胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

本作は現在、MUNPIA、Royal Road、エブリスタ、ノベマ!、Purrfiction、アルファポリスにて、著者本人が直接連載を行っている公式原稿です。


Scene 01.

家路を辿る道だった。月曜に備えようとする日曜の夜の街は、思いのほか早く閑散とした姿を垂れていた。都心の奥深くに据わる繁華街を通り過ぎ、相当に人気の引いた公園の近くへ入った知暎(知暎:ジヨン)の車が、ゆるやかに速度を落とし、やがてその場に屹立した。

以心(以心:イシム) : なぜ止めたの。

まだ家までの道のりは近くなかったゆえ、早すぎる場所で止めた車を訝しんでいた以心が、運転席に座る知暎に問うた。知暎はしばし何かを考えるように、以心の問いに答えずにいた。

知暎 : お母さん。手、見せて。

知暎の言葉に、以心がしばし躊躇っていた。知暎はそんな以心の反応を予期していたかのように、あえてそれ以上問い詰めず、軽い溜息をこぼした。

知暎 : お母さん。

知暎の呼びかけに、以心はしばし答えなかった。

知暎 : 姜知暎・趙所姬のお母様。

以心がようやく知暎をちらりと見やった。

知暎 : お母さんがそうしたって、所姬が気づかないわけないでしょ。私だって同じだし。

知暎の叱責に、以心が低い声で知暎をなだめようとした。

以心 : ただの、通りすがりのことだから。わざわざ言わなくても。

知暎 : それじゃ、所姬がどれだけ辛いか。やっとお母さんって呼べたのに。こうするなら私がそのまま上がればよかったじゃない。なんでお母さんに行かせたと思ってるの。後で私をどれだけ酷い女にするつもりなの。

以心 : そんなことあるわけないでしょ。

知暎 : 手、出して。早く。

以心が軽く溜息を漏らし、己の手を知暎へそっと差し出した。どす黒く焼け焦げた黒い塊が、爪先から這い上がるように以心の手を黒く染め上げていた。見ている間にもその黒い塊は絶え間なく昇り続け、以心の手を呑み込まんばかりに膨れ上がっていった。知暎が母の手を見つめ、軽い溜息とともに、己の手首に巻かれた黒い腕輪を振るった。以心がそうしたように、黒い腕輪が無数の筋に割れ、たなびく黒い鉄糸を垂らした。

知暎 : ジェッカルは?

以心 : 所姬に全部使ったわ。あの子は心臓まで危なかったから。

知暎 : 私たちを守ろうとしてるのはわかるけど、お母さんもお母さん自身を先に労って。そのために私がお母さんの本物の遺物(イブツ)まで持ち歩いてるんだから。

以心 : この子ったら。私のだって本物よ。偽物なら全部気づくでしょ。

知暎 : ペクサの筋すらなければ複写もできないって言ったくせに。とにかく、目を閉じて。よそ見してて。

ぶっきらぼうな温かさに、以心が軽く笑みを含み、目を閉じて顔を別の方へ向けた。知暎が散開させた黒い鉄糸を散らし、以心の黒ずんだ指先へ軽く刺し入れた。腕輪が巻かれていた左手の親指を弾き、鉄糸の一筋で己の掌にも小さな傷をつけた知暎。しばしの後、以心の指先から黒い水脈が溢れ出るように流れ、知暎の傷口へ吸い込まれるように入っていった。以心が顔を顰めたが、知暎の手当てを拒みはしなかった。知暎の傷がさらに長く裂け開き、以心の手に宿っていたすべての黒い水脈を引きずり込んだ。鉄糸が猛然と動き、知暎の掌に入りきらなかったすべての黒い水脈を粉々に砕いた。しばしの後、以心の手からコムンムルではなく血が露わになり始めた時、黒い鉄糸をすべて鎮めた知暎が、己の手をしばし見下ろした。

知暎 : 正直、私はジェッカルを使いたくない。

以心 : そうでしょうね。

知暎 : 私が、あのジェッカルになっていたかもしれないから。それを止めてくれたのが、連曦とお母さんだった。所姬だった。私が生き残ることで背負うべき業をすべて引き受けたのは始緣だった。だから、最後まで使いたくないけど、使う日は来るんだろうね。

知暎の掌に長い傷が残っていた。黒い水脈をすべて含んだ知暎の手は、もとの知暎の手と変わらぬ肌色を呈していた。以心が赤古里(チョゴリ)の懐から手巾を取り出し、血の流れる知暎の手を覆ってやった。知暎が自ら負わせた傷ゆえに、掌に長く残った傷は癒えなかった。

以心 : こうなるから見せたくなかったのよ。

知暎 : 見せなかったら、本廳(ホンチョウ)まで行って倒れ伏すつもりだったの? 召し上がれ、とでも?

知暎の手に巻かれた以心の手巾を整えながら、以心へ向けた本意ならぬ詰りを伝えた知暎が、再びエンジンをかけた。

知暎 : 行こう。帰って少し寝てって。夜明けに林技師(イム・ギシ)のおじさんが来る前まで、まだ少し時間あるから。着替えもして。

以心 : ええ。ありがとう、長女。

知暎 : 隠さないで。隠されると私が辛いの。

以心 : それなのに。どうやって気づいたのよ。

知暎 : 私、傳令(デンレイ)を抱いて生きてる人間だよ。誰よりも大きな死を、誰よりも深く抱いた人間なの。


Scene 02_01.

まばらに連絡先が記された手帳の一頁がくしゃくしゃになっていた。智胤(智胤:ジユン)がすでに一度血を見てきたらしく、血に汚れた手でくしゃくしゃの連絡先を雑にポケットへ押し込んだ。己の車に乗り込んだ智胤が、計器盤の前に置いていた携帯電話を手に取り、電話をかけた。深い夜だったが意に介さなかった。深い眠りに落ちたような、深く沈んだ声が聞こえてきた。

智胤 : 多いほどいいんでしょ?

出し抜けに飛んできた智胤の問いに、浅い眠りに落ちていた粹廷(粹廷:スジョン)が溜息をつきながら答えた。

粹廷 : 多すぎても大変なのよ。

智胤 : そっちの知ったことじゃないし。

粹廷 : どこなの。

智胤 : もう二箇所シメた。残り一箇所寄って片付ける。

粹廷 : 何人。

智胤 : ざっと50人はいそうだけど。

粹廷が軽い嘆きを交えて溜息をこぼした。

智胤 : あの野郎、相変わらず人をよく弄ぶね。

粹廷 : 誰? 事務長?

智胤 : うん。

怒りを含んだ智胤の短い返答に、粹廷の鼻で笑う声が聞こえてきた。

粹廷 : それで、一泡吹かせたくなったと?

智胤 : できるなら。

意気込んだ智胤の声に、粹廷が面倒だとばかりにそれ以上言葉を継がぬまま、寝入りばなに出た電話を切った。何かを思いついた智胤が、別の連絡先と住所を確認した後、荒々しく車を駆ってその場を離れた。


Scene 02_02.

電話を切った粹廷が、本廳の仮宿所で再び身を横たえた。眠っていた声ではなかった。怒りを堪えきれず、憤りに目を赤くしたまま、長い間口を開かなかったゆえに沈んでいた声だった。粹廷が拳を固く握り締めたまま、横たわったまま憤りを耐えきれずにいた。

そうであったか。

声のひと筋が、粹廷の頭の中へ伝わった。

悔しかろうな。

粹廷が怒りを満々と湛えた面持ちで身を起こした。何も見えぬ闇の中、窓戶紙(チャンホジ)の向こうから差し込んでいたインブルの痕跡すらも遮られるほど、より濃い何かが戸口に立ち塞がっていた。粹廷が鏡を造り出し、戸口に立つ何かの正体を暴こうとした。鏡に結ばれた何かを見て、粹廷がさらに深い憎悪を抱いたまま、己が造り出した鏡を睨みつけた。

粹廷 : ここに何の用。嘲りに来たの?

假先知者(假先知者:コジッ・センチシャ) : 似通った姿であろうとも、私はあの子ではない。

見覚えのある姿を纏った気配を見つめ、粹廷がしばし疑念を抱き始めた。容貌がよく似ていたゆえにしばし混乱したが、明らかに別の存在だった。

假先知者 : 幼き日の、お前の妹がそのように死んだが、私と共にあることが叶わず、お前に見せてやれぬことが惜しい。

粹廷 : 何なの。あなたは。

寝台から慎重に身を起こした粹廷が、素服(ソボク)の赤古里を整えながら、鏡に映った像と向き合った。憎悪をいったん収めた粹廷が、状況を素早く把握しようと努めた。

假先知者 : 私がお前の妹を抱いていたならば、お前にもう少し早く手を差し伸べられたであろうに。今からでも遅くはない。幸いなことだ。

粹廷 : 何者かと聞いたでしょう!!

假先知者 : これまで、遮られし汝らの道を照らし続けてきた存在だ。

粹廷がさも驚いた色を覗かせた。

粹廷 : あなたがなぜ。

假先知者 : すべて見守ってきた。奴らの暴虐が、我が力を蝕み、外に出ることも容易ではなかったのだ。時がない。お前が来るならば、閂を開けておこう。来て、我を見つけよ。我、お前と共にあろう。お前の悔しさ、お前の怒り、すべて我が鎮めてやろう。

粹廷が何か言おうとした瞬間、鏡に結ばれた像が消え去った。粹廷の部屋を照らしていたインブルも、遮っていた形が消えたように、再び部屋の中へ差し込み始めていた。