胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 10.

かろうじて意識を取り戻した熙珍(熙珍:ヒジン)が、はっと驚いて誰かの膝に凭れていた身を起こした。驚いたのは熙珍だけではなかった。早くから忙しく動き回っていた以心(以心:イシム)も、相当に驚いた様子で居眠りしていた身を覚ました。熙珍がどうしていいかわからぬ様子で落ち着きを失っていた。以心が少し遅れた問いを投げた。

以心 : 体は少し、大丈夫かい。

熙珍 : だ、團長。どうして。

以心 : 何も考えずにやったことではないだろうし。

熙珍 : ……はい……。申し訳ございません。

以心 : 体は。大丈夫かい。

熙珍がきれいに治まった傷を確かめた後、ゆっくりと頷いた。

以心 : よかった。

車の中で意識を取り戻した熙珍が、何も言わず何かを思案していた。熙珍の気配を察した以心が、運転していた技師に低い声を伝えた。

以心 : 林技師。

林技師 : はい。

以心 : 近くに休憩所かコンビニがあれば、少し休もうか。急に喉が渇いた気がして。

林技師 : かしこまりました。

以心と同じくらいの歳に見える中年の男が、以心の言葉に従い速度を落とし始めた。すぐ近くの大通り沿いに据わるコンビニ前の空き地に車を止めた後、技師が気を利かせて運転席から降り、コンビニへ向かった。

以心 : 大変だったでしょう。傷を見たらずいぶん深かったけれど。

熙珍 : いいえ。私は大丈夫です。ですがどうやって。私を。

團長 : まだ、囁きが万全ではないようだね。お前の言う通り、一度では難しかったのか、お前たち三人とも意識を失って倒れていたよ。二人の子は私の別動隊(ビョルドンデ)が動いて直接連れていった。お前は私が連れてきた。それはそうと。

團長の説明を聞いてようやく合点がいったように、熙珍が軽く頷いた。

團長 : どこまで進んでいるか、聞いてもいいかい。

熙珍が手を軽く振ると、存在しなかった筆が墨をたっぷり含んだまま熙珍の手に現れた。熙珍が手の中の筆を軽く払うと、筆に付いた墨が帳のように広がり、車窓と後部座席を運転席から隔てた。心地よいほどに静かな空気が漂った。エンジンの音すら聞こえぬほどだった。熙珍が恭しく姿勢を正し、言葉を継ぎ始めた。

熙珍 : 現在。事務長・都惟碩は二つの屍を運用し、鍵を処理する計画です。その二つの屍のうち、鍵・姜知暎の鏡である李始緣は昨夜、全員の計画通り使節を宿しました。もう一つの屍、逃亡者・孫智胤は、使役する傭兵を取り込んでいるものと思われます。團の内部では意図通り分裂が生じました。本日はその分裂の波及で大民官長が独立しており、これにより、柳美延は間もなく石塊に手を差し伸べるでしょう。その他の腐った根が自然と互いに絡み合うよう、すべての状況を作り上げました。併せて教正館長・白正賢と財務館長・林永敏は私の囁きを受け、本日私を助けてくれました。間もなく、鍵の候補者を探そうとする事務長・都惟碩の指示を別途受け、西北方面へ入る計画です。彼らの分裂が究極の果てに達した時、一方を整理しやすくなるでしょう。加えて、候補者を間引かないという意向を、事務長が策士に示唆したものと思われます。復讐に目の眩んだ策士がその事実を容認するはずがないゆえ、その隙を突いて、假先知者が策士に接触したものと思われます。一部の離反者と志を取り込もうとするでしょう。あるいは、すでに接触が果たされている可能性もございます。

以心が重く頷いた。思いのほか順調に流れてはいたが、以心がまさに聞きたいことは別にあるようだった。

團長 : 熙珍。

熙珍 : はい。團長。

團長 : 肝心の、お前自身の話が抜けているね。

熙珍が辛そうに顔を上げ、以心を見つめた。

以心 : 私が一番聞きたかったのは、お前の話だった。お前は、覚悟が済んだのかい。もしそうでないなら、私は今からでもお前を止めたい。

熙珍が再び顔を伏せた。かろうじて動いた唇の間から、熙珍の頼りない声が続いた。

熙珍 : 集賢館長・宋熙珍は、まだ、團長をお送りする心構えができておりません。まだ、一つ、最も聞きたい言葉を聞いておりません。

以心が優しい手を差し伸べ、熙珍の白い手の甲を覆ってやった。

以心 : そう。うちの熙珍は、何を一番聞きたいのかい。

熙珍 : イスンでは、私が團長をお母様とお呼びすることは叶わないでしょう。面目もなく、そのような立場でもないでしょうから。ですが、イスンではない場所では真っ先に、お母様とお呼びしたいのです。私が一番先にジョスンに—

熙珍の言葉は続かなかった。以心が優しい胸で熙珍の弱い心を抱き寄せ、今もなお母の役目を全うしていた。熙珍がしばし温かな以心の胸を受け入れた。

以心 : いつだって、私はお前たちに最善を尽くしてきたよ。私を侮る子、私を消したがるすべての子にも、傷つけまいと努めながら。

熙珍 : はい。わかっています。

以心 : いつでも呼んでいいのよ。

以心の胸の中で熙珍がゆっくりと首を横に振った。温かな母の胸から離れた熙珍が、再び丁重に整えた声で團長に言葉を継いだ。

熙珍 : 私は、イスンにおいてだけは花の種で満足いたします。蝶たちが抱いて飛んでいけるように。蝶たちが花の種を運んだら、その時。その時。

毅然とした覚悟を見せた熙珍が、以心と目を合わせたまま、己の志をまっすぐに伝えたが、最後の一言はどうしても出なかった。ついに口にできなかったお母さんという呼び名に、熙珍は顔を伏せ、以心にお母さんと呼べぬ申し訳なさと、お母さんと呼びたい恋しさを同時に感じていた。以心が慈しみ深い微笑みを湛えたまま、構わないとばかりに頷き、熙珍の肩をそっと撫でた。


Scene 11.

晴れやかな心を抱いていた。一睡もできなかったにもかかわらず、知暎(知暎:ジヨン)はさほど疲れた気配もなく出かける支度を整えていた。スーツの袖口の下に据わる黒い腕輪を撫で、久しぶりに感じる朝の満ち足りた気持ちを伝えた。具体的な言葉は母に伝えられなかったが、感情や状態は感じさせることができた。返信が届くように、よくやったねという褒めのような温もりが感じられた。知暎が口の端をいっぱいに上げ、長い髪を捻り上げた。黒い髪紐でしっかりとまとめた後、かなり早い時間に合わせて身を起こした。


Scene 12.

早い朝だった。東雲の向こうに昇った陽に、團長が丁寧に着こなした礼服仕立ての韓服の袖口を撫で、早足で歩を進めた。誰も伴うことのできない團長の時間だった。規則ではあったが歓迎できぬ形式的な務めだった。深い谷の垂れるある山の奥深くへ歩いていった團長が、深くに据わる洞窟の前で歩みを止めた。物寂しい風が中から吹き出していた。夏を越えようとする季節にもかかわらず、骨まで冷えるような心地だった。大したことではないとばかりに、弱い溜息を漏らした後、淡々と歩を進めて中へ向かった。手を振って腕輪を散らすと、青い光を宿したインブルが腕輪を伝って周囲を素早く照らし出していった。ほのかに照らされた周囲の様子を見回した後、薄暗い中にかろうじて見える石の塊へ向けて歩を踏み出した。無数に連なる髑髏が壁に飾りのように列をなしていた。その数が見当もつかぬほどびっしりと据わる長い通路を歩きながら、以心が内に込み上げる怒りを抑えているように見えた。洞窟の突き当たりには小さな石が二つあった。東雲の光程度では中を照らすこともできぬほど深い洞窟だった。長い道のりを歩いてたどり着いた洞窟の奥に、小さな祭壇が置かれていた。以心は拝礼をしなかった。むしろ血の匂いのする笑みを浮かべ、人の心臓に似た姿を持つ二つの石と向き合った。

以心 : もう、残りわずかでございます。

石が答えるはずもなかった。

以心 : まともな人々の膏血を奪い、霊を保ってきた命。もう終わりにすべきでしょう。もう、これ以上そうしないと選びました。偽りの先知者の言葉など。聞く必要もないでしょう。

以心が少し近づいた。石が淡い光を放ち、以心の接近に反応した。以心が嘲笑を口に含んだまま、石を撫でるように慈しんだ。

以心 : 取り返しはつきません。囁きすら残り少ない石。その無数の時、私の先代と先代に従ったすべての者を惑わしてきた狡猾な三寸の舌も、終わるべき時が来ただけのこと。何も見えぬ舎利。その中でできることといえば偽りを囁き、半端な遺物を宿した者の思考を覆そうとしたことが全てだと知った以上、砕かれぬ理由がないでしょう。ですが、あまり怖がらずともよろしいのです。砕く者は別におりますから。

以心の虚脱した憎悪が届いた後、石から手を離し、歩を退いた。二、三歩退いた後、そこでようやく拝礼を捧げた以心の姿に、石は激昂したかのように、しきりに明るい光を放ち始めた。

以心 : ええ。嘲りでございます。何もできぬと知れた以上、無責任な汚辱の塊であったと知れた以上、もはや何者でもなくなったのですから、命を物差しに、私の先代と私の者たちを奪った代償をお払いなさい。

拝礼を終えた後、向き合いたくもない矮小さと向き合ったかのように、身を翻して背を向けた時、以心の頭の中を一筋の念が過ぎった。

これまですべての案內者がそうであったように。殺す。お前の娘を。案內者を。殺す。

歩みをしばし止めた以心が、何かを思案するように手を下ろし、拳を固く握り締めた。

以心 : 私の娘たちの指先一つでも傷つくならば。貴様のすべてを私自らが砕く。一つも残さず。ゆえに、少しでも長く留まりたいのならば、何もするな。


Scene 13.

眩い朝の陽が降り注ぐように入ってきた。始緣(始緣:シヨン)が静かに出ていったそのまま、静かに帰ってきた。身じろぎもなく深い眠りについていた所姬(所姬:ソヒ)の様子を窺った。始緣にとって大事な事実を一つだけ得て戻り、日常のように据わる所姬を見つめた。始緣がベッドの脇に運んでおいた食卓の椅子に、静かに身を下ろした。所姬が目を覚まさぬよう、所姬の手をそっと握った始緣。始緣の腹から派手な空腹の音が鳴った。所姬が寝入りの中で聞こえた奇妙な音に、目をぴくりとさせた。開いてもいない目のまま、所姬が狂ったように笑い始めた。腹が痛くなるほど笑い始めた所姬の反応に、始緣がばつの悪い申し訳なさと呆れた苛立ちを同時に浮かべた。

始緣 : な、何がおかしいのよ!

所姬 : あ……くそ。ねえ。だったらご飯食べようって起こしなさいよ。

まだすっかり眠りに沈んだ所姬の声は、始緣への揶揄いを止めなかった。

所姬 : あー、マジでウケて死にそう。力ないのに。

始緣 : じゃあ笑うのやめろっつの!!

所姬 : おかしいもんはしょうがないでしょ!! 寝てても聞こえるくらいでかくグルグル鳴らしたの誰よ!