胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 16.

薄汚いアパート団地の遊び場。たらふく飯を食った始緣が遊び場の土の地面に腰を下ろした。管理すらされていない遊び場には壊れた遊具だけが醜く並んでいた。始緣はそもそも遊具に興味がなかった。所姬はどこから話を切り出すべきか悩んでいた。さほど遠くないところに陣取り、腕を組んで立っていた所姬は、ブランコを支えていた鉄柱に身体を凭れるように立てていた。今日だけでも問題だと思っていた。深夜の静寂がずいぶん長く感じられようとしたとき、始緣がわからないとばかりに頭を掻きながら、さらに長引こうとしていた静寂を先に破った。

始緣 : あんたが、さっきのあの女と別人だってのはわかった。あの女は、自分のツラもろくに見せなかったから。汚い女ってのは決まって自分の面を晒さないんだよ。バレたらヤバいことが多い女ほど、そういうジラル(지랄)な生き方するから。うん。それだけは違うのは確かだろうね。でも。

始緣のぼやきに所姬が気の抜けた微笑みを返した。

始緣 : なんで私みたいな女に人殺しさせるわけ? あんたの言う通り、私みたいに死んだ女も連れ戻せるんなら、あの女が自分で殺せばいいじゃん? めちゃくちゃすごい女なんでしょ。なんで私みたいに身体売ってた女にやらせんの? 私にできることなんかあるわけ。私、人刺したことも な...

始緣が言葉を止めた。何かを思い出した始緣が大きな溜息をつき、言いかけた言葉を止めては、薄汚いブランコの支柱に凭れて腕を組んだ。薄汚いブランコの中で、かろうじて無事なブランコに身を落ち着けていた所姬は、始緣のぼやきにも何も言わなかった。急に言葉を止めた始緣も、しばし言葉を止めていた。夏の夜の静寂はときおり聞こえる蝉の声に破られそうではあったが、二人の静寂だけは破ることができずにいた。始緣がもどかしそうに、自分の状態を先に振り返った。

始緣 : 頭ん中がクソだな。何かがやたら浮かんでくるんだけど、何なのかわかんない。

所姬 : 他人の記憶や意志が一度に頭に入ったら副作用が出るに決まってる。私があげた白い砂は、あんたが先に飲んだ黒い砂が、あんたの頭の中を掻き回さないよう整理を手伝うだけ。すでに植えつけられた情報を消し去りはしないよ。あんたに必要なものだろうから。

始緣 : 砂? 薬の名前?

所姬 : 薬じゃなくて。一種の呪術(ジュジュツ)みたいなもんなんだけど。うーん。なんて説明すればいいかな。

始緣 : あ。あんたが言ってた何、道とか何とかいうそういう力なのね。

所姬 : 全然違うけど、まあ。今はそう理解しといて。変わってるのは変わってるから。

始緣 : なんか、頭の中で変な言葉がふわふわ漂ってんだけど。あんたがくれたせいでもっとおかしくなったんじゃないよね?

所姬 : 違うと思う。言ったように私があげたのは鎮める効果で、注入するものじゃなかったはずだから。

始緣 : あんたにとって「違う」って感じの言い方するね。?

所姬 : 頼んでもらってきたの。私はまだ半人前だから、まだそんな芸当もできないし。

始緣 : え、道? 見て私のとこ来たんでしょ、それも芸当じゃないの?

所姬 : 「予言」をしたり、「予知」をしたりするのは、呪術とは言えない。あんたの頭が痛いこと、痛い頭を鎮めたこと、それは呪術だよ。こういう。

所姬が言葉をしばし止めてから手首を軽く振った。手から水気を払うように手を振ると、細い赤い糸が、夏の夜に吹き込む風に靡いた。始緣がしばし所姬の赤い糸玉を見つめた。

所姬 : まだ私は、人の記憶や妄想を制御できない。半端な遺物(イブツ)を持ってるから。殴って叩いて斬ることはできても。

始緣がしばし所姬の言葉を聞いてから何かを思い出したように所姬に尋ねた。

始緣 : じゃあ、あの時なんで私に助けてって言ったの。この前の冬に。こんなこともできるのに。あんたも、何。私みたいにいきなり死んだの?

所姬 : それは違う。小さい頃にわかったことだから。でも、人に使いたくない。使っちゃいけないし。決まりみたいなもの。

始緣 : 堅いね。まあ、だからこそ金貸しやってるクソ野郎どもに先にやられたんだろうけど。

所姬がブランコに座っていた身体を起こした。

始緣 : で、何。あんたも私に頼みたいってのが、あんたの代わりに人に危害加えろってこと? あの女みたいに?

所姬が首を横に振った。手をもう一度軽く払い、解き放っていた糸玉を消した。

所姬 : ううん。むしろ逆。私は、あんたに人を殺してほしくない。助けるから。

所姬の勧めは意外だった。そして確信に満ちた声だった。始緣がそんな所姬の腹を探ろうと大したことでもないように問いを投げるように寄越した。

始緣 : もし悪い奴らを殺すんだったら? そういうのはいいことじゃないの? それを止めるあんたがおかしいんじゃない?

所姬 : そういう人たちを殺せとは言わないから。たとえ、そういう人間だとしても、人が人を殺してはいけないことだし。

始緣 : なんで。もっと悪いことする前に消すのが。

所姬 : じゃあ、あんたは?

始緣の言葉を遮るように届いた所姬のぶっきらぼうな問いに、茶化していた始緣が一瞬言葉に詰まった。始緣が言葉を継がないと、所姬の問いが刹那の静寂を繋いだ。

所姬 : あんたは、本当にあんたのとこの社長の金盗んだの? 横領みたいにポケットに入れて、自分が使いたいように使ったの?

始緣 : それは違うよ。

所姬 : うん、もちろん、あんたみたいに無実の人もいるし、本当にどうしようもないぐらいクズな野郎もいるだろうね。でも、それを私たちが直接消しちゃいけない。

始緣 : 本当に悪い奴でも?

所姬 : やらないでほしい。できるだけ。

始緣 : だからなんで?

所姬が遅れて始緣を見つめ、辛そうな笑みを浮かべた。

所姬 : あんたが辛くなるから。思ってるより、本当に辛いことだから。自分の手でそれを決めるっていうのは、本当に怖いことだから。

始緣 : あんたはどうしてわかるの。あんたも人には使ったことないって言ってたじゃん。

所姬が小さな溜息をつきながら始緣の詰問に答えた。どこから話せばいいのかずいぶん迷っている様子だった。始緣はせがまず、所姬の説明が続くのをしばし待った。

所姬 : 私には、オンニが一人いる。そのオンニは、本当にたくさんの荷物を背負ってるの。表には出ないけど。初めて人を手にかけたあの日、私はいつも強いだけだった私のオンニが死ぬほど辛がってる姿を初めて見た。だから、そうならないでほしい、あんたも。人の命をむやみに扱うこと。本当にすごく辛いよ。

始緣が所姬の表情をしばし見つめた後、始緣自身の手をちらりと見下ろした。所姬が起こしていた身体をまたブランコのほうへ移していった。座らないまま、空のブランコをしばし押して、ブランコが勝手に動くよう鉄の音を立てた。

始緣 : じゃあ、そのオンニって人が、あんたの代わりにやったんだろうね。

所姬は始緣の言葉に答えなかった。

始緣 : あんたがやるべきだったことを、オンニって人が代わりに出たんだろうね。

所姬 : 違うと信じたい。違えばいいのに。でも、そう。私が臆病者だからオンニが辛いんだろうね。そんなオンニが全部引き受けて、引き受けるんだって。私もオンニにそうしてほしくないんだけど、難しいんだよね。オンニは自分が全部やらないと気が済まない人だから。

始緣 : 嘘だよ。それ。

所姬 : どうしてそう思うの?

始緣 : 世の中に辛くない人間がどこにいんの。耐えて耐えて崩れるんだよ。よく見たよ。そういう女。そういう女が金稼ぎに来るか、金使いに来るかだよ。

所姬が音を立てていたブランコの鎖をまた掴んだ。音を立てていたブランコが止まった。軽い溜息をついた所姬が、顔をまた向けて始緣を見つめた。

所姬 : だから。そうならないでほしい。オンニも、あんたも、

所姬のぶっきらぼうな笑みと勧めに、始緣がしばし頷いた。所姬が薄い上着に入れていた電話を取り出し、時間を確認した。始緣を通り過ぎるように歩いていった所姬が、とても伝えにくい言葉を伝えようとするかのように、しばし口ごもった。

所姬 : 今日の明け方に、よくないことがちょっとある。あんたが置かれた状況を理解させるには、それくらいの方法しかないだろうし。それは、私が出て行って助けることはできない。ごめん。

始緣 : 人殺す?

所姬が首を横に振った。

始緣 : じゃあ?

所姬 : あんたみたいに、もう死んだ人と向き合うことになる。

しばし始緣が言葉を止めた。

始緣 : そうだね。辛いだろうね。あんたの言う通りなら、もう死んだ人間である私みたいなのを相手にするのがもっとクソだろうし。私もああなるかもしれないんだから。

深い沈黙が流れた。訊きたいことは浮かんでいたが、訊くのが容易ではなかった。聞きたくなかったという方が正しかったから、始緣は怯えたように、おずおずと切り出して訊いた。

始緣 : もしかして、殺す? 私が? 殺さなきゃいけない?? それとも、何、私が死ぬとか。

所姬が始緣の問いに首を横に振った。ほっとしながらも、もう何から、どう訊けばいいのかわからないとばかりに、始緣がしばし口をつぐんだ。所姬は急かさなかった。考えをまとめた始緣が、所姬にもう一つ問いを寄越した。

始緣 : いつか、今日みたいに、私が私みたいなやつを探しに行かなきゃいけないの?

今度は所姬がすぐには答えられなかった。すでにこの道を歩くと決めた以上、どこから先に答えるべきかもどかしいのは、知らないことが多い始緣と同じく所姬もまた同じだった。知っていることと言えることが常に同じであるはずはなかった。

所姬 : 助けるよ。力の及ぶ限り。いつでも。私も、オンニも。

始緣 : あんたはなんで私を助けるの? たった二回? 会っただけのくせに。

始緣の嘲るような詰りに、止まったブランコに向けていたぼんやりした視線を返した所姬。ゆっくりと始緣を見つめ、苦笑いを含んだ答えを返した。

所姬 : ほんとにね。私も自分の選択がちょっと怖いかも。