胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 10.

始緣がゆっくりと目を開けた。水の向こうの遥かなどこかへ落ちていく心地がしばし感じられたあと、自分が目を開けた場所は、横たわった体が半ば水に沈んだある深い闇の中だった。始緣が体を立て直すようにゆっくりと起き上がった。だいぶ馴染みのある空間だという感触が始緣の緊張を和らげた。以前一度来たきりだったが、自分の内に宿した삼도천(三途川:サムドチョン)にすぐ馴染んだらしく、始緣は躊躇のない足取りをばしゃばしゃと踏み出し始めた。膝のあたりまで満ちた黒い水が容易に歩を運ばせなかったが、次第に低くなる水位を探して歩みを続けた。不意に、始緣の体を掠めるように通り過ぎながら、小さな子供が駆けていった。怪しむ気持ちはなかった。始緣はその姿を見失うまいと素早く子供を追いかけた。まだ目に焼きついたあの姿だった。ただの一度も忘れたことはなく、忘れたくもなかったあの幼い姿を、始緣がむやみに追った。ばしゃばしゃと走っていった始緣が、立ち止まった子供の後ろ姿を目の前にして、ゆっくりと歩を進めた。

始緣 : シ……

名前を呼ぼうとしたとき、三途川の水が氾濫し、子供を覆い尽くしてしまった。始緣が咄嗟に体を投げ出し、小さな子供を守ろうとした。子供を無事に抱きかかえた始緣。しかし、山桜桃の飾りのついた髪紐だけを手に残した始緣の腕の中には何もなかった。始緣が狂いそうな苦痛と悲しみに茫然自失の目を晒したまま、水をばしゃばしゃとかき分けて子供を探し、あたりを見回した。何もなかった。始緣が狂った女のようにあちこちを彷徨っていた。

始緣 : 答えろ!! どこにいるんだ!! 瑞娥!!

?? : あたしのこと、探してるの?

始緣が声の聞こえた方へ急いで歩を向けようとしたとき、始緣の手首を晶善が慌てて掴み取った。

晶善 : だめです!! 追わないで!!

始緣 : 放せ!!

始緣が晶善を振りほどこうとしたが、晶善は始緣を離さなかった。

?? : どこにいたの。ずっと待ってたのに。

始緣 : ごめん!! 瑞娥、ちょっと待ってて。いや、お前がこっちに来い!! あたしここにいるから!!

晶善 : もう呼ばないで!! お願いだから!!

始緣が理性を失ったまま、晶善を振りほどくことを諦めた。感情すら感じられないほど干からびた目が、晶善に鋭く突き刺さった。

始緣 : 放せ。

晶善 : あれは偽物です。あなたを奪い去ろうとする偽物。あなたが望むものを聞かせて、あなたの存在を持っていこうとしてるんですよ!!

始緣 : あたしの妹だ!! あたしが探さなきゃいけないんだよ!! このシバル女!!

始緣が晶善の足を払って倒したあと、慌てて駆け出した。晶善がこのまま始緣を逃したらすべてが終わるという思いで素早く立ち上がり、始緣を再び追った。始緣の体をまるごとひっくり返してから、もう走れないよう上から押さえつけた。三途川が揺れ動き、深い波紋を立てた。始緣がいきなり晶善の喉を激しく鷲掴みにした。晶善がまともに息もできないほど激しく締め上げる始緣。始緣を押さえつけていた両手で急いで自分の喉を庇おうとしたが、正気を失った始緣の力は想像以上に強かった。晶善が苦しげにしゃがれた咳を辛うじてこぼしていた。晶善の喉を両手で掴み、抵抗すらできぬほどに力いっぱい潰そうとした。そのとき、始緣の手を握ってくれた温もりが感じられた。晶善の手ではなかった。始緣が握力を抜きながら、晶善をゆっくりと放してやった。

あとで、あたしにも教えて。きっと。

晶善の喉を完全に放し、両腕を下ろした始緣。晶善が激しく咳き込みながら、始緣を押さえつけていた晶善が、自分の体を横へ力なく倒した。始緣が横たわったまま、そっと目を閉じた。

始緣 : ごめん。

誰に向けた謝罪かは分からぬことだったが、体を立て直した晶善はただこの場にいるのは自分と始緣だけであるがゆえに、ひとまず答えを返しておくほかなかった。

晶善 : 大丈夫だから、あの、ちゃんとついてきてください。

始緣が辛うじて体を起こしたのち、晶善の手を取って晶善を立ち上がらせてやった。晶善が始緣の前を黙々と歩いた。深まる三途川に沿って聞こえてきたいくつもの声を退けながら歩を進めたが、あまりにも深まる三途川に晶善も始緣もいったん足を止めた。浅い水位を探して歩いていた始緣と違い、晶善はいっそう深い三途川の水底へ始緣とともに歩いていた。いつしか三途川は小柄な晶善の鼻の根元あたりまで満ちていた。長身の始緣がかろうじて口だけ出せるほどの深さだった。浸かりきった晶善の手をそっと持ち上げてやり、晶善が言葉を発せられるようにした。

始緣 : おい、ここで合ってんの?

晶善 : これから、完全に入ります。泳がなくていいから、ただ歩いて。いいですか? 歩かなきゃだめです。底を越えなきゃいけないから。

始緣が答えの代わりに大きく息を吸い込んだ。晶善が始緣の意を受けたのち、体を翻して三途川の深みへ歩を進めた。漆黒の黒い水だった。しかし始緣と晶善の足取りははっきりと見てとれた。周囲を過ぎゆく無数の影が感じられた。始緣の頬を撫でるように通り過ぎる何かもあった。始緣を呼ぶ声も聞こえてきた。だが、晶善に従った。追わなかった。水底を歩いていた二人の体が、深い底へ墜落するように吸い込まれた。晶善と始緣の体が深い水溜まりへ落ちた瞬間、落ちた体が踏みしめたのは水ではなく地面だった。水から落ちてくる始緣が、黒い砂浜にめり込むように落下した。

始緣 : あお。シバル。めちゃくちゃ痛え。

黒い砂浜の上に、始緣と晶善が落ちてきた三途川がぷかぷかと浮かんでいた。空があるべき場所は一面、黒い水路で覆い尽くされていた。晶善が始緣を起こした。適当に砂を払い落としたのち、裸足を運んでいった。広かった黒い砂浜が急激に狭まったある入り口で晶善が足を止めた。一人がかろうじて入れるほどの幅しかない砂浜。晶善が目をいったん閉じてから開け、道を探すかのように見えた。晶善が始緣を見て、ついてこいとばかりに顎で合図を送った。晶善の後を追って始緣が歩を進めた。次第に狭まる黒い砂浜をぎりぎりで歩いていった二人。広かった砂浜は足一つ分ほどの幅しかない狭い断崖となっていた。始緣と晶善がぎりぎりで歩を進めた。砂に覆われた一本道であったから、少しでも踏み外せば滑り落ちるほかなかった。ぐらついて倒れそうになった晶善の手を咄嗟に掴んでやった。晶善が驚いた胸を撫で下ろしながら残りの狭い道を歩いたとき、先を歩いていた晶善の額が透明な壁にぶつかった。バランスを崩し、地面へ落ちそうになった晶善。始緣が咄嗟に狭い砂浜に腰を下ろし、晶善を掴み取った。

始緣 : 何だよ!

晶善 : これ以上進めません! 塞がってます!!

始緣 : じゃあ引き返さなきゃいけないの?

晶善 : こんなはずないのに。もうすぐなのに。ここさえ越えれば——

晶善が怪訝な気配を浮かべたとき、晶善を阻んでいた帳が砕け、晶善と始緣を下へ落とした。しばらく落ちた晶善と始緣が、いつの間にか止まったかのように、静寂の闇の中でふわふわと浮いていた。

なんだよ。これ。めっちゃ変だな。

言葉は発したが、何の音も出なかった。口の形だけが動く始緣。晶善が周囲を再び見回したとき、足元に小さな白い点が見えた。正しくたどり着いたのだった。晶善が始緣を掴み、下へ力いっぱい投げ飛ばしてやった。晶善が後に続いて泳ぐように体を動かしたとき、四方から降り注ぐ手が晶善を掴み取った。慌てて晶善は逃れようとしたが、助けを求める声すら出せなかった。始緣が上を確かめたときには、すでに遅すぎた。立ち止まって晶善を助けようとしたが、下へ墜ちていく始緣の体は始緣の意志の通りには動かなかった。荒い風の音とともに落ちる感覚を再び覚えた始緣。耳鳴りに近い微かな音が、墜落を急激に止められた始緣の耳を刺激した。始緣がなんとしても再び上がろうとした。小さな白い点を通り過ぎた始緣の周囲には、再び濃い闇ばかりだった。そして、声が聞こえてきた。小さな願いも目の前に差し出されていた。

?? : あたしを、なんで探すの。

始緣 : 瑞娥なの?

?? : それが、誰だっけ。

始緣 : あたしの妹、李瑞娥。あたしの妹。お前、瑞娥だろ?

?? : 数えきれない死。数えきれない物語。すべてを覚える理由も、覚えることもできない。

始緣 : でも声は瑞娥じゃん!! お前じゃなかったら誰なんだよ!!

?? : お前が死の中で会いたいもの。死を経たお前が一番恋しいもの。お前は。死んだのに現世にいるのか。お前は。なら。

始緣 : 何言ってんだよ。オンニを見てよ。振り向いて。瑞娥。早く。

?? : あたしを抱きに来た死なんだろうね。

子供がゆっくりと体を向けた。山桜桃の形の髪紐をぎゅっと結んだ子供の姿は、始緣があれほど焦がれたあの姿そのままだった。闇の中でふわふわと浮いていた始緣が急いで体を寄せ、小さな子供を胸の奥深くに抱きしめた。

始緣 : ごめん。瑞娥。オンニが、本当にごめん。

水泡のように始緣の腕の中から消え去った子供の姿。すべての水路が一斉に注ぎ込み、始緣に襲いかかった。始緣が慌てて周囲を見渡し、瑞娥を探した。手に握られた山桜桃の形の髪紐を手首に急いで巻きつけた。始緣の頭に晶善が浮かんだ。崩れ落ちるすべての黒い水路の中で、始緣が必死に叫んだ。

始緣 : まだ!! あたし!! あいつ連れてかなきゃ!! おい!! どこだよ!! このシバル!!! あお!! シバル水!! ちょっと!!

黒い水が押し寄せると始緣が遅ればせながらばしゃばしゃと泳ごうとした。しかし、すでに始緣の意識は冥土を離れたあとだった。