胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 08.

外に停めておいた車の中へ身を滑り込ませた所姬(ソヒ)が、不在着信の表示が浮かんだ電話を開いた。小さな所姬の掌に収まった小さな電話を開き、中に記された番号を確かめた後、何気なく折り返した。かなり眩しい陽射しが車窓の前から溢れるように差し込んでいた。疲れた声をたっぷりと湛えた知暎(ジヨン)が電話の向こうから先に言葉を所姬へ寄越した。

知暎 : 無事にうまく片づけたよ。始緣にわからないように自責の念も薄くしておいたし。

所姬 : 疲れてそう。

知暎 : 昨日も残業して、今日も朝早く出たんだよ。病院行くって言い訳しなきゃいけないからさ。おまけに、あんたもあたしも物理力であって幻術の方じゃないじゃん。けっこうキツかった。でも、あの子もほんと優しいよね。実際には殺してもいないのに、何をそんなにいちいち自責まで感じるんだか。

所姬 : あたしが代わろうか?

知暎 : いいよ。あんた、幻術使おうとして血ぃ吐いて倒れたの、あたしが一度や二度見たと思ってんの。なに。今度はあんたまで病院のお世話になるつもり? やめな。するな。

所姬 : しきりにあたしのこと半端もんだって馬鹿にしてるみたいだね。

知暎 : また、また。趙所姬。くだらないことで拗ねる。また。とにかく、あの人にはちゃんと会えた?

電話の向こうから知暎の車のエンジン音が聞こえた。所姬がしばし忘れていたとでもいうように、自分も電話をホルダーに掛けては自分の車のエンジンをかけた。知暎の騒音とは異なり、所姬の車から聞こえるエンジン音はさほど騒がしくはなかった。

所姬 : 怖い人だった。複雑で、善いのに、鋭かった。すごく、何ていうか。本当に幕の向こう側の人っていうのはああいう人なんだな、って程度。

知暎 : お母さんが信じる数少ない人だっていうじゃん。だからあの泥沼で生き残ってるんだよ。あたしが行ったら本当に全員死んでたわ。

人気のない再開発地区の路地から所姬がハンドルを切って場を離れた。ゆっくりと動いた車が、大通りの入口で信号を待つためにしばし止まった時、知暎の意地の込もった怒りが所姬の口元を持ち上げた。

所姬 : あたしが鏡だってことを確かめたかったみたい。

知暎 : 連曦様の?

所姬 : うん。それが目的だったっぽい。あたしがあの人の道をまだ見られないっていう確信も得るついでに。

知暎 : ほんとだよね、それ不思議だよね。どうして見えないわけ?

七年前、知暎に起きた良くなかった出来事が思い浮かんだ。所姬が努めて言葉を惜しみ、熙珍から聞いた話をとても伝えられぬまま、遠回しに言葉を流した。

所姬 : あたしも確かじゃなくて。半信半疑。ちゃんと教えてくれるわけもないし。

ササヤキという言葉を聞いた後、知暎が何かを考えるように話を口にしなかった。

所姬 : そのうちちゃんとあたしに見えるようになるとは言うんだけど、守ってくれると言いながらあたしを欺くっていうのが、まだぎこちないし。

信号が変わった後、所姬が車を走らせ交差点の左折信号に従って車を進めた。

知暎 : どうしても不安なら、あたしが一回会ってみようか?

所姬 : オンニが전령(傳令:デンレイ)を宿してから、あたしはもうオンニの道もまったく見えない。そんなオンニがあの人に会ったところで、得るものも大して——

知暎 : あ、ちょっと、あたし会社から電話入ってきた。ごめん。

慌ただしく電話が切れた。所姬が車内に響いていた知暎の声を背に、小さな溜め息と共にハンドルに付いたボタンを押して車内に賑やかな音楽を流した。眩しい秋の陽射しに所姬がサンバイザーに挟んでおいたサングラスを抜き、片手で器用に開いては目の上に降り注ぐ光を遮った。


Scene 09.

荒れたアパートの駐車場の前へ車が一台入ってきていた。午後の陽が思いのほか熱く据わっていた駐車場で日陰を探して駐車を終えた後、エンジンを切った。まだ空き地に近い駐車場にはいかなる車も入ってきてはいなかった。新品と見えるバイクが一台だけぽつんと置かれていた。エンジンを切った後、連曦(ヨンヒ)が運転席のシートをそっと後ろへ下げては、朝から動き続けた疲れをしばし癒そうと目を閉じた。ヘッドレストに頭を預けると装飾品が邪魔になった。連曦は無言のまま閉じた目のまま慎重に手を動かし、簪のように据わった煙管の飾りを抜き出した。煙管の頭には二羽の蝶が錫で象られたまま、下方へ淡い青い房を垂らしていた。連曦の長い髪が下へ流れ落ちた。ようやくまともに頭が預けられたのか、連曦が軽い息遣いを漏らしながらしばしの間でもちゃんと目を閉じてみようとした。温かい陽射しがおのずと気だるさを運んでいる時、長い運転のせいで気だるかった身体がたちまち浅い眠りに落ちていった。窓の外、遠くからのっそりとした足取りで歩いてきた始緣(シヨン)が、片手いっぱいに食べ物を提げてきたそのまま、運転席に凭れて居眠りしていた連曦の近くを通り過ぎた。通り過ぎていた足がぴたりと止まった。運転席で目を閉じた連曦を見ては運転席のドアの脇へ再び歩を進めた。眠ろうとシートに凭れて横たわっていた連曦の傍らへ近づいた始緣が、わずかに開いていた窓の隙間からぶっきらぼうに言葉を投げた。

始緣 : なんだ、この車。

連曦が閉じていた目を開け、始緣のぶっきらぼうな声に驚いた様子を見せた。始緣が連曦の服装をじっと見ながら何か妙な気分を覚えた。

始緣 : その服なんだよ。韓服じゃないの? そんなのもあったのかよ。化粧はまたいつ落としたんだ?

連曦が周囲をしばし窺い、来る者がいないか、また他に人がいたのではないか確かめた後、短く眠った時間に合わせて赤く充血した目のまま、車のドアをそっと開けた。始緣がたじろぎながら退き、車から降りる連曦を見つめた。まだろくに目が覚めていないかのように周囲を窺う連曦の目鼻立ちをまじまじと見つめた瞬間、始緣がぞっとする気分を覚えた。手に持っていた封筒をそのまま握ったまま、腰に差していた銃を抜き連曦の眉間を狙った。ここへ来る見知らぬ人間はしばらくいないはずだという所姬の忠告が脳裏をよぎった。連曦が驚きの目を浮かべる暇もなく、始緣の銃口から噴き出た閃光をまじまじと見つめた。ゆるやかに迫る閃光と共に、小さな鉄の玉が連曦の肩のあたりへ飛んできていた。連曦が履いた淡い青色の雲鞋(ウンヘ)が軽く捻れるように地面を踏んだ。連曦の小柄な身体を支えていた腰が半円を描くように撓り、素早く弾丸をかわした。蝶の羽ばたきのように軽やかに前へ身を屈め、飛来したすべての弾丸を躱した連曦が、舞を踏むように足を回して掴んでは始緣の手を引き掴んだ。地面を支えていた片足を据えたまま、もう一方の足を素早く回し上げて始緣の腕を巻き付けた。脚で巻き付けた始緣の腕を折り下ろし、地面へ叩き伏せるように始緣を崩し落として簡単に制した。素早く続いた連曦の瞬時の判断は始緣を制するに十分であったが、始緣をこれ以上傷つけまいとそのまま固定した力が問題であった。連曦の判断が大きく誤っていたとでもいうように、膝を折っていた始緣が、そのまま身を力いっぱい地面へ沈み込ませ連曦の均衡を崩した。連曦がしっかりと掴んでいた始緣の腕が折れる音を立てた。肩のあたりに走った痛みにも構わなかった始緣が、連曦の韓服の襟を掴んだまま、倒れた連曦の胸倉を引っ掴むように掴み上げては、弾丸を当てようとしていた連曦の肩へ銃口を再び向けた。

始緣 : なんだ。お前。

連曦が狼狽えた目を浮かべた時、始緣のスライドの上へ赤い糸玉が巻きついた。連曦の肩を狙っていた銃口の向きが一瞬で逸れ、危うい刹那をかろうじて越えた。殺す意図はなかった始緣の目に、幸いにも連曦の姿は智胤の姿を映すことなく、連曦の姿のまま映し出されていた。威嚇だけを加えていた始緣が、赤い糸玉を辿って視線を巡らせた。所姬(ソヒ)が急いで車から降りたらしく、エンジンも切れぬまま車のドアを開け放っては、両手から編み出された糸玉を力いっぱい引き寄せていた。続くかもしれない連曦の攻撃までも防ごうと、残った糸玉で連曦の片方の手首を押さえていた。

所姬 : お二人とも、やめてください。

始緣が訳がわからぬという表情をしばし収めては、所姬に言われた通り黙って連曦の胸倉を離した。所姬が手を振り払うように動くと、始緣の銃口に巻きついていた赤い糸玉と連曦の片方の手首を巻いていた糸玉のすべてが跡形もなく消えた。地面にへたり込んだ連曦へ急いで駆け寄った所姬が、申し訳なさそうな表情をいっぱいに浮かべ、連曦へ手を差し伸べた。連曦が軽く微笑みながら所姬の手を取り、その場から立ち上がった。

所姬 : すみません。私が始緣に前もって言えなかったんです。

連曦 : いいえ。私は大丈夫です。むしろ、私——

始緣の腕を脱臼させた瞬間を思い返した連曦が始緣に向かって申し訳なさそうな顔を向けたが、始緣は所姬と連曦を見もせず、軋んでいた腕をほぐすようにあちこちへ振り回していた。

連曦 : すみません。大丈夫ですか?

始緣が自分を見て尋ねた連曦をそっけなく見やった。

始緣 : アニ、用があったなら早く言えよ。無駄に血ぃ見るとこだったじゃん。

連曦 : すみません。私、寝惚けていたみたいで。

むしろ連曦が申し訳なさそうに頭を下げた。始緣がそんな連曦を見てばつが悪そうに、振り回していた腕を止めては手に握っていた銃をしばし見た後、腰元へ隠すように差し込んだ。

始緣 : まあ、あたしも撃ったのは事実だから。ごめん。

始緣がきまり悪い詫びを伝えると、しばし気まずい空気が流れた。所姬が空咳を漏らしてはエンジンがまだかかっていた車へ戻り、連曦の車の隣へ自分の車を移して駐車まで済ませた。車から再び降りた所姬が、相変わらず気まずそうに立っていた二人に近づいた。

所姬 : 所長。お願いを一つしてもよろしいですか。

連曦 : はい。おっしゃってください。

所姬 : もう少ししたら、책사(策士:サクシ)の——あの女。じゃなくて、その、とにかく。あの人が来るので。帳を少し……。

連曦 : あ。はい。わかりました。

連曦が所姬の真意を悟り、長く問わずに白砂を手首から散らすように広げた。駐車されていた連曦の車と所姬の車が、散った白砂の茂みにたちまち跡形もなく消えた。所姬が頭を下げて感謝を表した時、連曦は穏やかな微笑みを浮かべ、大したことではないとでもいうように首を横に振った。所姬が先に歩を進めて先に立つと、連曦が所姬の後に続いた。しかし始緣は思いがけない人物と思いがけない呪術に驚いたのか、しばし呆然と立ち尽くしていた。

所姬 : 何してんの。早く来なよ。

始緣 : え? え。あ。アニ、おい。ちょっと、お前ら二人はなんだよ? 双子か?

始緣の問いに連曦と所姬が互いをちらりと見やった。

所姬 : いいから早く来な。説明してあげるから。