Scene 05.
空の卷子(トゥルマリ)の上に、連曦(ヨンヒ)が筆を執って何かを記していた。日付と時刻、場所まで整え、机の上にあったノートパソコンに映し出されたロードビューまで確認した連曦が、片眼鏡を直して掛けながら、平日の昼に起こる四つ目の仕事を準備した。無音に切り替えておいた電話機が光を灯した。連曦が画面に映った番号を確認したのち、小さな声で応えた。
連曦 : はい。所姬。
Scene 06.
所姬(ソヒ)が濡れた髪をタオルで巻いたまま、食卓に座って連曦に電話を掛けていた。
所姬 : お電話いただいていたんですね。
誰とも話さなかった時間が長かったようで、連曦の喉が軽くかすれていた。空咳を落としたのち、所姬に言葉を続けた。
連曦 : すみません。ちょっと喉が詰まっていたみたいで。他でもなく、最初の名前のことでお電話したんです。
所姬 : ああ。あれですか。
所姬が居間で気怠げに半ば寝そべっていた始緣(シヨン)の様子を窺った。
所姬 : 近いうちに事件があるにはあるでしょう。あの件の結果として。
連曦 : 私にお手伝いできることでも。
所姬 : 絡まなければならない道ですから、仕方なく受け入れるしかないんです。あまりお気になさらなくて大丈夫です。知暎オンニが出ることになりますから。
連曦 : うーん。そうですか。
所姬 : おそらく、時間も合わないでしょうし。仕方ないですよね。うまくいきますから、あまりお気になさらなくて大丈夫ですよ。
連曦 : 分かりました。お変わりないですか? お二人とも。
所姬 : ええ。さっき電話に出られなかったのは、道を視るのに少し意識がなかったんです。
連曦 : ああ。
連曦の短い嘆息は、幾つもの意味を含んでいた。知ってはならない規則であったが、所姬が伝えるべき事と関わりがあるのも明らかだった。しばし躊躇う連曦の心中を所姬が察し、軽い溜め息と共に言葉を続けた。
所姬 : 道が逸れたのか、逸れたならどれほど逸れたのかを視ました。幸い、道は逸れていませんでしたが、所長。
連曦 : はい。
所姬 : 今になって思えば、所長の道を私が先にお伝えしたことが、かえって問題だったのかもしれないと思えてきます。
連曦 : いいえ。大丈夫です。逸れていないのなら、私は覚悟していますから。儚い、罪なき人の命が断たれることも、もうそろそろ終わりにすべきだと思うんです。そのために私たちがいるのですから。
所姬 : こういう気持ちだったんだろうなって思いますね。所長のお話を聞いて。
連曦 : どういうものですか。
所姬がもう少し深い溜め息を吐いた。いつの間にか眠ってしまった始緣の小さな鼾が聞こえていた。気怠い秋の陽が降り注ぐように差し込む、秋の夕暮れの穏やかさがこのまま続くことを願ったが、考えと希望は、現実とは異なるほかなかった。道がそうであった。
所姬 : 始緣に近づいたのも、私の選択でした。私が所長に「あくまで、道をお伝えしたんです。選択は所長がなさることですから」という言葉は、私が知暎オンニやお母さんから聞いた言葉でした。選択という自由を与えておきながら、それに背けば責任はすべて自分が負うという意味があるじゃないですか。本当はどんな言葉よりも重くて怖い言葉なのに。だからといって、私がお母さんやオンニの言葉を嫌っているわけじゃないんです。お二人は、私の選択がどんなものであっても、最後まで信じてくださる方ですから。
Scene 07.
連曦が電話の向こうへ穏やかな微笑みを伝えていた。
連曦 : 後悔していますか。
所姬 : いいえ。まったく後悔していません。少し怖くても。
連曦 : 私もです。
所姬が連曦と似た声音で確固たる決意を伝えた。
所姬 : 万が一にも、私を恨む時が来るなら、そんな日は見えませんでしたけれど、ありもしないことですけれど、もし恨むなら。
連曦が所姬の言葉を初めて遮るようにして己の意を伝えた。
連曦 : しません。そんなこと。私は、自分のオッパだって恨んでいないんですから。
所姬 : ああ。それもそうか。私なら堪えられなかったでしょうに。
連曦 : おっしゃるとおり、怖くはあります。怖くないと言えば嘘でしょう。あまりにも過酷なことですから。その鏡の生というもの、私が何を宿すことになるか分からないし。まだ実感も湧きません。
所姬 : 私もです。今起きていることすべてが、そこまで実感がないんです。私は視たのに、それでも。
連曦 : お辛いでしょうね。
Scene 08.
慰められようとしての通話ではなかったが、連曦は温かな声で冷ややかな所姬をあやした。所姬がしばし言葉を止め、連曦の心を深く刻もうとした。
所姬 : ありがとうございます。その言葉、聞きやすい言葉ではなかったのに……。
連曦 : 私にできるのは言葉だけですから。
連曦の言葉を噛みしめるように内側へ深く刻んだのち、所姬が背筋を真っ直ぐに伸ばし、改めて感謝を伝えてから、食卓の椅子から体を起こした。
所姬 : ありがとうございます。私は、そろそろ始緣を起こさなくちゃ。
連曦 : ええ。私も、資料をもう少し調べて準備しますね。お荷物にならないように。
所姬が真っ直ぐに伸ばした背をあちこち軽くほぐしながら、何でもない声で連曦をたしなめた。
所姬 : ただの一度も、所長がお荷物になることはありませんから、ご心配なさらないでください。
連曦 : ありがとうございます。
所姬 : え。うん。あ。はい。その。
いつも電話を切る直前が問題だった。何と言えばいいか分からなくなると、지영(知暎:ジヨン)はいつもたしなめるように所姬に電話を切れと言うか、あるいは職場の上司に急かされて慌てて電話を切るほうが多かった。所姬がもじもじしてしばし言葉を継げずにいると、連曦の笑い声が聞こえてきた。
連曦 : 先に切ってください。
所姬 : はい、はい。
所姬がようやく電話を終え、食卓の上に電話機を置いた。とぼとぼと素足を運び、だらしなく伸びたまま鼾をかき始めている始緣の隣に、静かにしゃがみ込んだ。
所姬 : ねえ。起きて。
始緣 : あー。あたし昨日YouTube観てて寝坊したの。もうちょい寝かせて。
所姬 : 今日、秋物の服買いに行くって言ったじゃん。
始緣 : あー、もうネットで買うわ。
所姬 : 私をバイクに乗せてくれるって話は?
始緣が眠りにどっぷり浸かっていた声を止め、横になっていた体を荒々しく起こして座った。座ったまま、腰まで伸びた長い髪を整えるように後頭部をがしがしと掻いた。始緣が座ったまま首だけ回して所姬を見やり、力いっぱい伸びをした。伸びと共に所姬をたしなめるような欠伸交じりの言葉を寄越した。
始緣 : 頭にタオル巻いたまま行くつもり?
空の卷子(トゥルマリ)の上に、連曦(ヨンヒ)が筆を執って何かを記していた。日付と時刻、場所まで整え、机の上にあったノートパソコンに映し出されたロードビューまで確認した連曦が、片眼鏡を直して掛けながら、平日の昼に起こる四つ目の仕事を準備した。無音に切り替えておいた電話機が光を灯した。連曦が画面に映った番号を確認したのち、小さな声で応えた。
連曦 : はい。所姬。
Scene 06.
所姬(ソヒ)が濡れた髪をタオルで巻いたまま、食卓に座って連曦に電話を掛けていた。
所姬 : お電話いただいていたんですね。
誰とも話さなかった時間が長かったようで、連曦の喉が軽くかすれていた。空咳を落としたのち、所姬に言葉を続けた。
連曦 : すみません。ちょっと喉が詰まっていたみたいで。他でもなく、最初の名前のことでお電話したんです。
所姬 : ああ。あれですか。
所姬が居間で気怠げに半ば寝そべっていた始緣(シヨン)の様子を窺った。
所姬 : 近いうちに事件があるにはあるでしょう。あの件の結果として。
連曦 : 私にお手伝いできることでも。
所姬 : 絡まなければならない道ですから、仕方なく受け入れるしかないんです。あまりお気になさらなくて大丈夫です。知暎オンニが出ることになりますから。
連曦 : うーん。そうですか。
所姬 : おそらく、時間も合わないでしょうし。仕方ないですよね。うまくいきますから、あまりお気になさらなくて大丈夫ですよ。
連曦 : 分かりました。お変わりないですか? お二人とも。
所姬 : ええ。さっき電話に出られなかったのは、道を視るのに少し意識がなかったんです。
連曦 : ああ。
連曦の短い嘆息は、幾つもの意味を含んでいた。知ってはならない規則であったが、所姬が伝えるべき事と関わりがあるのも明らかだった。しばし躊躇う連曦の心中を所姬が察し、軽い溜め息と共に言葉を続けた。
所姬 : 道が逸れたのか、逸れたならどれほど逸れたのかを視ました。幸い、道は逸れていませんでしたが、所長。
連曦 : はい。
所姬 : 今になって思えば、所長の道を私が先にお伝えしたことが、かえって問題だったのかもしれないと思えてきます。
連曦 : いいえ。大丈夫です。逸れていないのなら、私は覚悟していますから。儚い、罪なき人の命が断たれることも、もうそろそろ終わりにすべきだと思うんです。そのために私たちがいるのですから。
所姬 : こういう気持ちだったんだろうなって思いますね。所長のお話を聞いて。
連曦 : どういうものですか。
所姬がもう少し深い溜め息を吐いた。いつの間にか眠ってしまった始緣の小さな鼾が聞こえていた。気怠い秋の陽が降り注ぐように差し込む、秋の夕暮れの穏やかさがこのまま続くことを願ったが、考えと希望は、現実とは異なるほかなかった。道がそうであった。
所姬 : 始緣に近づいたのも、私の選択でした。私が所長に「あくまで、道をお伝えしたんです。選択は所長がなさることですから」という言葉は、私が知暎オンニやお母さんから聞いた言葉でした。選択という自由を与えておきながら、それに背けば責任はすべて自分が負うという意味があるじゃないですか。本当はどんな言葉よりも重くて怖い言葉なのに。だからといって、私がお母さんやオンニの言葉を嫌っているわけじゃないんです。お二人は、私の選択がどんなものであっても、最後まで信じてくださる方ですから。
Scene 07.
連曦が電話の向こうへ穏やかな微笑みを伝えていた。
連曦 : 後悔していますか。
所姬 : いいえ。まったく後悔していません。少し怖くても。
連曦 : 私もです。
所姬が連曦と似た声音で確固たる決意を伝えた。
所姬 : 万が一にも、私を恨む時が来るなら、そんな日は見えませんでしたけれど、ありもしないことですけれど、もし恨むなら。
連曦が所姬の言葉を初めて遮るようにして己の意を伝えた。
連曦 : しません。そんなこと。私は、自分のオッパだって恨んでいないんですから。
所姬 : ああ。それもそうか。私なら堪えられなかったでしょうに。
連曦 : おっしゃるとおり、怖くはあります。怖くないと言えば嘘でしょう。あまりにも過酷なことですから。その鏡の生というもの、私が何を宿すことになるか分からないし。まだ実感も湧きません。
所姬 : 私もです。今起きていることすべてが、そこまで実感がないんです。私は視たのに、それでも。
連曦 : お辛いでしょうね。
Scene 08.
慰められようとしての通話ではなかったが、連曦は温かな声で冷ややかな所姬をあやした。所姬がしばし言葉を止め、連曦の心を深く刻もうとした。
所姬 : ありがとうございます。その言葉、聞きやすい言葉ではなかったのに……。
連曦 : 私にできるのは言葉だけですから。
連曦の言葉を噛みしめるように内側へ深く刻んだのち、所姬が背筋を真っ直ぐに伸ばし、改めて感謝を伝えてから、食卓の椅子から体を起こした。
所姬 : ありがとうございます。私は、そろそろ始緣を起こさなくちゃ。
連曦 : ええ。私も、資料をもう少し調べて準備しますね。お荷物にならないように。
所姬が真っ直ぐに伸ばした背をあちこち軽くほぐしながら、何でもない声で連曦をたしなめた。
所姬 : ただの一度も、所長がお荷物になることはありませんから、ご心配なさらないでください。
連曦 : ありがとうございます。
所姬 : え。うん。あ。はい。その。
いつも電話を切る直前が問題だった。何と言えばいいか分からなくなると、지영(知暎:ジヨン)はいつもたしなめるように所姬に電話を切れと言うか、あるいは職場の上司に急かされて慌てて電話を切るほうが多かった。所姬がもじもじしてしばし言葉を継げずにいると、連曦の笑い声が聞こえてきた。
連曦 : 先に切ってください。
所姬 : はい、はい。
所姬がようやく電話を終え、食卓の上に電話機を置いた。とぼとぼと素足を運び、だらしなく伸びたまま鼾をかき始めている始緣の隣に、静かにしゃがみ込んだ。
所姬 : ねえ。起きて。
始緣 : あー。あたし昨日YouTube観てて寝坊したの。もうちょい寝かせて。
所姬 : 今日、秋物の服買いに行くって言ったじゃん。
始緣 : あー、もうネットで買うわ。
所姬 : 私をバイクに乗せてくれるって話は?
始緣が眠りにどっぷり浸かっていた声を止め、横になっていた体を荒々しく起こして座った。座ったまま、腰まで伸びた長い髪を整えるように後頭部をがしがしと掻いた。始緣が座ったまま首だけ回して所姬を見やり、力いっぱい伸びをした。伸びと共に所姬をたしなめるような欠伸交じりの言葉を寄越した。
始緣 : 頭にタオル巻いたまま行くつもり?
