胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 11.

主教(シュキョウ)が何かを感じ取ったように、目を静かに閉じると、枯れたはずだと自ら思い込んでいた涙が落ちた。所姬(ソヒ)が主教の尋常ではない気配を察し、目を移して晶善(ジョンソン)を見つめた。晶善の息が、上がってこなかった。

主教 : 道を失うことは。よくあることではある。だからこそ、だからこそ、させたくはなかったものを。

主教の平静を保てぬ声が途切れると同時に、始緣(シヨン)の体の上へ黒い水路が降り注いだ。どこにも存在しなかった검은 물(黑水:コムンムル)であったが、始緣の横たわる体の上へ降り注いだ黒い水路。始緣が大きく体を起こした。所姬が最後まで始緣の手を離さぬまま、始緣の発作を鎮めようとした。黒い水を浴びた主教と所姬。始緣が黒い水を纏ったまま、その眼に삼도천(三途川:サムドチョン)を満たし、獣のように体を投げ出して、所姬が握ったままの手をそのまま引き、所姬を床へ叩きつけた。既に冷たく冷え切った晶善の体の上に覆いかぶさる始緣。所姬は床に倒されてなお始緣の手を離さず、最後まで宥めようと始緣を力の限り抱きしめた。構わぬとばかりに始緣が、晶善の死んだ体を押し潰しながら、晶善のうなじに深く噛みついた。所姬が急いで始緣を止めにかかった。ぐちゃりぐちゃりと晶善の肉を己の歯でずたずたに引き裂き貪り食う始緣の、獣のような音。所姬が必死に始緣を引き剥がそうとしたが、晶善のうなじから噴き出す黒い水路を、所姬もようやく確認した。始緣が晶善の首に噛みついたまま、晶善を遠くへ投げ飛ばした。壁に叩きつけられ床へ転がった晶善が、仰天して息を吐いた。晶善の肉片を口に含んでいた始緣が、咀嚼するように晶善の肉片を噛み砕き、喉へ呑み下した。最後まで始緣の手を握り続けた所姬。始緣が体を起こし、黒い瞳で所姬をじっと見つめた。始緣は、所姬が握った手を最後まで離さずにいた。

須菩提。

始緣の声を借りたある存在が、所姬を見て呟いた。遅れて意識を取り戻した晶善が、黒い水を吐くように咳を何度も吐き出し、急いで体を起こして始緣を確かめた。主教が足早に歩み寄り、まず晶善を介抱した。

主教 : 戻ったか。よかった。本当によかった。

晶善 : 確かに。私は。道を失っ—

黒い瞳の始緣が所姬をしばらく見つめた後、ゆっくりと目を閉じた。所姬の懐へ崩れ落ちた始緣。所姬が始緣を抱きとめるように引き寄せた後、しばらく言葉を継がず、始緣を慰めるように目を閉じた。始緣が再びゆっくりと目を開けた時には、本来の始緣の瞳が現れていた。意識を取り戻した始緣に向かって、主教と晶善が急いで体を伏せた。

主教 : 謹んで、使節をお迎え申し上げます。

所姬が始緣をゆっくりと確かめた。始緣が困難な旅路を鎮めるように、息を吐いた。

晶善 : ありがとうございます。道を失った私をここまで再び呼び戻してくださったこと。すべて使節のおかげでございま—

始緣 : あー、私はそういうのわかんないし。クソ疲れたんだけど。

晶善 : 私はこれより、使節の御恩を受けた者として、使節がお呼びになるいかなる場所にも、この身を置く所存です。感謝いたします。

始緣 : アニ、わかんないってば。私は。ただクソ疲れたって。ちょっと寝ちゃダメなの。……です。

主教 : どうか、器の内にて安らぎを見出されますよう。

主教が先に体を起こした。晶善と共に席を離れようとした時、所姬がようやく始緣の手を放し、主教を見送った。

所姬 : ありがとうございます。主教。

主教 : 私こそ、むしろ感謝しておるよ。使節の顕現とは。この生涯で、イスンにて傳令と使節をお目にかかる日が来ようとは。すべて。

主教が所姬の手を包むように握った。

主教 : お前のおかげだ。案內者。

所姬 : いいえ。私は、ただ。

主教 : 晶善が持ってきたもの。八方位に置いて眠るがよい。お前は生きた体ゆえ、サムドチョンの水を浴びた以上、危うくなり得るゆえ。掃除も持ってきた道具で行わねばなるま—

始緣 : あー!もう!眠いって!!です!!帰れ!!帰って!!です!!

始緣の駄々が全員の言葉を遮った。主教は始緣の行儀の悪さなど取るに足らぬとばかりに、改めて丁重に腰を折った後、その場を離れた。所姬が始緣の隣に体を下ろした。始緣をじっと見つめた。黒い水が一面に広がった居間。サムドチョンの水を浴びた所姬が始緣を介抱した。始緣が黙って所姬の手を覆った。濡れた始緣の手がひときわ冷たかった。始緣は信じがたい体験をまともに言葉にすることはできなかったが、ひとつだけ確かなことを伝えたかった。

始緣 : 聞こえた。

所姬 : よかった。

所姬が、自分の手を覆ってくれた始緣の冷たい手を、温かい所姬自身の手で覆い返した。

始緣 : ありがとう。

所姬 : 疲れてるだろうから、早くシャワー浴びて。あんた、夜が明けたら明日の夕方までは下で寝なきゃいけないから。私は下に降りてもう少し挨拶してくるね。

始緣が気怠げな顔で再び床へ大の字に寝転がった。

始緣 : あー、クソ嫌なんだけど。

所姬 : 行かなきゃ。近いうちに、また辛くなるから。早く。

始緣 : 今まで遊んでたとでも。私が。

所姬 : あーもう!わかった。うん。お疲れ様。だから早く。洗っ—

所姬が言葉を最後まで結べなかった。サムドチョンの水を浴びた所姬が意識を失った。始緣が急いで体を起こし、崩れ落ちる所姬を抱きとめた。


Scene 12.

涼やかな夏の夜、貞仁(ジョンイン)と共に外で軽い話を交わしていた熙珍(ヒジン)が、洗った髪をタオルでがしがしと擦るように乾かしながら自分の方へ歩いてくる伊仙(イソン)を呆れた目で見やった。伊仙が近づくと、熙珍の隣に座っておしゃべりをしていた貞仁が身なりを正し、体を起こした。軽く腰を折って挨拶を送ると、伊仙がいつもの気安い様子で貞仁に応えた。

貞仁 : お帰りなさい。

伊仙 : お、一緒にいたんだ。

熙珍 : 햇무리 언덕(日暈丘:ヘンムリオンドク)で浴びてきたの?

伊仙 : うん。昼間、暑くて死にそうだったから。汗かかないとさ。

髪の水気をすべて払い落とした伊仙が、濡れたタオルを雑に首にかけた。伊仙と一緒に出かけるという熙珍の話が今さら思い出された貞仁が、頷いた。

貞仁 : あ、そうだ。一緒に行ってこられるって仰ってましたよね?

伊仙 : うん。熙珍に頼まれたことがあってさ。ちょっと汗かいてきた。

熙珍 : それはそうと、ちょっと悪かったね。貞仁が私を待ってる間にご飯食べ損ねたって聞いて。

伊仙 : ん? じゃあ精武館(セイブカン)一緒に行く?

貞仁が唇を尖らせた。

貞仁 : 私、殴られるようなことしてないんですけど。

伊仙 : アニ、精武館が何、殴る場所でもないだろ。一体なんでみんな。

熙珍 : あそこ行くとあんたと組手して毎回ボコられるからでしょ。

伊仙 : あそこ調理場あるだろ。そこ使えよ。ラーメンも買い置きしてあるし。

貞仁 : あー、お腹空いてるけどこの時間にラーメン食べたら明日むくみそうだし。悩みますね。かまどの火はいつまた焚いて……。

伊仙 : おい。腹いっぱいなんだな、お前。食うな。

熙珍 : なんで集賢館(シュウケンカン)の書記官にお前がジラルなの。

伊仙 : せっかく考えて調理場使えって言ってやったのに。お前もお前の上司の宋熙珍もまったく同じだな。もうほんと。

貞仁 : ありがとうございます!

伊仙 : あーもう!!ムカつく。勉強だけめちゃくちゃできる優等生どもが。

貞仁と熙珍が伊仙の反応を見ても気にしていない様子で明るく笑っていた。熙珍がポケットの中の時計を確かめた後、貞仁に勧めた。

熙珍 : 今日は悪かったね。明日は代わりにお昼一緒に食べよう。私の執務室で。早く帰って休んで。

貞仁 : はい。遅くなりましたし、お二人もお休みください。

貞仁が深く腰を折って、その場を離れた。伊仙が首にタオルをかけたまま、だぶついた半袖Tシャツを暑そうにばたつかせた。

熙珍 : 行こう。私の部屋に。

伊仙 : おい。あそこマジで何もすることねえだろ。俺の部屋行こうぜ。

熙珍 : またゲームするでしょ。

伊仙 : だから一緒にやろうって言ってんだろ??