胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 23_01.

始緣が何もない家に入ってきた。始緣が吐き出していた黒い水は跡形もなく消えていた。大したことでも、驚くことでもなかった。薄暗いアパートは薄汚いながらもかなり広かった。始緣が自分の身体一つ横たえて余りある大きさだった。始緣が見知らぬ家に留まりながら、周囲に残った薄汚い家具を見回した。前の住人は引っ越しの最中にも、残すものは残したらしく、箪笥と引き出し、台所には食卓もそのまま置かれていた。惜しいのはベッドだった。冷たい床に横になるほかなかった始緣が、残念そうに居間に出てきて薄汚いソファに目をつけた。横になれる大きさだった。始緣が疲れた身体をソファの上に横たえた。血に塗れた服が感じられた。白い肌がくっきり見えるほど短いタンクトップが身体に張りついていた。ショートパンツもかなり短く、動くのが窮屈なほどだったが、始緣は気にもせず無造作に大の字に横たえた身体を寝返りさせた。途中の記憶がまるで感じられなかった。思い出せない記憶に、始緣が腕で額を押さえては目を閉じて何かを思い出そうとした。疲れた気配が始緣の回想より先に居座り、始緣の目が次第にゆっくりと閉じていった。崩れた化粧が厚く張りついた始緣の目が、力なく震え、やがて両目に入ってきていた微かな光を遮った。


Scene 23_02.

始緣が怪しい気配を感じて辛うじて目を開けた。確かに一人で横になっていた広い家に、見知らぬ冷たさが漂っていた。深く眠れなかった始緣が、顔をしかめたまま、身体をソファから起こして素足を床に下ろした。外から入っていた駐車場のかすかな街灯の光だけが居間を照らすばかりだった。食卓に座っていた誰かが身体を起こし、居間にゆっくりと歩いてきた。始緣はなかなか動けないまま、じっと立って感じられる怪しいぞっとする気配に押されていた。玄関の扉が異様な音を立てて開き始めた。怯えきった目で、扉の向こうから入ってきた瑞娥を見つめた。瑞娥が力ない足取りでとぼとぼと歩いて入ってきた後、鉄でできた玄関の扉に鍵をかけた。瑞娥がゆっくりと顔を上げ、しばし始緣をじっと見つめた瑞娥が、何かを思い出したように頷いた。

瑞娥 : ああ、あんたとあの人、全部別の人だったんだね。

始緣 : な、何??

瑞娥の小さな独り言に、始緣は何を言っているのか、わからないとばかりに顔をしかめて瑞娥を睨んだ。瑞娥が居間にぽつんと立っている始緣をまたじっと見つめた。始緣の沈黙に瑞娥が軽く溜息をついた。瑞娥が焦点の合わない視線で、前に立っている始緣をゆっくりと窺った。瑞娥が腰に差していた刃物を抜き、一瞬で自分の腹を自ら突き刺した。始緣が大きな衝撃を受けたように、ひとりでに腰を前に傾けた。腹を押さえた始緣の肌に、ぬるぬるした何かが感じられた。膝がひとりでに崩れ落ちた始緣が、腹を力いっぱい押さえたまま、辛うじて顔を上げ、ゆっくりと近づいてくる瑞娥を見つめた。

瑞娥 : 助けて、もらいたかった。本当は。

始緣 : これ、何の。

始緣の口から太い水がぶよぶよと逆流し、床に溢れるように流れ落ちた。しかし血ではなかった。口から黒い水をたっぷり吐き出した始緣が、瑞娥に黒く充血した自分の視線を向けた。瑞娥が涙混じりの笑みを明るく浮かべながら、自分の腹を立て続けに突いていった。始緣がこれ以上堪えられないとばかりに、跪いた身体を床に倒した。瑞娥が大きく腕を振り上げ、再び自分の腹を突こうとした瞬間、瑞娥が持っていた刃物が力なく床に落ちた。床に吐き出していた始緣の黒い水の上に、瑞娥が握っていた柄が落ちて小さな波紋を立てた。瑞娥が信じられないとばかりに、笑みを含んだまま、自分の手をゆっくりと見つめた。形すら残らないほどに、瑞娥の手首がぶよぶよと崩れていた。肌が黒く褪せながら溶け落ちる黒い水に変わり始めていた。口をひくつかせていた瑞娥が自分の手首を呆然と見つめた。瑞娥が床に落ちた刃物を見つめた。始緣は瑞娥が見つめる刃物をとても拾うことができなかった。すでに崩れゆく瑞娥を助けられないにしても、自分の身を守ろうと落ちた刃物を握って暴れるのはしたくなかった。

瑞娥 : あんたも、いっそ自分が痛いほうがましみたいだね。最後まで、床に落ちた刃物も拾わないのを見ると。

瑞娥が粉々に砕けた。最期の言葉にしては、何の意味もなかった瑞娥の力ない声だった。形も残せぬまま、粉々に砕け散ってしまった。始緣は何もできなかった。それ以上深くならなかった傷が、一瞬で癒えたが、痛みはまだ感じられていた。跪いた膝を起こす考えすら浮かばなかった。今の出来事はとうてい理解できなかった。一つ確かなことは、自分もああなるだろうという漠然とした推測だった。漠然としていたが、確かだった。恐怖に凍りつく中にあっても、痛みにこれ以上耐えられなかった始緣が、ゆっくりと床に倒れた。しばし荒かった息を整え始めると、果てしない疲労が押し寄せてきた。始緣は落ち着いた息を繋ぎながら意識を失った。つまらない課業だった。始緣の留まっていた玄関の扉に立って状況を見極めていた粹廷が、自ら造った人間の存在をもはや感じられなくなった。腕を組んでいた粹廷は、凭れていた身体をゆっくりと起こした。閉じていた玄関の扉の隙間から、いっそうねばつく黒い水が遅れて溢れ出し始めた。孤独な微物の長い足掻きは、孤独だった痕跡ほどに取るに足らなかった。終わりを確認した以上、これ以上留まる必要も、価値もなかった。今日新たに造った死体も顔だけそれらしいだけで、価値がないのは同じことだろう。人の価値を判断するにあたり、個人の頭を占める経験と主観は必然だった。自分も潔白ではなかった。客観的に見ることはできなかったが、主観的に判断しても、粹廷自身の持つ価値は見るに堪えなかった。だからこそ見分けることができた。誰もが自分と同程度だと思っていた。格別に善良でも、格別に潔白でもなかった。ただ、置かれた境遇が違い、環境が違うことが理由だと思った。価値なき自分が価値なき人間を意のままに造り、使い捨てることがさほど良いことではないと思ってはいたが、良いことをしたところで、現世(イスン)に長く留まることもできないのは明らかだった。あの幼い頃、哀れに死んでしまった自分の妹のことだけを思い浮かべた。未だどこかに残っているはずの本物を見つけ出し、消し去ることを願うばかりだった。さらに堕ちても構わなかった。汚く惨めでも構わなかった。どうせ、現世に留まる時間ももう幾ばくもなかった。諦めと投げやりだとは思わなかった。選択であり判断だった。そしてもう二度と掬い上げることもできないほどに、割れた器とともに床の上にぶちまけられた水だった。粹廷が長いこと思案した後、中から外へ滲み出ていた黒い水には目もくれず、歩を進めて薄汚い廊下式アパートの外へ向かった。


Scene 23_03.

短いボブの髪を整えた後、運転席に乗り込んだ。じき明け方の東雲が昇る時間が迫っていた。本廳(ホンチョウ)までの行き方とかかる時間を携帯電話と車のナビゲーションで確認した。大差のない時間を確認した後、しらけたように頷いた。かなり疲れてはいたが、このまま黙ってもいられなかった。仕事は仕事であり、伝える意もあった。ナビゲーションの画面を映していた電話が鳴った。粹廷がしらけた手つきでハンドルに付いた通話ボタンを押すと、粹廷の仕事の結果を気にしていた熙珍の声が車内に聞こえ始めた。

熙珍 : どう、片づいた?

粹廷 : そうね。うまく終わったよ。わざわざ見なかった。くだらないから。感じる異物感はないし、消えたのは確か。植えておいた派生品(ハセイヒン)も戻ってきたし。

熙珍 : 新しく造ったのは。

粹廷 : それらしいよ。ユイセキオッパから聞いてないの?

熙珍 : まだ明け方だから。

粹廷 : さっきまで一緒にいたのに。

熙珍 : だからって飛びついて電話するわけにもいかないでしょ。

粹廷 : そうね。ところで、これ何かやらせるつもりで造ったの?

熙珍 : 私的なことじゃないよ。もちろん大っぴらにやることでもないけど。管理ちょっと頼むね。

粹廷がハンドルにそっと身を傾け、熙珍の頼みが面倒だとばかりに答えなかった。うんうん唸る不満を見せると、熙珍が軽く笑って言った。

熙珍 : 面倒なら、他の人に頼もうか?

粹廷 : ううん。そうやって他の女にオンニの貴重なお考え取られたらどうすんの。私の命もそう長くはないんだろうし。もうちょっとハードになるだけでしょ。上げてくれればいいよ。ちゃんと。

熙珍 : 淡々としてるね。思ったより。

粹廷 : 前の案內者が、私に病気もなく、悪いことしながら死ぬだろうって言ってたし。じゃあまあ、そうなるんだろうね。淡々としてるっていうよりは、それでも現世に長く足をつけさせてくれるって言ってたから、それを信じてるだけ。二人のうち一人は救ってくれるっていうんだから。何であれ。

熙珍 : 淡々とした処世にしては安逸すぎる気もするけど。

粹廷 : 命の残りが少なくなったらどうしようもないよ。がむしゃらに生きる人もいるんだろうけど、私はそうじゃないみたい。上がってきたらがむしゃらになるかなとは思うけど、今はちょっと面倒。

熙珍 : でもその策士(サクシ)の座、最後まで取られまいとしてるじゃない。

粹廷 : 話を盗み聞きできる最高職だからね。隠してることが多い方だから、表には出ないけど、しょうがないでしょ。オンニほど信任を得られてないんだし。使い物にならない人間になったら、救ってやる理由もないし。それなりの処世術だよ。使い物にならない人間のままじゃいけない、上げてやろうって思ってもらえるようにしないと。メッセンジャー役くらいはやらないとね。

熙珍 : 信任は、あなたの行動の対価よ。温情じゃなくて。

粹廷 : まあね。オンニみたいに本気でダンチョウを尊敬してるわけじゃない気はする。だから不思議なの。なんで私をサクシに据えたのか。それも道だったのか。

粹廷がそれとなく時間を確認してから遅れてエンジンをかけた。東雲が差しそうな空の色を見て急いで車を走らせた。受話器の向こうの熙珍もかすかにエンジンのかかる音を立てた。粹廷が怪訝な様子を見せた。

粹廷 : こんな時間にどこ行くの?

熙珍 : ヨンヒ。どこにいるかわかった。

粹廷 : ああ。

熙珍 : ひどく怪我してなければいいんだけど。

粹廷 : 私もちょっと気になってたんだよね。何を得ようとしてあんなにヨンヒをいじめるのか。それも実のオッパが。

熙珍 : ほんとにね。

粹廷 : オンニが知らないふうに言うの見ると、何かありそうだけど。あえて聞かないよ。早く行ってきて。今日の朝礼に遅れないように。私もみんなの出勤時間前に着くにはちょっと飛ばさないと。

熙珍 : またあとで。

しらけたまま続いていた長い通話が終わった。粹廷が静まり返った車内に小さな音楽をかけた後、物寂しい再開発団地をもう少し速く走り抜けようと、アクセルをさらに深く踏み込んでいった。