Scene 17.
深夜になってようやく始緣と所姬が到着した。くたびれたアパートの広々とした駐車場には始緣の新しい車とバイクだけが置かれていた。始緣がヘルメットを外して手に持ち、バイクから体を降ろした。先に降りていた所姬が立ってバイクのヘルメットを外したとき、始緣がしばし何かを考えた。
始緣 : ていうか、あんたの車どこにあるの?
所姬 : いつもちょっと遠くに停めてるの。それでも念のために。
始緣 : そっか。あのとき、あの人はなんか、フィンモレだかなんだか使って自分の車隠してたみたいだけど。あんたはそういうのできないの?
所姬 : ちょっと種類が違うの。所長の呪術のほうが私の糸よりずっと上の等級だし。
始緣 : ふうん。そっか。めちゃくちゃ強かったもんね。めちゃくちゃ軽く押さえつけてたし。
所姬 : 明日の午前に服は全部届くよ。誰も来ないし。午前が一番いい。
始緣がヘルメットを手にしたまま、しばし言葉を躊躇った。
始緣 : さっきの、あの話。
所姬 : どれ。
始緣 : あたしがクソも知らないくせにあんたら二人をひっくるめて言ったんじゃないよ。ただ。あたしが持ってないものが多くて、一瞬妬ましかっただけ。
始緣の言葉に、所姬が拍子抜けしたような笑みを浮かべながら、エンジンがまだ冷めきっていないバイクの脇の駐車場のアスファルトにべたりと腰を下ろした。
所姬 : なんだ、何の話かと思った。
始緣 : ただ、ちょっと。
始緣が気まずいときに必ずする仕草があった。所姬はそんな始緣の仕草を他人の道で確かめることができていたが、所姬が直接目にしたのはこれが初めてであった。唇をとがらせてから横にずらし、広がった片頬を指で掻いていた。気まずそうにしている始緣のその姿を実際に見た所姬が、自分の道と大して変わらない始緣の姿に小さな笑いを漏らした。
始緣 : なに、急に。おかしくなったの?
申し訳なさを見せていた始緣に向かって笑いを漏らした所姬に、始緣がむきになって声を荒げた。そんな始緣の反応さえ可愛かったようで、所姬が笑みを含んだまま、笑った理由を教えてやった。
所姬 : ううん。なんか。いざ本物見たら、もうちょっと可愛いね。その顔。
所姬の笑いに、始緣が自分の仕草をしばし振り返るように指先へ視線を落とした。始緣が手を下ろし、唇を正した。
所姬 : 大丈夫だよ。そんなの気にしてないから。ごはんちゃんと食べといてなんだあの言い草って思ったけど。あと、そうだよ。私もオンニも恵まれた人間なのも。思ったよりずっと不幸になりえた人生を、他の誰よりもずっと幸せに変えてくれたお母さんもいるし。満足してる。でも、なんていうか。
所姬が包み隠さぬ様子で、背中を丸めて座りながら淡い溜め息をついた。
所姬 : 欲張りだから、もっと欲しくなるんだろうね。人と比べないと気が済まない時代でもあるし。そうしないようにはしてる。少なくともオンニも、私も。まあ、YouTubeは毎日見るけど、くだらないゲームの話とか、芸能人の話とか見てやり過ごしてるよ。人と比べたり比べられたりしたくなくて、SNSもやってないし。
始緣 : あー。あれ、精神やられるよ。あれやってる連中の末路見たらマジでめちゃくちゃだったし。
所姬 : やりとりは文字で十分だし。なにしろ古い人たちと古い知識がひとまとめに積もってるから、年寄りくさく見えるかもしれないけど、こっちのほうがずっとよかったよ。
始緣 : とにかく。ごめんって。この前、その、連曦って人にもそうだし。ずっとあんたやあの人にろくでもないことばっかりしてるみたいで。ちょっとね。
所姬 : それもまあ、私が先に言えなかったせいだし。私が所長やあんたにむしろ申し訳ないんだよ。私が先に言ってたら、あんたがいきなり撃ったりした?
始緣 : それはないけど。
所姬 : じゃあ私は。それでいいよ。
所姬が力を込めて立ち上がった。始緣もバイクから降り立ち、身軽になったように伸びをした。所姬と共に玄関へ入ろうとしていた始緣が、ヘルメットをじっと見つめながら続く問いを寄越した。
始緣 : さっき言ってたことがちょっと気になるんだけど。
所姬 : どれ?
始緣 : あたしを選んだとかいう、そういう話。
所姬 : あ。聞こえてた? 電話の声。寝てなかったの?
始緣が頷いた。
所姬 : あとで教えるよ。
始緣 : いつ。あたし意外と性格ジラルだし。せっかちだし。
所姬 : でしょうね。知暎オンニもそうだから。あんただって同じようなもんでしょ。
始緣が特に何も言わずエレベーターの中へ先に体を移した。
始緣 : 待ってれば教えてくれる?
所姬 : 必ず。
始緣 : そう。まあ。それでいいよ。
低い階に着いたのち、エレベーターが軋みながら扉を開けた。始緣が先に足を踏み出した。所姬がその後に続きながら、廊下式アパートの廊下を歩いた。外をちらりと見た所姬が、所姬と始緣を注視するように見つめる視線を感じたが、あえて気づいた素振りは見せなかった。必要なことであった。待てば、分かることであった。鍵で玄関の扉を開け、何食わぬ顔で中に入った。所姬が外をもうしばし窺ったのち、扉をゆっくりと閉めた。中に入った始緣がヘルメットをそっけなく置いてから所姬に訊いた。
所姬 : 明日、起きることを話すね。よく聞いて。この件がうまくいかないと、俗世で私たちを隠せないから。
Scene 18.
知暎(ジヨン)が外へ出てゆく以心(イシム)を見送った。以心が玄関に立ち、知暎を大切に抱きしめた。
知暎 : 泊まっていけばいいのに、なんでもう行くの。
以心 : 明日は朝の会議もあるし、下手に朝から入ったら誤解を招きやすいわ。ただでさえもう鍵の候補の捜索も始まったんだし。あなたたちのことを隠すなら、余計な誤解は買わないほうがいい。
知暎 : そんなクソ女どもなんか全部もう。
以心が知暎を抱いたまま、知暎の背中をぴしゃりと叩いた。ぱちんという手形の音に知暎が短い嘆きを漏らした。
知暎 : いてっ!! 全女史の手、相変わらず痛いわ。
以心 : とにかく。明日は気をつけて。お母さんも全部聞いたよ。所姬から。
知暎 : あ。じゃあ所姬に会いに行くんだ。
以心 : そうよ。うちの始緣にも、もう少しよくしてあげたいし。
知暎が以心からゆっくりと離れた。名残惜しいが送り出さなければならないと思った。最も名残惜しいのは以心のほうであった。顔に出さなかっただけであった。
知暎 : じゃあ早く行って。これ以上遅くなる前に。所姬、けっこう怖がってるみたいだし。あの子だからストレス発散しようとして今日買い物行ったんだよ。買うものもないくせに。
以心 : そういえばキュレーターから文字が来てたよ。あの子たちが帰ったあと、警察が来たんだって。
知暎 : あたしは所姬からさっき文字が来てた。早く行って慰めてあげて。たぶん、初めてのことだから怖いはずだよ。
以心 : うん。先に行くね。ぐっすり。いや。違うわね。あんたはぐっすり寝ちゃだめ。遅刻しないの。さっきたっぷり寝たでしょう。もう寝ないの。
以心が冷静な判断で知暎の睡眠を奨励しなかった。以心の冗談混じりの勧めに、知暎がむきになって母の勧めを受け入れまいとする強い意志を示した。
知暎 : なにそれ、あたしに徹夜して会社行けっての? 明日は鍵の仕事もしなきゃいけないのに??
知暎のぼやきに以心が笑いながら玄関の扉を出た。知暎が母を送り出したのち、居間へ歩いてきてソファにべたりと体を投げ出し、電話機を取り出して返信を送ろうと文字を打ち始めた。所姬の緊張した文字が目に入っていた。
所姬 : オンニはどうやって耐えたの? 怖くて死にそう。
知暎 : あたしが明日手伝いに行くから、あんまり心配しないで。
所姬 : それまでにあたしが変なこと口走ったら? 痛くてジラルして、めちゃくちゃなこと言い出したらどうすんの?
知暎 : もう。この頭おかしい小娘。
知暎が辛辣に文字を打ちながら所姬を案じていた。しかし文字ではきちんと気持ちを伝えきれなかったのか、もどかしくなった知暎が所姬に電話を掛けた。
知暎 : ねえ。電話出られる?
知暎の声に所姬が答えの代わりに溜め息をついた。
所姬 : うん。始緣は洗ってる。話はぜんぶ済んだし。いや、ほんとに。オンニはどうやってぜんぶ耐えたの? お母さんはどうやってぜんぶ堪えてきたんだろ? あー。あたしおかしくなりそう。あたしもあたしだけど、本当はあたしよりオンニのほうが心配なのに、オンニはどうして平気でいられるの? オンニも本当は怖いでしょ? そうでしょ??
知暎が所姬の声に軽く溜め息をつきながら所姬を落ち着かせた。
知暎 : 趙所姬。
所姬 : うん。
知暎 : あたしは、ほんとに大丈夫。怖くても大丈夫。怖いのも本当だよ。あんたみたいにあたしだって手が震えるし足も震えるのは確か。ろくに眠れもしないでしょ? あとで導入剤でも飲んでやっと寝るんだよ。たぶん。
所姬 : ごめん。
知暎 : それじゃ困るでしょ。
所姬が知暎の言葉に答えられなかった。
知暎 : だから平気なふりをしてるんだよ。妹に罪悪感を抱かせるオンニが、そんなお母さんが、世の中のどこにいるのよ。だから何でもないの。オンニだから、お母さんだから。あんたも、始緣のことを考えて。始緣に罪悪感を背負わせないためには、あんたが大丈夫でいなきゃいけないの。
知暎の穏やかな叱責に、所姬が小さく溜め息をつき、息を整えたのち知暎に答えた。
所姬 : ありがとう。
知暎 : 早く洗って寝なさい。明日の昼に寄るから。あ! あんたたちは昼まで寝てられるんだ!! 朝寝坊できていいねえ!!
所姬 : はぁ。ぜんぜん慰めにならないけど、オンニ明日もたぶん遅刻すると思うよ。
知暎 : だめ。寝る。今すぐ。
深夜になってようやく始緣と所姬が到着した。くたびれたアパートの広々とした駐車場には始緣の新しい車とバイクだけが置かれていた。始緣がヘルメットを外して手に持ち、バイクから体を降ろした。先に降りていた所姬が立ってバイクのヘルメットを外したとき、始緣がしばし何かを考えた。
始緣 : ていうか、あんたの車どこにあるの?
所姬 : いつもちょっと遠くに停めてるの。それでも念のために。
始緣 : そっか。あのとき、あの人はなんか、フィンモレだかなんだか使って自分の車隠してたみたいだけど。あんたはそういうのできないの?
所姬 : ちょっと種類が違うの。所長の呪術のほうが私の糸よりずっと上の等級だし。
始緣 : ふうん。そっか。めちゃくちゃ強かったもんね。めちゃくちゃ軽く押さえつけてたし。
所姬 : 明日の午前に服は全部届くよ。誰も来ないし。午前が一番いい。
始緣がヘルメットを手にしたまま、しばし言葉を躊躇った。
始緣 : さっきの、あの話。
所姬 : どれ。
始緣 : あたしがクソも知らないくせにあんたら二人をひっくるめて言ったんじゃないよ。ただ。あたしが持ってないものが多くて、一瞬妬ましかっただけ。
始緣の言葉に、所姬が拍子抜けしたような笑みを浮かべながら、エンジンがまだ冷めきっていないバイクの脇の駐車場のアスファルトにべたりと腰を下ろした。
所姬 : なんだ、何の話かと思った。
始緣 : ただ、ちょっと。
始緣が気まずいときに必ずする仕草があった。所姬はそんな始緣の仕草を他人の道で確かめることができていたが、所姬が直接目にしたのはこれが初めてであった。唇をとがらせてから横にずらし、広がった片頬を指で掻いていた。気まずそうにしている始緣のその姿を実際に見た所姬が、自分の道と大して変わらない始緣の姿に小さな笑いを漏らした。
始緣 : なに、急に。おかしくなったの?
申し訳なさを見せていた始緣に向かって笑いを漏らした所姬に、始緣がむきになって声を荒げた。そんな始緣の反応さえ可愛かったようで、所姬が笑みを含んだまま、笑った理由を教えてやった。
所姬 : ううん。なんか。いざ本物見たら、もうちょっと可愛いね。その顔。
所姬の笑いに、始緣が自分の仕草をしばし振り返るように指先へ視線を落とした。始緣が手を下ろし、唇を正した。
所姬 : 大丈夫だよ。そんなの気にしてないから。ごはんちゃんと食べといてなんだあの言い草って思ったけど。あと、そうだよ。私もオンニも恵まれた人間なのも。思ったよりずっと不幸になりえた人生を、他の誰よりもずっと幸せに変えてくれたお母さんもいるし。満足してる。でも、なんていうか。
所姬が包み隠さぬ様子で、背中を丸めて座りながら淡い溜め息をついた。
所姬 : 欲張りだから、もっと欲しくなるんだろうね。人と比べないと気が済まない時代でもあるし。そうしないようにはしてる。少なくともオンニも、私も。まあ、YouTubeは毎日見るけど、くだらないゲームの話とか、芸能人の話とか見てやり過ごしてるよ。人と比べたり比べられたりしたくなくて、SNSもやってないし。
始緣 : あー。あれ、精神やられるよ。あれやってる連中の末路見たらマジでめちゃくちゃだったし。
所姬 : やりとりは文字で十分だし。なにしろ古い人たちと古い知識がひとまとめに積もってるから、年寄りくさく見えるかもしれないけど、こっちのほうがずっとよかったよ。
始緣 : とにかく。ごめんって。この前、その、連曦って人にもそうだし。ずっとあんたやあの人にろくでもないことばっかりしてるみたいで。ちょっとね。
所姬 : それもまあ、私が先に言えなかったせいだし。私が所長やあんたにむしろ申し訳ないんだよ。私が先に言ってたら、あんたがいきなり撃ったりした?
始緣 : それはないけど。
所姬 : じゃあ私は。それでいいよ。
所姬が力を込めて立ち上がった。始緣もバイクから降り立ち、身軽になったように伸びをした。所姬と共に玄関へ入ろうとしていた始緣が、ヘルメットをじっと見つめながら続く問いを寄越した。
始緣 : さっき言ってたことがちょっと気になるんだけど。
所姬 : どれ?
始緣 : あたしを選んだとかいう、そういう話。
所姬 : あ。聞こえてた? 電話の声。寝てなかったの?
始緣が頷いた。
所姬 : あとで教えるよ。
始緣 : いつ。あたし意外と性格ジラルだし。せっかちだし。
所姬 : でしょうね。知暎オンニもそうだから。あんただって同じようなもんでしょ。
始緣が特に何も言わずエレベーターの中へ先に体を移した。
始緣 : 待ってれば教えてくれる?
所姬 : 必ず。
始緣 : そう。まあ。それでいいよ。
低い階に着いたのち、エレベーターが軋みながら扉を開けた。始緣が先に足を踏み出した。所姬がその後に続きながら、廊下式アパートの廊下を歩いた。外をちらりと見た所姬が、所姬と始緣を注視するように見つめる視線を感じたが、あえて気づいた素振りは見せなかった。必要なことであった。待てば、分かることであった。鍵で玄関の扉を開け、何食わぬ顔で中に入った。所姬が外をもうしばし窺ったのち、扉をゆっくりと閉めた。中に入った始緣がヘルメットをそっけなく置いてから所姬に訊いた。
所姬 : 明日、起きることを話すね。よく聞いて。この件がうまくいかないと、俗世で私たちを隠せないから。
Scene 18.
知暎(ジヨン)が外へ出てゆく以心(イシム)を見送った。以心が玄関に立ち、知暎を大切に抱きしめた。
知暎 : 泊まっていけばいいのに、なんでもう行くの。
以心 : 明日は朝の会議もあるし、下手に朝から入ったら誤解を招きやすいわ。ただでさえもう鍵の候補の捜索も始まったんだし。あなたたちのことを隠すなら、余計な誤解は買わないほうがいい。
知暎 : そんなクソ女どもなんか全部もう。
以心が知暎を抱いたまま、知暎の背中をぴしゃりと叩いた。ぱちんという手形の音に知暎が短い嘆きを漏らした。
知暎 : いてっ!! 全女史の手、相変わらず痛いわ。
以心 : とにかく。明日は気をつけて。お母さんも全部聞いたよ。所姬から。
知暎 : あ。じゃあ所姬に会いに行くんだ。
以心 : そうよ。うちの始緣にも、もう少しよくしてあげたいし。
知暎が以心からゆっくりと離れた。名残惜しいが送り出さなければならないと思った。最も名残惜しいのは以心のほうであった。顔に出さなかっただけであった。
知暎 : じゃあ早く行って。これ以上遅くなる前に。所姬、けっこう怖がってるみたいだし。あの子だからストレス発散しようとして今日買い物行ったんだよ。買うものもないくせに。
以心 : そういえばキュレーターから文字が来てたよ。あの子たちが帰ったあと、警察が来たんだって。
知暎 : あたしは所姬からさっき文字が来てた。早く行って慰めてあげて。たぶん、初めてのことだから怖いはずだよ。
以心 : うん。先に行くね。ぐっすり。いや。違うわね。あんたはぐっすり寝ちゃだめ。遅刻しないの。さっきたっぷり寝たでしょう。もう寝ないの。
以心が冷静な判断で知暎の睡眠を奨励しなかった。以心の冗談混じりの勧めに、知暎がむきになって母の勧めを受け入れまいとする強い意志を示した。
知暎 : なにそれ、あたしに徹夜して会社行けっての? 明日は鍵の仕事もしなきゃいけないのに??
知暎のぼやきに以心が笑いながら玄関の扉を出た。知暎が母を送り出したのち、居間へ歩いてきてソファにべたりと体を投げ出し、電話機を取り出して返信を送ろうと文字を打ち始めた。所姬の緊張した文字が目に入っていた。
所姬 : オンニはどうやって耐えたの? 怖くて死にそう。
知暎 : あたしが明日手伝いに行くから、あんまり心配しないで。
所姬 : それまでにあたしが変なこと口走ったら? 痛くてジラルして、めちゃくちゃなこと言い出したらどうすんの?
知暎 : もう。この頭おかしい小娘。
知暎が辛辣に文字を打ちながら所姬を案じていた。しかし文字ではきちんと気持ちを伝えきれなかったのか、もどかしくなった知暎が所姬に電話を掛けた。
知暎 : ねえ。電話出られる?
知暎の声に所姬が答えの代わりに溜め息をついた。
所姬 : うん。始緣は洗ってる。話はぜんぶ済んだし。いや、ほんとに。オンニはどうやってぜんぶ耐えたの? お母さんはどうやってぜんぶ堪えてきたんだろ? あー。あたしおかしくなりそう。あたしもあたしだけど、本当はあたしよりオンニのほうが心配なのに、オンニはどうして平気でいられるの? オンニも本当は怖いでしょ? そうでしょ??
知暎が所姬の声に軽く溜め息をつきながら所姬を落ち着かせた。
知暎 : 趙所姬。
所姬 : うん。
知暎 : あたしは、ほんとに大丈夫。怖くても大丈夫。怖いのも本当だよ。あんたみたいにあたしだって手が震えるし足も震えるのは確か。ろくに眠れもしないでしょ? あとで導入剤でも飲んでやっと寝るんだよ。たぶん。
所姬 : ごめん。
知暎 : それじゃ困るでしょ。
所姬が知暎の言葉に答えられなかった。
知暎 : だから平気なふりをしてるんだよ。妹に罪悪感を抱かせるオンニが、そんなお母さんが、世の中のどこにいるのよ。だから何でもないの。オンニだから、お母さんだから。あんたも、始緣のことを考えて。始緣に罪悪感を背負わせないためには、あんたが大丈夫でいなきゃいけないの。
知暎の穏やかな叱責に、所姬が小さく溜め息をつき、息を整えたのち知暎に答えた。
所姬 : ありがとう。
知暎 : 早く洗って寝なさい。明日の昼に寄るから。あ! あんたたちは昼まで寝てられるんだ!! 朝寝坊できていいねえ!!
所姬 : はぁ。ぜんぜん慰めにならないけど、オンニ明日もたぶん遅刻すると思うよ。
知暎 : だめ。寝る。今すぐ。
