Scene 17.
瑞娥(ソア)が冷たい床で目を覚まし始めた。深夜、意識を失う間に満ちてこなければならなかった黒い影は、もう見えなかった。無傷の姿で倒れていた身体をゆっくりと起こしたとき、前に立っている粹廷が穏やかな表情で自分を見下ろしているのが感じられた。今では見知らぬものになってしまった、かつての自分の家の匂いだった。かなり長い間留まっていなかった薄汚い家の湿気が、瑞娥の服から感じられた。もそもそと起き上がった瑞娥を見て、粹廷が冷ややかな声を伝えた。
粹廷 : 言った通り、殺してから家に帰りな。そうすれば、全部終わるから。
瑞娥 : どの家。
粹廷 : あんたがまた目を覚ましたところ。
瑞娥がゆっくりと瞬きした後、頷いた。
粹廷 : そこに行けば、あんたを壊してくれる女に会えるはずだよ。
ようやく終われるという安堵に、瑞娥はそっと目を閉じて軽い笑みを浮かべた。十分に意を伝えた粹廷が、歩を運んで外に出た。出ながら開けた扉の向こうに、長い廊下が見えた。見覚えのない場所ではなかった。長く据えられた居間の真ん中、見慣れた食卓の椅子に縛られたまま、意識を失った女の姿が現れた。一人で暮らすには相当に広い家いっぱいに、見知らぬ人間たちが陣取り、鋭い目つきで女と瑞娥を注視していた。粹廷は巨体の弘信(ホンシン)の肩をすり抜けるように通り過ぎながら外に出た。弘信が出て行く粹廷に深く腰を折って挨拶を伝えてから、中に入ってまだ部屋の床に座っている瑞娥に近づいた。短い出刃を懐から取り出し、手に持ったガラス瓶の中に入っていた紫色の液体を塗った。鼻をつく臭いのする柄を床に落とした。渡すものをすべて渡した弘信が、大きな身体をまた向け、外へ向かおうとしたが、最後まで刃物を手に取らない瑞娥の気配に、しばし立ち止まった後、瑞娥を促した。
弘信 : 何してる。さっさとやれ。
弘信の指示に、瑞娥が手を伸ばして床に落ちた刃物を握りしめた。瑞娥が力なく身体を起こした。深くうなだれた瑞娥を確認した弘信が、居間を埋め尽くした周囲の人間たちに目配せを送ってからその場を退いた。縛られている女の意識がゆっくりと戻ってきた。凄まじい頭痛とともに、あちこちに裂けた傷と折れた骨がずきずきした。目を開けたが、見えるのは灰色の布切れだけ、濁った息とともにぐったりした身体は女の意のままに動かなかった。椅子に捕らえられた女の両手首に熱い気だるさが感じられた。禁繩(クムズル)で縛られているのに違いなかった。何も見えなかった。本能的に押し寄せる恐怖に急いで手首を捻ったが、きつく縛られた禁繩に肌が擦れる痛みが感じられるだけだった。血に塗れた粗布の袋が、視界を遮ろうと顔に被せられていた。ろくに声が漏れ出せないよう、口には白い布がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。粗布の袋の中からは荒れに荒れた息が苦痛を含んでかろうじて流れ出ていた。美しかった韓服のあちこちから血が滲み出ていた。もがく女の動きが激しくなるほど、負った傷からさらに多くの血が滲み出た。女の動きに苛立った数人が近づいて、灰色の粗布の袋に包まれた女の顔を殴りつけた。椅子に捕らえられた脚を解こうとあがいていた女の足首も動きもすべてがゆっくりと止まった。絶え間なく殴りつけた拳に、血に塗れた白い襪(ポソン)の上に巻かれた足首の禁繩を断ち切る考えを捨てた。食卓の椅子の後ろに反らされたまま捕らえられた手首ももう動かせなかった。裂けた傷から流れていた血は、止まることなく流れ続け、つかの間取り戻していた女の意識を遥かに押しやっていた。ゆっくりとした足取りで居間を出た瑞娥の道を開けてやった。十数人はいると思しき人々の間を通り抜けた瑞娥が、椅子に捕らえられた女のすぐ前に立った。
瑞娥 : 最後の機会だそうです。ごめんなさい。
紫色の液体を含んだ出刃を手に持った瑞娥が、ゆっくりと手を上げ、前に座った女の腹をゆっくりと突き始めた。凄惨な苦痛が伝わった。女が粗布の袋の中で泣き叫ぶような絶叫の悲鳴を上げた。凄惨な苦痛に耐えきれず口から血を吐いた。いっぱいに含んだ白い布に、まともな言葉を伝えることのできない女だった。凄惨で凄惨な苦痛を引き受けながらもがいていた。瑞娥が女の腹に突き刺した刃物をゆっくりと抜いた。深くは入らなかった刃物だった。出刃の刃に塗られていた紫色の液体の一部が女の血に覆われていた。瑞娥が刃物を抜いたまま、もう刃物を突き刺すこともなくじっと立っていた。荒い息を吐いていた女に済まなそうな表情を見せなかった。今度は手に持った刃物で黙って、自分の腹を切っていった。女の身体が再びぎゅっと縮こまったが、縛られた手足は女の意のままには動かなかった。女の白い韓服の前合わせが血に染まっていった。女はこれ以上持ちこたえることができないまま、頭を覆った粗布の袋に血を滲ませながら徐々に死んでいっていた。前に立っていた瑞娥が、自分の腹に自ら刃物を突き立てたまま、椅子に縛られた女に向かって、聞こえもしないほどの小さな声を伝えた。
瑞娥 : ごめんなさい。
刃物が突き刺さった瑞娥の腹からは血ではなく黒い水が流れ出た。痛みは確かに感じていたが、やるせなさと恐怖が先に立つかのように、苦痛もものともしない瑞娥が、椅子に縛られていた女に向かって、力ない小さな声を伝えた。
瑞娥 : もう、本当にやめたいんです。
女は弱まる息でゆっくりと首を横に振るばかりだった。瑞娥は何もしなかった。瑞娥が自分の腹にあった刃物を引き抜くと、傷がゆっくりと塞がり見えなくなった。じっと立っている瑞娥を見て、周囲の人間たちが瑞娥を促そうとした。
用心棒_01 : 何してる!! さっさと殺せ!!?
やや前かがみの姿勢で立っていた瑞娥が、乱れた髪の間からぎょろぎょろと覗く、諦めた視線を露わにした。瑞娥をけしかけていた人間たちが、瑞娥の肩を掴んで後ろに引き出した。険悪な人間たちが女と瑞娥の周囲を取り囲んだ。手に各種の鈍器を握った人間たちが瑞娥と女を睨みつけた。力ない目をなおも見せていた瑞娥が、小馬鹿にした笑みを浮かべたまま、最も前で威勢のいい声を上げた人間を見つめた。家を埋め尽くしていた数人の中で、最も前で瑞娥と向かい合った人間が手に持っていた刃物で瑞娥の首筋を狙った。瑞娥の首を力いっぱい切り下ろした。瑞娥の首に大きな傷が残ったが、先に倒れたのは瑞娥の首を刃物で切った人間のほうだった。瑞娥の首には黒い水の跡が残っていたが、傷は痕跡すら残っていなかった。
瑞娥 : 私、怪我したら。あんたたちは死ぬよ。
瑞娥の力ない声を踏みにじろうと、大勢の人間が襲いかかった。瑞娥は無理に立ち向かわなかった。押し寄せた彼らの暴行、殺意のすべてを黙って受け入れた。椅子に縛られていた女を始末することは後回しだった。平然と立って敵意を見せていた瑞娥から先に消そうとした。人の間に埋もれた瑞娥の姿は見えもしないほどだった。瑞娥を踏みつけながらあらゆる手段を講じた全員の動きが次第に鎮まっていった。瑞娥を押し潰したまま、瑞娥を始末しようとした全員が静寂の中でもはや身体を動かすこともできなくなったとき、倒れていた全員の身体がびくりと動いた。自分の身体から噴き出した黒い水と、他人の身体から噴き出した血を全身に纏った瑞娥が、死体の山を掻き分けながら身体をかろうじて引きずり出し始めた。玄関の外からはさらに多くの人間が押し寄せようとしていた。しかし外から感じられていた人間たちも、誰かと争う音を立て始めた。瑞娥が外から入ってこようとする誰かに気づいたように、誰なのかすでに知っているかのように、いっそう切迫した手つきでまだ抜け出しきれていない身体を引きずり出そうとした。血を浴びた知暎が中に入ってきた。瑞娥は自分の背の向こうにある扉から、誰かが急いで入ってくるのを感じた。落ち着いた声を伝える知暎の気配を感じたが、瑞娥は振り返らなかった。
知暎 : やめてください。お願い。お願いします。
中に入った知暎のやるせない声に、瑞娥は答えなかった。切迫した動きで死体の山から抜け出そうとする瑞娥を助けた。外に瑞娥を引き出そうとするように両腕を支えたまま、後ろから掴んで力いっぱい引っ張った。外に抜け出した瑞娥は、自分の後ろに立っていた誰かを最後まで見ようとしなかった。むしろ、前に座ったまま死にゆく韓服姿の女を力なく見つめながら羨んだ。
瑞娥 : この人。いいですね。いつも、あなたが助けてくれて。
瑞娥が力ない声で、椅子に縛られていた女の細い息を見守った。
知暎 : 私が、私が助けるって言ったじゃないですか。助けます。今からでも遅くないです。
瑞娥 : もう遅いよ。私が、遅くすることにしたから。
瑞娥は指一本動かさなかった。急いで入ってきて説得していた知暎も、瑞娥を警戒しなかった。瑞娥の後ろで瑞娥を説得していた知暎が、急いで歩を進めて瑞娥の横を通り過ぎ、椅子に捕らえられた女の世話をした。女の顔を覆っていた血塗れの粗布の袋を、簡単な手つきで軽く裂いた。唇の間にあった白い布まで取り除いた後、意識を失った女の手首と足首に巻かれた禁繩を落ちていた刃物で切り離した。知暎が椅子に座らせた女を床にそっと下ろしてやった。女は細い息をかろうじて繋いでいた。力なく開いた唇の間からは乾いた血がこびりついていた。かろうじて息を繋いでいた女。知暎が自分のポケットから灰粉(ジェッカル)を取り出した。そっと支え抱いた女のふっくらした唇の間に灰色の粉を流し込むように食べさせてやった。手に握っていた灰色の粉を、女の唇の間に残らず流し入れるように注いでやった後、傷が鎮まり始めた女を最後まで支えながら床にしばし横たえてやった。知暎がやるせない足取りを瑞娥の前に運んだ。瑞娥が自分の前に立った知暎をちらちらと見つめた。自信のない目をいっぱいに湛えていた瑞娥の視線は、瞬く室内照明のように知暎の姿をろくに確かめることすらできずにいた。知暎は最後まで怒らなかった。知暎が身を低くしてしおらしく瑞娥の両腕を包むように掴んでやった後、瑞娥を励まそうとした。知暎の声が流れ出る前に、瑞娥がゆっくりとした声で知暎に言った。
瑞娥 : 選ばないと。あの女か、私か。
知暎が瑞娥の言葉を聞いて、遅れて瑞娥の手を確認した。
瑞娥 : あの女、もうすぐ死ぬ。
瑞娥が自分の腹を突いた刃物を持ち上げ、知暎に見せた。紫色の液体がまだ付いていた刃物だった。急いで首を回し、床に横たえてやった女を見た。血管を伝って流れる濃い紫色の何かが、ゆっくりと取り戻し始めた脈拍に乗って血管を伝い全身に広がり始めていた。灰色の粉のおかげでようやく心臓がまともに鼓動し始めると、床に横たわっていた女はかえって死にゆき始めた。再び鼓動し始めた脈拍に合わせて、毒が広がり始めた。床に横たわっていた女の肌が次第に暗く褪せていった。判断の麻痺した知暎が、再び瑞娥を急いで見つめたが、瑞娥は初めて微笑み、知暎が掴んでくれた腕を自ら引いた。
瑞娥 : あの人も、あなたも。私を助けてくれるって言った言葉、信じてる。あなたが私に言ったように。信じてる。
瑞娥がゆっくりとした足取りを運び、知暎が入ってきた扉から歩いて出て行った。瑞娥は終にありがとうという言葉を残さなかった。
Scene 18.
始緣の状態からは推し量りがたい所姬の答えに、始緣が理解できないとばかりに薄い溜息をつきながら腰をまっすぐに伸ばした。ふと浮かんだ不安に、身体を起こしていた始緣が、急に周囲を見回した。
始緣 : 帰んないの? こうしてる間にいきなりあの女が来たらどうすんの?
所姬 : そうだったらここであんたと話してない。
始緣 : 不思議だね。
所姬 : 私は死んだものと自分の道はよく見えない。接触があった、あるいは顔を知った「生きている人」の道だけが見えるの。あんたと、あんたが今日向き合う二人は見えないけど、あんたを引っ張り出したあの人の道は知ってる。さっきあんたに黒い砂を飲ませたあの人の道。
始緣 : あんた以外にもあんたみたいな子がいるかもしんないじゃん? あんたの知らないとこでいきなり来たりとかしないの?
所姬 : 一人の案內者が現れたら、他の案內者は死ぬか消えるんだって。同時代の道はただ一人しか見ることができないって聞いた。
始緣 : え? じゃあ、占いの店とかは何なの? 全部偽物?
所姬 : ちょっと違う。あれは生まれ持った人の脈絡みたいなもの。こうなるだろう、程度の。こっちのほうが似合うだろう。こういうものを持って生まれた。私はそういうのじゃなくて。
所姬の言葉を噛みしめるように黙って聞いていた始緣が、腕を組んだまま、所姬の視線を避けるように自分の視線を遠くに逸らしては所姬に向けて問いかけた。
始緣 : いつからそうだったの、あんたは。
所姬 : 小さい頃から。だから死にかけた道をぎりぎりでかわしたことも多い。
所姬の言葉を聞いた始緣が遠くにやっていた視線を収め、自分のつま先で土の地面を掻いた。何かを深く考えているように見えた始緣に、所姬が淡々とした視線で始緣を窺った。
所姬 : なに。
始緣 : それでも結局死ななかったんだね。その変な芸当のおかげで。
直截だが間違ってはいない始緣の言葉に、所姬がしばし言葉を控えた。死んだ人間の前で言葉を選ぶべきだったという自責を遅れて感じた。
所姬 : ごめん。
始緣 : ? 何が?
所姬 : 今日あんなことがあったのに。私が余計なことを。
始緣がしばし自分のつま先に向けていた視線を再び上げ、遠くに置かれたゴミ箱に向けた。所姬と向き合いはしなかったが、所姬が自分に向けて伝えてくれた申し訳なさを引き取ってやりたかった。
始緣 : まあ、シバル(씨발)死ぬようなことが今日だけだったわけないし。いつかは死んでたよ。ぶっちゃけ、あんたが殺したわけでもないのに。あんたがなんで私に謝るんだよ。あんたの芸当とは違うだろうけど、私も人を見る目はあんだよ。どんだけバカか、どんだけ間抜けか。身体売って覚えたのはそういう勘しかないから。
始緣が地面に座って凭れていたブランコの支柱から遅れて身体を起こした。
始緣 : 言い間違いしょっちゅうしそうなタイプにも見えないのに、たまたまやらかしたからって世界終わったみたいな顔しなくていいよ。
背伸びをしながら身体をあちこち解してみせた。すっきりした様子で軽い溜息をついた始緣が、ようやく目を向けて、自分を見つめていた所姬と向き合った。
始緣 : ごちそうさま。一食。金もなかったのに。退屈でもあったんだろうし。痛いのも治してくれてありがと。
所姬は始緣の様子にも特に反応を見せなかった。硬直していた身体を背伸びとともにすべて解した始緣が、晴れやかな声を続けた。このまま一人で戻るには、まだ慣れない見知らぬ感覚があった。始緣が再び自分の足を見下ろしては、晴れやかな独り言を所姬に続けた。
始緣 : もう私の顔売って歩く場所もないし。ホテルでは私が死んだと思ってるだろうし。戻ったところであの仕事、やりたいと思う? 無実なのに金盗んだって濡れ衣まで着せられて。私を生き返らせたっていうあの女は逃げるなって脅すし。死んだ女に行くとこあるのかってさ。その通りだよ。あの濡れ衣晴らすのも難しいだろうし、持ち逃げしたっていうあの金、返すまで身体売ったらシバル(씨발)老いぼれて死ぬまであそこにいなきゃだろうし。よかったね。
始緣のぶっきらぼうさに、所姬は言い返すことができなかった。言い返せなかった所姬を、始緣がちらりと見た。
始緣 : いつまた会えんの? また会えるの?
所姬 : 明日の昼に。無理しないで。自分を責めないで。
所姬の勧めと心配に、始緣が唇をへの字に曲げた後、独り言のように言葉を残して先に歩き出した。
始緣 : わかってて経験するのも地味にクソだね。待たなきゃいけないじゃん。クソだわ。
始緣の短いぼやきに続く手の挨拶を所姬に伝えた。始緣が薄汚いアパートの中に入っていく姿を見つめていた。所姬はそうして長いこと始緣の後ろ姿を見つめていた。何を思い描けばいいのか見当もつかなかった。むしろ大人びた始緣の姿だった。始緣が無事に家の中に入っていく姿まで確かめた後でようやく、所姬も始緣が入っていった方向と反対へ、自分の歩を進めていった。
瑞娥(ソア)が冷たい床で目を覚まし始めた。深夜、意識を失う間に満ちてこなければならなかった黒い影は、もう見えなかった。無傷の姿で倒れていた身体をゆっくりと起こしたとき、前に立っている粹廷が穏やかな表情で自分を見下ろしているのが感じられた。今では見知らぬものになってしまった、かつての自分の家の匂いだった。かなり長い間留まっていなかった薄汚い家の湿気が、瑞娥の服から感じられた。もそもそと起き上がった瑞娥を見て、粹廷が冷ややかな声を伝えた。
粹廷 : 言った通り、殺してから家に帰りな。そうすれば、全部終わるから。
瑞娥 : どの家。
粹廷 : あんたがまた目を覚ましたところ。
瑞娥がゆっくりと瞬きした後、頷いた。
粹廷 : そこに行けば、あんたを壊してくれる女に会えるはずだよ。
ようやく終われるという安堵に、瑞娥はそっと目を閉じて軽い笑みを浮かべた。十分に意を伝えた粹廷が、歩を運んで外に出た。出ながら開けた扉の向こうに、長い廊下が見えた。見覚えのない場所ではなかった。長く据えられた居間の真ん中、見慣れた食卓の椅子に縛られたまま、意識を失った女の姿が現れた。一人で暮らすには相当に広い家いっぱいに、見知らぬ人間たちが陣取り、鋭い目つきで女と瑞娥を注視していた。粹廷は巨体の弘信(ホンシン)の肩をすり抜けるように通り過ぎながら外に出た。弘信が出て行く粹廷に深く腰を折って挨拶を伝えてから、中に入ってまだ部屋の床に座っている瑞娥に近づいた。短い出刃を懐から取り出し、手に持ったガラス瓶の中に入っていた紫色の液体を塗った。鼻をつく臭いのする柄を床に落とした。渡すものをすべて渡した弘信が、大きな身体をまた向け、外へ向かおうとしたが、最後まで刃物を手に取らない瑞娥の気配に、しばし立ち止まった後、瑞娥を促した。
弘信 : 何してる。さっさとやれ。
弘信の指示に、瑞娥が手を伸ばして床に落ちた刃物を握りしめた。瑞娥が力なく身体を起こした。深くうなだれた瑞娥を確認した弘信が、居間を埋め尽くした周囲の人間たちに目配せを送ってからその場を退いた。縛られている女の意識がゆっくりと戻ってきた。凄まじい頭痛とともに、あちこちに裂けた傷と折れた骨がずきずきした。目を開けたが、見えるのは灰色の布切れだけ、濁った息とともにぐったりした身体は女の意のままに動かなかった。椅子に捕らえられた女の両手首に熱い気だるさが感じられた。禁繩(クムズル)で縛られているのに違いなかった。何も見えなかった。本能的に押し寄せる恐怖に急いで手首を捻ったが、きつく縛られた禁繩に肌が擦れる痛みが感じられるだけだった。血に塗れた粗布の袋が、視界を遮ろうと顔に被せられていた。ろくに声が漏れ出せないよう、口には白い布がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。粗布の袋の中からは荒れに荒れた息が苦痛を含んでかろうじて流れ出ていた。美しかった韓服のあちこちから血が滲み出ていた。もがく女の動きが激しくなるほど、負った傷からさらに多くの血が滲み出た。女の動きに苛立った数人が近づいて、灰色の粗布の袋に包まれた女の顔を殴りつけた。椅子に捕らえられた脚を解こうとあがいていた女の足首も動きもすべてがゆっくりと止まった。絶え間なく殴りつけた拳に、血に塗れた白い襪(ポソン)の上に巻かれた足首の禁繩を断ち切る考えを捨てた。食卓の椅子の後ろに反らされたまま捕らえられた手首ももう動かせなかった。裂けた傷から流れていた血は、止まることなく流れ続け、つかの間取り戻していた女の意識を遥かに押しやっていた。ゆっくりとした足取りで居間を出た瑞娥の道を開けてやった。十数人はいると思しき人々の間を通り抜けた瑞娥が、椅子に捕らえられた女のすぐ前に立った。
瑞娥 : 最後の機会だそうです。ごめんなさい。
紫色の液体を含んだ出刃を手に持った瑞娥が、ゆっくりと手を上げ、前に座った女の腹をゆっくりと突き始めた。凄惨な苦痛が伝わった。女が粗布の袋の中で泣き叫ぶような絶叫の悲鳴を上げた。凄惨な苦痛に耐えきれず口から血を吐いた。いっぱいに含んだ白い布に、まともな言葉を伝えることのできない女だった。凄惨で凄惨な苦痛を引き受けながらもがいていた。瑞娥が女の腹に突き刺した刃物をゆっくりと抜いた。深くは入らなかった刃物だった。出刃の刃に塗られていた紫色の液体の一部が女の血に覆われていた。瑞娥が刃物を抜いたまま、もう刃物を突き刺すこともなくじっと立っていた。荒い息を吐いていた女に済まなそうな表情を見せなかった。今度は手に持った刃物で黙って、自分の腹を切っていった。女の身体が再びぎゅっと縮こまったが、縛られた手足は女の意のままには動かなかった。女の白い韓服の前合わせが血に染まっていった。女はこれ以上持ちこたえることができないまま、頭を覆った粗布の袋に血を滲ませながら徐々に死んでいっていた。前に立っていた瑞娥が、自分の腹に自ら刃物を突き立てたまま、椅子に縛られた女に向かって、聞こえもしないほどの小さな声を伝えた。
瑞娥 : ごめんなさい。
刃物が突き刺さった瑞娥の腹からは血ではなく黒い水が流れ出た。痛みは確かに感じていたが、やるせなさと恐怖が先に立つかのように、苦痛もものともしない瑞娥が、椅子に縛られていた女に向かって、力ない小さな声を伝えた。
瑞娥 : もう、本当にやめたいんです。
女は弱まる息でゆっくりと首を横に振るばかりだった。瑞娥は何もしなかった。瑞娥が自分の腹にあった刃物を引き抜くと、傷がゆっくりと塞がり見えなくなった。じっと立っている瑞娥を見て、周囲の人間たちが瑞娥を促そうとした。
用心棒_01 : 何してる!! さっさと殺せ!!?
やや前かがみの姿勢で立っていた瑞娥が、乱れた髪の間からぎょろぎょろと覗く、諦めた視線を露わにした。瑞娥をけしかけていた人間たちが、瑞娥の肩を掴んで後ろに引き出した。険悪な人間たちが女と瑞娥の周囲を取り囲んだ。手に各種の鈍器を握った人間たちが瑞娥と女を睨みつけた。力ない目をなおも見せていた瑞娥が、小馬鹿にした笑みを浮かべたまま、最も前で威勢のいい声を上げた人間を見つめた。家を埋め尽くしていた数人の中で、最も前で瑞娥と向かい合った人間が手に持っていた刃物で瑞娥の首筋を狙った。瑞娥の首を力いっぱい切り下ろした。瑞娥の首に大きな傷が残ったが、先に倒れたのは瑞娥の首を刃物で切った人間のほうだった。瑞娥の首には黒い水の跡が残っていたが、傷は痕跡すら残っていなかった。
瑞娥 : 私、怪我したら。あんたたちは死ぬよ。
瑞娥の力ない声を踏みにじろうと、大勢の人間が襲いかかった。瑞娥は無理に立ち向かわなかった。押し寄せた彼らの暴行、殺意のすべてを黙って受け入れた。椅子に縛られていた女を始末することは後回しだった。平然と立って敵意を見せていた瑞娥から先に消そうとした。人の間に埋もれた瑞娥の姿は見えもしないほどだった。瑞娥を踏みつけながらあらゆる手段を講じた全員の動きが次第に鎮まっていった。瑞娥を押し潰したまま、瑞娥を始末しようとした全員が静寂の中でもはや身体を動かすこともできなくなったとき、倒れていた全員の身体がびくりと動いた。自分の身体から噴き出した黒い水と、他人の身体から噴き出した血を全身に纏った瑞娥が、死体の山を掻き分けながら身体をかろうじて引きずり出し始めた。玄関の外からはさらに多くの人間が押し寄せようとしていた。しかし外から感じられていた人間たちも、誰かと争う音を立て始めた。瑞娥が外から入ってこようとする誰かに気づいたように、誰なのかすでに知っているかのように、いっそう切迫した手つきでまだ抜け出しきれていない身体を引きずり出そうとした。血を浴びた知暎が中に入ってきた。瑞娥は自分の背の向こうにある扉から、誰かが急いで入ってくるのを感じた。落ち着いた声を伝える知暎の気配を感じたが、瑞娥は振り返らなかった。
知暎 : やめてください。お願い。お願いします。
中に入った知暎のやるせない声に、瑞娥は答えなかった。切迫した動きで死体の山から抜け出そうとする瑞娥を助けた。外に瑞娥を引き出そうとするように両腕を支えたまま、後ろから掴んで力いっぱい引っ張った。外に抜け出した瑞娥は、自分の後ろに立っていた誰かを最後まで見ようとしなかった。むしろ、前に座ったまま死にゆく韓服姿の女を力なく見つめながら羨んだ。
瑞娥 : この人。いいですね。いつも、あなたが助けてくれて。
瑞娥が力ない声で、椅子に縛られていた女の細い息を見守った。
知暎 : 私が、私が助けるって言ったじゃないですか。助けます。今からでも遅くないです。
瑞娥 : もう遅いよ。私が、遅くすることにしたから。
瑞娥は指一本動かさなかった。急いで入ってきて説得していた知暎も、瑞娥を警戒しなかった。瑞娥の後ろで瑞娥を説得していた知暎が、急いで歩を進めて瑞娥の横を通り過ぎ、椅子に捕らえられた女の世話をした。女の顔を覆っていた血塗れの粗布の袋を、簡単な手つきで軽く裂いた。唇の間にあった白い布まで取り除いた後、意識を失った女の手首と足首に巻かれた禁繩を落ちていた刃物で切り離した。知暎が椅子に座らせた女を床にそっと下ろしてやった。女は細い息をかろうじて繋いでいた。力なく開いた唇の間からは乾いた血がこびりついていた。かろうじて息を繋いでいた女。知暎が自分のポケットから灰粉(ジェッカル)を取り出した。そっと支え抱いた女のふっくらした唇の間に灰色の粉を流し込むように食べさせてやった。手に握っていた灰色の粉を、女の唇の間に残らず流し入れるように注いでやった後、傷が鎮まり始めた女を最後まで支えながら床にしばし横たえてやった。知暎がやるせない足取りを瑞娥の前に運んだ。瑞娥が自分の前に立った知暎をちらちらと見つめた。自信のない目をいっぱいに湛えていた瑞娥の視線は、瞬く室内照明のように知暎の姿をろくに確かめることすらできずにいた。知暎は最後まで怒らなかった。知暎が身を低くしてしおらしく瑞娥の両腕を包むように掴んでやった後、瑞娥を励まそうとした。知暎の声が流れ出る前に、瑞娥がゆっくりとした声で知暎に言った。
瑞娥 : 選ばないと。あの女か、私か。
知暎が瑞娥の言葉を聞いて、遅れて瑞娥の手を確認した。
瑞娥 : あの女、もうすぐ死ぬ。
瑞娥が自分の腹を突いた刃物を持ち上げ、知暎に見せた。紫色の液体がまだ付いていた刃物だった。急いで首を回し、床に横たえてやった女を見た。血管を伝って流れる濃い紫色の何かが、ゆっくりと取り戻し始めた脈拍に乗って血管を伝い全身に広がり始めていた。灰色の粉のおかげでようやく心臓がまともに鼓動し始めると、床に横たわっていた女はかえって死にゆき始めた。再び鼓動し始めた脈拍に合わせて、毒が広がり始めた。床に横たわっていた女の肌が次第に暗く褪せていった。判断の麻痺した知暎が、再び瑞娥を急いで見つめたが、瑞娥は初めて微笑み、知暎が掴んでくれた腕を自ら引いた。
瑞娥 : あの人も、あなたも。私を助けてくれるって言った言葉、信じてる。あなたが私に言ったように。信じてる。
瑞娥がゆっくりとした足取りを運び、知暎が入ってきた扉から歩いて出て行った。瑞娥は終にありがとうという言葉を残さなかった。
Scene 18.
始緣の状態からは推し量りがたい所姬の答えに、始緣が理解できないとばかりに薄い溜息をつきながら腰をまっすぐに伸ばした。ふと浮かんだ不安に、身体を起こしていた始緣が、急に周囲を見回した。
始緣 : 帰んないの? こうしてる間にいきなりあの女が来たらどうすんの?
所姬 : そうだったらここであんたと話してない。
始緣 : 不思議だね。
所姬 : 私は死んだものと自分の道はよく見えない。接触があった、あるいは顔を知った「生きている人」の道だけが見えるの。あんたと、あんたが今日向き合う二人は見えないけど、あんたを引っ張り出したあの人の道は知ってる。さっきあんたに黒い砂を飲ませたあの人の道。
始緣 : あんた以外にもあんたみたいな子がいるかもしんないじゃん? あんたの知らないとこでいきなり来たりとかしないの?
所姬 : 一人の案內者が現れたら、他の案內者は死ぬか消えるんだって。同時代の道はただ一人しか見ることができないって聞いた。
始緣 : え? じゃあ、占いの店とかは何なの? 全部偽物?
所姬 : ちょっと違う。あれは生まれ持った人の脈絡みたいなもの。こうなるだろう、程度の。こっちのほうが似合うだろう。こういうものを持って生まれた。私はそういうのじゃなくて。
所姬の言葉を噛みしめるように黙って聞いていた始緣が、腕を組んだまま、所姬の視線を避けるように自分の視線を遠くに逸らしては所姬に向けて問いかけた。
始緣 : いつからそうだったの、あんたは。
所姬 : 小さい頃から。だから死にかけた道をぎりぎりでかわしたことも多い。
所姬の言葉を聞いた始緣が遠くにやっていた視線を収め、自分のつま先で土の地面を掻いた。何かを深く考えているように見えた始緣に、所姬が淡々とした視線で始緣を窺った。
所姬 : なに。
始緣 : それでも結局死ななかったんだね。その変な芸当のおかげで。
直截だが間違ってはいない始緣の言葉に、所姬がしばし言葉を控えた。死んだ人間の前で言葉を選ぶべきだったという自責を遅れて感じた。
所姬 : ごめん。
始緣 : ? 何が?
所姬 : 今日あんなことがあったのに。私が余計なことを。
始緣がしばし自分のつま先に向けていた視線を再び上げ、遠くに置かれたゴミ箱に向けた。所姬と向き合いはしなかったが、所姬が自分に向けて伝えてくれた申し訳なさを引き取ってやりたかった。
始緣 : まあ、シバル(씨발)死ぬようなことが今日だけだったわけないし。いつかは死んでたよ。ぶっちゃけ、あんたが殺したわけでもないのに。あんたがなんで私に謝るんだよ。あんたの芸当とは違うだろうけど、私も人を見る目はあんだよ。どんだけバカか、どんだけ間抜けか。身体売って覚えたのはそういう勘しかないから。
始緣が地面に座って凭れていたブランコの支柱から遅れて身体を起こした。
始緣 : 言い間違いしょっちゅうしそうなタイプにも見えないのに、たまたまやらかしたからって世界終わったみたいな顔しなくていいよ。
背伸びをしながら身体をあちこち解してみせた。すっきりした様子で軽い溜息をついた始緣が、ようやく目を向けて、自分を見つめていた所姬と向き合った。
始緣 : ごちそうさま。一食。金もなかったのに。退屈でもあったんだろうし。痛いのも治してくれてありがと。
所姬は始緣の様子にも特に反応を見せなかった。硬直していた身体を背伸びとともにすべて解した始緣が、晴れやかな声を続けた。このまま一人で戻るには、まだ慣れない見知らぬ感覚があった。始緣が再び自分の足を見下ろしては、晴れやかな独り言を所姬に続けた。
始緣 : もう私の顔売って歩く場所もないし。ホテルでは私が死んだと思ってるだろうし。戻ったところであの仕事、やりたいと思う? 無実なのに金盗んだって濡れ衣まで着せられて。私を生き返らせたっていうあの女は逃げるなって脅すし。死んだ女に行くとこあるのかってさ。その通りだよ。あの濡れ衣晴らすのも難しいだろうし、持ち逃げしたっていうあの金、返すまで身体売ったらシバル(씨발)老いぼれて死ぬまであそこにいなきゃだろうし。よかったね。
始緣のぶっきらぼうさに、所姬は言い返すことができなかった。言い返せなかった所姬を、始緣がちらりと見た。
始緣 : いつまた会えんの? また会えるの?
所姬 : 明日の昼に。無理しないで。自分を責めないで。
所姬の勧めと心配に、始緣が唇をへの字に曲げた後、独り言のように言葉を残して先に歩き出した。
始緣 : わかってて経験するのも地味にクソだね。待たなきゃいけないじゃん。クソだわ。
始緣の短いぼやきに続く手の挨拶を所姬に伝えた。始緣が薄汚いアパートの中に入っていく姿を見つめていた。所姬はそうして長いこと始緣の後ろ姿を見つめていた。何を思い描けばいいのか見当もつかなかった。むしろ大人びた始緣の姿だった。始緣が無事に家の中に入っていく姿まで確かめた後でようやく、所姬も始緣が入っていった方向と反対へ、自分の歩を進めていった。
