胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 18.

血まみれになった美延(美延:ミヨン)が、苦しげな足取りを運んでいた。初めて経験する苦行だった。この道のすべてを切り拓いて進む團長が、到底理解できぬほどに、ここに至るまでの短い旅路が、いかなる難関よりも困難に感じられていた。だが最も確かな答えが必要だった。美延は前後を弁える立場も状況も持ち合わせていなかった。一人では何もできない有様に追い込まれ、辛うじて掴んだ高位の座を手放すことは、なおさら恐ろしかった。むしろ今この苦行の方が百倍ましだった。山積する遺骨の道を通り過ぎ、何も見えぬほど深い洞窟へ足を踏み入れた美延が、足を踏み外し、果てしなく暗い洞窟の奥深くまで際限なく転がり落ちていった。底の果てに至った後にようやく、美延はかろうじて止まることができた。湿った床に身を横たえた美延の意識は保てるはずもなかった。頭が割れ血が流れ落ちる美延の小さな身体に、冷たい光が触れ始めた。

望むものが、いかなるものゆえに、かくも愚かな真似をするか。


Scene 19_01.

満腹感にあふれた所姬(所姬:ソヒ)と始緣(始緣:シヨン)が、居間にそれぞれ寝転がっていた。強い陽射しの中にも悪くない気だるさを感じながら、それなりの光合成を続けていた二人。そんな静かな幸福を満喫していた最中、所姬が口をそっと開いて始緣に尋ねた。

所姬 : 始緣。

名前を呼んだのはほぼ初めてのことだった。寝転がっていた始緣が所姬のぶっきらぼうな優しさに、しばし言葉を継げなかった。

所姬 : さっき、どこ行ってきたの?

始緣 : 起きてたのか?

所姬 : うん。

所姬の家がもうすっかり見慣れ始めていた。ぼんやりと天井を見つめながら、始緣が長い悩みを打ち明けた。

始緣 : 正直、死んだのがまだ実感ない。いや、実感はしてるんだけど、何ていうか。やってることは同じじゃん。酒飲んだらテーブルで寝て。クズになって。自分が本当に死んだのか気になった。いや、気になるのとも違う。ただ、確信が必要だった。特に、昨夜、あんたのお母さんに会ってからっていうか。自分がちゃんとしっかりしてなきゃって思ったし。少なくとも、あんたたちのお荷物みたいにしちゃいけないなって。

所姬 : それで?

始緣 : 自分がくたばった場所に行ってきた。

所姬が身をそっと転がし、居間の反対側に大の字で寝転がっている始緣の方を向いた。

所姬 : そうだったんだ。

始緣 : 私の血痕が、大理石の隙間にちっぽけに挟まってた。正直、いざ血を見ても実感はなかった。もしかしたら、ただの怪我かもしれないじゃん。体はすぐ治るんだから。でも、何ていうか。

始緣の自嘲的な声に初めて触れた。頭の片隅に残っていた、始緣に似た知暎の姿がむしろ薄れていった。

始緣 : その血をちょっと触ってみたんだよ。狭い隙間にある染みだった。何日も経ってるんだから死ぬほど冷たいだろ。石の間に挟まった血がシバル温かいわけないだろ? 冷たいだろ。でも。

始緣がしばし言葉を止めた。軽い溜息が漏れた後、始緣の静かな声が流れ出た。

始緣 : そうじゃなかった。私の手の方が冷たかった。あそこに残った私の血は温かくて、温かい私の血に触れる私の手はむしろ冷たかった。だからわかった。だから本当に実感した。

所姬が横を向いたまま、頷いた。天井を向いていた始緣の視線がゆっくりと回り、じっと自分を見つめていた所姬と目が合った。

始緣 : 何だって?

唐突な始緣の問いに、所姬が戸惑いながら聞き返した。

所姬 : え??

いきなり始緣が文脈に合わない問いを所姬に投げた。所姬の目元がわずかに顰められた。始緣の目の下が暗く滲むように見えた。

始緣 : 何か言わなかった?

所姬 : 私が??

始緣 : 持つって何を持つのよあんたが?

所姬 : 何を??

所姬が横たわっていた身をもう少し起こし、始緣をよく見た。所姬が驚いた表情を隠しきれぬまま、始緣を呼んだ。

所姬 : 李始緣。あんた。

始緣 : え??

所姬 : 目。

所姬の動揺した声に、始緣がそっけない反応を見せながら身を起こした。居間に置かれた大きな鏡へ座ったまま身を引きずった。鏡の前に近づいた始緣が、己の目の下に垂れた黒い水影を確かめた後、むしろ動揺した気色を見せた。所姬の方へゆっくりと首が回った。始緣の眼球が破裂し、コムンムルが溢れ出るように滲み出た。凄まじい苦痛が走った。かつて感じたことのない激痛に、始緣が目を急いで押さえ、身をめいっぱい縮こませた。所姬が驚いたまま急いで起き上がり始緣を助けようとした。うずくまった始緣の身体が獣のように跳ね飛び、所姬を押し倒した。所姬の細い首を始緣が片手で力いっぱい捻り掴んでいた。始緣の意志では動かぬかのように、破裂した目を覆っていたもう一方の手を離し、所姬の首を両手で力いっぱい絞め始めた。

始緣(使節) : 私が手に入れる!! 私が!!


Scene 19_02.

知暎(知暎:ジヨン)がハンドルを急に切り、外出先とは違う方向に車の頭を向けた。片方の目が黒く染まった知暎が、渋滞もものともせず急いで車を駆った。知暎の内側で絶え間なく何かが囁いていた。片方の目がまともに見えなくなり始めた。ハンドルを握った手のまま手首に巻いた腕輪を起こし、鉄糸を車内に散らした。たわむように揺れていた鉄糸の先が知暎の片方の目の近くの肌を裂いた。コムンムルが溢れ出るように流れ落ち、かろうじてぼんやりとではあるが視界を取り戻した知暎が、ハンドルとアクセルを止めずに動かし続けた。やがて、古びたあるアパートに到着するに至った。駐車場に車を急いで停めた後、エンジンも切らず運転席のドアを開けた知暎。片方の目を押さえたまま、かろうじてふらつく身を降ろして立たせた後、廊下式アパートのある入口を見つけた。知暎の思い通りに歩みも続かなかった。車のドアを掴んでかろうじて踏ん張って立った知暎が、ふらつく歩みをかろうじて正し、腕輪をそのまま散らして四方に細い鉄糸を撒いた。建物の外壁に鉄糸を打ち込むように固定した後、己の身体を力いっぱい持ち上げ、アパートの階を一気に飛び越えた。


Scene 19_03.

咳すら出なかった。蒼白になっていく所姬が息を繋げぬほどに追い詰められていたが、最後まで己の呪術を使わず、腕力だけで始緣を引き剥がそうとしていた。だが口に泡が溜まるほどだった。息はおろか頸骨が砕けそうだった。しかし始緣の手に宿る力も激しいばかりではなかった。始緣が内側で戦っているかのように、所姬の首を掴んだ手がわなわなと震えていた。片方の眼球が消えた場所からはコムンムルが絶え間なく滴っていた。所姬の顔、首、床をじっとりと濡らすほどに溢れるコムンムルの中、所姬が昨日と同じように無力に死を前にしていた。サムドチョンの水は、イスンの命を蝕むしかなかった。所姬がそうして死にかけた頃、玄関の扉が引き裂かれるように弾け、知暎が踏み込んだ。靴を脱ぐ暇もなかった知暎が、もう一人の始緣の姿を纏ったまま黒い鉄糸を四方に撒き散らした。知暎の両の目も始緣のそれと変わらなかった。むしろさらに黒く深い深淵だった。所姬が朦朧とした意識の彼方で確かめた知暎の凄まじさに、首に感じていた苦痛すら忘れかけた。馴染みの知暎の姿ではなかった。黒い威圧だった。知暎の内に宿る何かが外に露わになっていた。散らされた黒い鉄糸の先が始緣のこめかみを抉り入った。裂けた肉の間からコムンムルが窓ガラスを破るほどに溢れ出た。知暎の内に宿る何かが鉄糸を力いっぱい引き、始緣の身体を所姬から引き離した。床に転がった始緣に飛びかかった知暎が、獣のようにもがく始緣を押さえつけていた。所姬が水に半ば浸かったまま激しく咳き込み、塞がっていた息をかろうじて吐き出した。始緣を鎮めるべく、知暎の内に宿る何かが始緣の身体を力いっぱい押さえつけたまま、知暎の声を借りて意を伝え始めた。

知暎(傳令) : イスンは、サムドチョンを容認しない。

始緣(使節) : だから!!

知暎(傳令) : 侵食しようとするな。イスンではお前がその肉体の主ではないのだから。

知暎の声と寸分違わなかったが、語感も違えば感じられる雰囲気も異なっていた。所姬が何もできずにいる間、傳令が知暎の身体を借りて、鉄糸をさらに激しく押し込みながら、始緣を侵食しようとしていた使節をゆっくりと退かせていった。居間の床で暴れていた始緣が次第に落ち着きを取り戻し始めた。飛び出していた眼球も元の場所に戻り、もはやコムンムルを流すこともなくなった。両の目から黒い涙が乾いていく頃。始緣の苦痛も共に和らいでいくかのように、眠りに落ちた者のように意識を失った。すべてを収めた傳令が、始緣をそっと残して身を起こした。首を撫でながら苦しげな表情を隠せぬ所姬と傳令が目を合わせた。

知暎(傳令) : そうであろうな。そうであったか。須菩提よ。

傳令の小さな吟じを聞いた所姬が、遅ればせながらふらつく身を整え、礼を尽くそうとした。そんな所姬の所作には構わぬまま、傳令が退いたらしく、知暎の両の目が本来の姿に戻った。疲れ果てたのは始緣だけではなかった。知暎も軽く着ていたスーツの大半がコムンムルに染まっていた。知暎の膝が自ずと折れ、所姬の居間に身を半ば崩した。知暎の膝にコムンムルがたぷたぷと揺れていた。周囲をしばし見回した知暎が、両手を力なく振り払い、所姬の家に満ちていたコムンムルのすべてを掌の縁に吸い込んだ。水滴の一つも残さぬまま、いつの間にか清められた所姬の家。荒く吐いた息を整えた知暎が、力なく膝を立て直しながら、まともに立ち上がることもできない所姬を支えようとした。頸骨に傷が残ったらしく、所姬が苦しんでいた。知暎がふらつく足取りで所姬の部屋にずかずかと入り、引き出しから灰色の粉を取り出してきた。苦しい足取りを最後まで運び、所姬の傍に再び座った知暎。頸骨を傷めた所姬を抱え上げればかえって危険であったため、所姬の口だけをそっと開いて白い粉を中に落とし入れた。所姬が凄まじい苦痛に耐えようと知暎の袖を荒々しく掴んだ。遅れて悲鳴が迸った。だが知暎はそれでようやく安堵したように、気力すら残らぬ身を床にへたり込ませた。所姬がもそもそと身を整えるように起こした。

知暎 : 趙所姬。大丈夫?

所姬が辛うじて頷き、身を起こして急いで始緣の方へ向かった。始緣の状態を確かめた。知暎から受けた傷が簡単には戻らないようだったが、命に別状はなさそうだった。所姬が知暎の荒い呼吸を案じた。始緣を半ば抱えたまま、知暎に尋ねた。

所姬 : オンニは?

知暎が大丈夫だという意で頷いた。知暎の目の下には横に長く裂けた傷が据わっていた。普段とは違い、血が止まりもせず、肉がくっつきもしなかった。溜息を数度漏らした知暎が、遅れて家の中を確かめ、床に力なくへたり込むとそのまま身を横たえた。

知暎 : 思ったよりちゃんと飾ってるじゃん。家。

寝言のような戯言を漏らした知暎の笑み混じりの言葉に、所姬が始緣をちゃんと横たえながら知暎に尋ねた。

所姬 : 何があったの。

所姬の問いに知暎が唾を呑み込みながら答えた。

知暎 : 初めて見たでしょ。傳令。

所姬 : ……うん。

知暎 : 傳令が言ったの。使節が暴れてるって。あんたが危ないって。イスンでの過ごし方をまるで知らないから、仕方ないからすぐ助けなきゃって。そうしないとジョスンの門がまるごと壊れるって。私は出張行きかけで急いで車回して来たし。あーシバル。部長の野郎またジラルするだろうね。

所姬 : 私が時間でも少し戻そうか。

知暎 : むやみに寿命いじらないで。怒られるくらいどうってことないし。それはそうと。

知暎が大の字に寝転がっていた身を力なく起こし、所姬と共に暮らしていた始緣をじっと見つめた。

知暎 : ほんとに見れば見るほどそっくりだね。

所姬 : ありがとう。私、ほんとにどうしたらいいかわからなくて慌てたんだけど。オンニがいなかったら—

知暎が己の腕に凭れるように座っていた身を、溜息交じりの気合とともに辛うじて再び起こした。

知暎 : 危ないことはないよ。使節は。ただ、イスンの見物に我を忘れてただけだから。ついでに始緣の身体を奪おうとしたわけだけど、ちゃんと収まった。

知暎が次第にしっかりした声で静かに説明を続けた。遅れて靴を確かめた知暎が、様子を窺いながら靴を脱いで玄関へ運んでいった。

所姬 : 助けてくれてありがとう、オンニ。

知暎 : もしかして借りられる服ある?

所姬 : 始緣の服、一部ここにあるにはあるけど。普段着だからちょっと。

知暎 : いいよ。ちょっと貸して。今日に限って着替えの鞄も忘れて来ちゃって散々だわ。

所姬 : オンニ、でも目の下の傷。

知暎 : サムドチョンの水が押し寄せてきたの。裂いた。そうしないと私も片方の目玉が破裂しそうだったから。さっき使ったピョッカル以外に残りある?

所姬 : 私はあんまり使わないから。あれが全部だった。あるところもすっかり忘れてた。鞄に入れたきり。

知暎 : 私もあんまり使わないけど、あーいつも持ち歩いてる着替えの鞄にちょっとあるんだけど。何かと不便だね、今日は。

所姬が意識を失った始緣をしばし置いて自分の部屋に入り、救急箱と替えの服を取り出してきた。

所姬 : ねえ、オンニ。

知暎が大雑把に服を着たまま新しい服を着て、器用に着替えていた。知暎の目の下に垂れたコムンムルの跡を見て、所姬がしばし躊躇った。

知暎 : ん?

所姬 : すごく大変だったんだね。私はそんなことも知らないで。

服をもそもそと着替えていた知暎が、明るく笑って首を横に振った。

知暎 : おい。変なこと言ってないで、冷たい水とウェットティッシュ一つちょうだい。顔は洗えないから消毒だけざっと済ませて絆創膏でも貼って行かなきゃ。事故に遭ったって言えば怒られるのも少しはマシでしょ。

知暎が手当てを済ませる間、所姬が始緣の傍に座り、始緣を見つめながら知暎に言葉を投げた。

所姬 : 私、後悔しないよね。

所姬の問いのような自嘲的な独り言に、知暎が救急箱の鏡を見ながら目の下の傷に消毒液を吹きかけると、おのずと顔が顰められた。顰めた顔のまま、所姬に尋ねた。

知暎 : 今はどう? 後悔してる?

所姬 : ううん。なぜ、もっと早く会えなかったんだろうって思う。なぜ、もっと早く言わなかったのかって。

肌に触れた消毒液に、知暎が顔を顰めた。

知暎 : ならいいじゃん。あんたは私の妹なんだから。ちゃんと乗り越えられるよ。私が必ず、私たちみんなで選んだ道を後悔させないようにするから。

知暎が絆創膏と消毒液を手にずんずんと歩いてきて、意識を失った始緣の顔を丁寧に横に向けて掴んだ。こめかみの傷が塞がらずにいた。傷の上にそっと消毒液を載せた後、絆創膏を貼った。

知暎 : 死に近い存在に傷つけられるほど、治りは遅くなる。ましてや私たちの間で負わせる傷は一番遅く治るだろうね。だから。

知暎がしばし意識を失っていた始緣に絆創膏を貼ってやった後、所姬を見て明るく笑った。

知暎 : 私たちの間では、傷つけ合わないでいたいな。


Scene 20.

お前の妹だけが死んでいったことが、それほど悔しいことならば、私が助けよう。我が意に、従うか。

粹廷(粹廷:スジョン)が己の頭の中に入ってくる意を拒まなかった。意志は、最も弱く悪に堕ちやすい隙を容赦なく穿ち始めた。粹廷が複雑だったすべての計算を畳んだまま、膝を折り伏せていた。

粹廷 : 私は、循環が何であるか、順理が何であるか、もはや関心もございません。復讐できるものと思っておりました。真の鍵が死ぬならば、ジョスンにいる私の妹も無駄死にではなくなるのだと。それだけを見て過ごしてまいりました。それだけを見て従ってまいりました。しかし、現実は違いました。どうか、願わくは。私が真の鍵を殺せますように。どうか願わくは、私が殺したも同然のあの時間が、それで慰められますように。

假先知者(假先知者:コジッ・センチシャ) : お前の妹が問題ではあるまい。お前が抱いた悔しさの方がよほど大きかろう。

粹廷 : 否定いたしません。どうか、私に道をお示しください。

假先知者 : 穏やかであれ。我が、最も過った者として、弱き者たちを惑わす間、お前は過つことなく穏やかに過ごすがよい。

粹廷が遅れて顔を上げ、己の前に立つ何者かを見つめた。

粹廷 : 承知いたしました。再びお示しくださるまで、変わりなく過ごします。

粹廷の顎を持ち上げてやりながら、膝を折り伏せた粹廷を慎重に起こしてやった。深い洞窟に足を踏み入れていた粹廷。深い礼を示すように折った膝の前には、いつもと大きく変わらぬように見える、熙珍の姿に似た何かが据わっていた。