉しかったが、ぎこちなく、嬉しかったからこそ放したくなかった。ずっと恋しかった大人の温かな手であった。温かな手を遅まきに知ったことが惜しかった。穏やかで温かく、荒くて柔らかかった。以心と始緣が並んでソファに座っていた。所姬が台所から茶と飲み物、茶菓子を盆に載せて運んできた。以心は始緣を慰めなかった。黙々と始緣のやわらかな手を握ってやっているだけであった。言葉もなく始緣の手を大切に包み込むように握ったまま、始緣が自分の温もりを感じられるよう助けていた。始緣もそんな以心の手を握りたかった。所姬が茶菓子の載った盆をソファのテーブルの上に置き、以心と始緣をじっと見守っていた。
以心 : きれいね。始緣の手。
以心が始緣の手をしっかりと握ったまま、慈しみ深い笑みを浮かべて所姬を見ながら始緣への褒め言葉を代わりに伝えた。始緣がおずおずと所姬を見やった。以心が腰をしばし伸ばしながら多くの思いが浮かんだようにしばし始緣と向き合った。以心をちらちらと窺った始緣が、以心の手をもう少しきゅっと握った。以心が首を回して所姬をしばし見つめた。慈しみ深い微笑みと共に軽く頷いた以心が、所姬が運んできた茶菓子を片手で取って始緣に渡した。始緣が残った手で以心のフォークを受け取り、そのまま固まったまま呆然と茶菓子の膳を見ていた。以心がフォークをもう一本取って所姬に渡した。所姬が向かいに座っていた体を起こし、以心が渡したフォークを受け取った。最後のフォークで以心がアオイ林檎を一つ突いた。
所姬 : お母さん、夜も遅いのに来てくれたんですね。
以心 : 所姬が不安が多いって言うから。お母さんが帰る途中に寄ったの。
所姬が深く溜め息をついた。始緣は自分の手を握ってくれている以心の温かな手を放したくなかった。かといって深刻な所姬を知らぬふりもできなかった。始緣が様子を窺う間に、以心が始緣の手をもう少しきゅっと握ってやりながら所姬の溜め息を慰めた。
以心 : 地面が沈みそうだわ。うちの所姬の溜め息で。
所姬 : ただ、なんか。必要なことだから通り過ぎることなんですけど、私は初めてでもあって。だからって、ひどく顔に出したくもなくて。オンニは毎日死ぬか生きるかの思いをしながら手伝ってくれてるのに、たかだか今回の一度が何だって言うのに。
以心 : 一度だろうと何度だろうと、痛くて辛いことは記憶に残るものよ。お母さんに何か手伝えることはない?
所姬が首を横に振った。軽く腰を伸ばしながら以心に笑みを伝えた。
所姬 : 来てくださっただけで十分です。
以心 : この前のこと以来、しばらく来られなくて気にかかってたの。ついでに来たのよ。
所姬 : 今夜のうちに帰るんですか?
以心 : そうしなきゃ。帰りに寄るところもあるし。最近、本廳でも私の後をつけ回しているみたいだし。
以心がさっぱりとした表情で林檎をすべて食べ終え、もぐもぐしながら席から立ち上がった。立ち上がるそのときまでも、始緣の手は放さなかった。始緣も以心の手をしっかり握っていた。
以心 : 林技師を長く待たせちゃうわ。行かなきゃ。二人の顔を見ようと寄っただけだから。林檎、いいの選んだね。おいしい。
所姬と始緣がつられて席から立ち上がった。以心が穏やかな微笑みを始緣に向け、遅れて手を放してから始緣の細い体を両腕を広げてそっと抱きしめた。
以心 : また会いましょうね。始緣も。
始緣が温かな大人の胸を受けたのち、静かにその場に立っていた。所姬が以心の歩みを見送った。きちんと挨拶ができなかった。恋しかった母の胸がどんなものかは知らなかったが、もし在るのだとしたら、こういうものなのだろうと思った。芳しい木の香りが始緣の洗い上がりの体に残っているように感じられた。以心を見送って戻ってきた所姬が、呆然と立ち尽くしている始緣を見ていた。始緣の目が赤く滲み、今にも泣き出しそうであった。
始緣 : あたし、なんでこんなにバカなんだろ。
所姬 : なんで?
始緣 : 情けないくらい、ろくに喋れもしないで。
始緣の悔しげな自責に、所姬が慰めるように笑いながら始緣に歩み寄った。
所姬 : ううん。十分にたくさんのこと、言えてたよ。それに、今日できなかったらどうだっていうの。今日が終わりでもないのに。
始緣 : そうだよね?? また会えるよね? また、お会いできるよね??
所姬が頷いた。
所姬 : 当たり前でしょ。うちのお母さんなんだから。
