胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 14.

遅い夕刻になってようやく、新たに構えた住まいの玄関前にたどり着くことができた。所姬が周囲をちらりと見回した後、目をそっと閉じた。溜め息がひとりでに漏れた。指紋で錠を解いた後、明かりの消えた部屋をそっと覗き込んだ。瓶が玄関先まで転がってきていた。道で感じたおかしくなりそうな酒の匂いはそれでもだいぶ薄れたのか、所姬が顔をほんの少しだけしかめたまま、明かりの消えた居間へ歩みを進めた。居間の明かりを点けたとき、堪えきれない苛立ちが込み上げた。まず、真っ先に所姬の怒りを焚きつけるかのように、始緣が食卓の上でうずくまって眠っていた。晶善は床に転がり、初対面であることを恥じるような姿勢で、顔を床に伏せたまま鼾をかいていた。始緣の部屋で眠っていた慶瑞は、とうに意識を失った様子で半分ほど敷居に体を掛けて横たわっていた。敷居を腰に据えたまま何かを求めるような姿勢で眠り続けていた。眠っている途中で渇きを覚えたのだろうが、睡眠という本能が渇きより強かったのは明らかだった。所姬が大きく息を吸い込んだ。

所姬 : おい!!!

起き上がるまで上げ続けた叫び。三人が一斉にぎょっとしたように体を起こした。狭い食卓の上で目一杯体を丸めて眠っていた始緣が、居間の床へ転がり落ちた。

所姬 : 全部!! 片付けろ!!!


Scene 15.

惟碩(ユイセキ)が執務室の机に疲れた体を埋めるように腰を下ろした。遅い夕刻。惟碩を待っていた희진(熙珍:ヒジン)が入ってきて、惟碩の机の脇に立った。惟碩が熙珍の気配を無視せず、座っていた体を再び整えて立ち上がった。

惟碩 : お越しでございましたか。集賢館長(シュウケンカンチョウ)。

惟碩の挨拶を受けた後、熙珍が惟碩よりも少し深く礼を返した。

熙珍 : 日曜の夜に出ておいででしたとは存じませんでした。いらしたとの報せを頂いていれば、用向きは後にしたものを。

惟碩 : お掛けください。

惟碩が執務室中央のソファへ熙珍を案内した。熙珍が腰を下ろした後、惟碩が続いて席についた。

熙珍 : 事務長(ジムチョウ)におかれましては、既に多くをご存じでいらっしゃいます。敢えて、私が申し上げずとも差し支えないものと思いますし。あの屍を指名した理由も、今ではすべてお分かりのことでしょう。

惟碩 : よろしければ。

惟碩が熙珍に了承を求めた。惟碩がポケットから取り出した煙草を熙珍に差し出した。熙珍がしばし逡巡した後、惟碩の差し出した煙草を一本、指で慎重に抜き取り、口に咥えた。惟碩が古い香炉を模した小さな灰皿を持ってきて蓋を開けた。

惟碩 : 姜知暎。名前までは掴みました。容姿はまあ。策士(サクシ)が指名した鏡と同じでしょう。鏡の姿は写真で確認しておりました。

熙珍の口から返答の代わりに長い煙が漏れ出た。惟碩の言葉に答えなかった熙珍であったため、惟碩は自らが経験したことを先に続けた。

惟碩 : 私が知るであろうと、お見込みだったようですね。

熙珍 : 後輩には、お会いになれましたか。

惟碩 : もとよりお知り合いでいらっしゃいましたか。

熙珍が長い煙を含みながら首を横に振った。

惟碩 : 軍の後輩でした。除隊後、俗世で時折会って連絡を取っていた男でして。あれほど執着の強い男ではなかったのですが、ことさら酒を飲むと一人の人間にひどい振る舞いをしているようでした。以前から。

熙珍 : 元来、知識ばかり多い愚か者ほど己を正当化しやすいものですから。切なさとは、欺きやすい感情です。

惟碩 : 正当化なさったのではありませんか。

熙珍は惟碩の軽い追及に黙って笑うばかりだった。話題を変えようとしていた熙珍が、惟碩の手にあった書物を思い出し、軽く話を逸らした。

熙珍 : まだ、空間を追っておいででいらっしゃいますか。

惟碩 : 隠すために時間を動かすというのは副作用が大きすぎます。偽りの記録のために我々の者だけが呪いを被るのも問題ですし。

熙珍 : そうだとしても、空間を追うこともまた、時間との関連を無視することはできません。何かは減り、何かは後退するのです。

しばらく黙って煙草を燻らすだけだった二人の静寂は、惟碩が軽い溜め息とともに発した声にたちまち消え失せた。

惟碩 : すでに、各々の座は定まりました。いかに集賢館長であらせられても、覆すのは難しいかと存じます。

熙珍 : 私は、團長をお仕えしております。座を欲してはおりません。團長を敬服しております。私はただ。

熙珍が短くなった煙草を香炉型の灰皿へ揉み消すように押し込んだ。

熙珍 : 團長がなさろうとしていることを、私なりにお助けしているだけです。その方途が、その方法が乱されぬことを願うばかりです。

惟碩が煙草を消しながら香炉の蓋を閉じた。

惟碩 : 私の妹に触れさえすれば容易に露見するようでした。しかし、敢えて隠そうともしていないように見受けられました。己の座がどこかを知る者のように。行く先の定まった者のように。このたび、偶然にも名を思いのほか早く知り得ただけで、容易に追跡できそうでした。

熙珍 : そうでしたか。

惟碩 : 残りの情報は俗世を少々利用しようかと思います。

熙珍 : 警察ですか。

惟碩 : はい。

熙珍 : それで、私の意向とも関わりなく最初の候補だと称して警察を殺したわけですね。なかなか、もっともらしゅうございました。

惟碩 : 館長と敵対するつもりはございません。

熙珍がソファから立ち上がった。抽象的な対話の幕を引いた熙珍がゆっくりと身を移した。

熙珍 : ただ、静かに滞りなく収まればと願うばかりです。

惟碩 : 先日。

立ち去ろうとした熙珍の足を惟碩がしばし留めた。

惟碩 : 石塊が顕現いたしました。私の執務室に。

熙珍 : そのような雑鬼を恐れなさることはないでしょうし、それを今この場で私に仰る理由が。まさか、「その石塊と手を結ぶこともあり得るゆえ、察せよ」などという仰せではございますまい。

惟碩 : そのようなことは決してございません。断じて。ただ、あの石塊が、集賢館長のお姿に繰り返し象られるのが、目障りでしてな。必ずや、あの石塊が事を起こすでしょう。

熙珍 : 私の始祖がどこへ参りましょうか。ご案じなさいませぬよう。流れ者どもを除いたすべてに、すでに囁いております。團内部の大多数には、狡猾な口が届くことはございますまい。

惟碩 : いつ準備をお済ませになったのですか。

熙珍が首を巡らせ、惟碩をじっと見つめた。

熙珍 : 私があの石塊の奸計に弄ばれた瞬間、そのような私をお二方が助けてくださった瞬間。私は、道に踏み出す迷子となることを決めただけにございます。

熙珍が先に惟碩へ深い礼を送った。惟碩も浅からぬ礼を返した後、熙珍が出て行った執務室の扉を閉じた。惟碩が机へ腰を下ろした後、ガラス板の割れた電話機を開いた。


Scene 16.

深い夕暮れだった。簡素な夕食を終えた以心と知暎が、閑散とした公園の道を歩いていた。以心の腕に知暎が自分の腕を絡ませ、寄り添った歩みを進めていた。以心の長い韓服の衽が知暎の肌へ惜しむように触れていた。

以心 : 寒くない? 服も短く着て。素肌丸見えよ。この腹を見なさい。お腹に風が入るわよ。

知暎 : えー、この暑さで何言ってるの。ていうか、あたし太った?? お腹が目立たない服なのに。あぁ! もう。ダメ太ったら。

以心が知暎の手を覆うように包んだ。歩みはそのまま前を向く以心が、胸の痛む声を知暎へ届けた。

以心 : うちの長女、もっと冷たくなったね。

知暎 : そんなこと続けたら離して歩くよ。

以心 : どこへ離すの。そのまま掴んでいきなさい。

知暎 : お母さん。あたしたち遊園地行かない? あたし、お母さんと遊園地一回も行ったことないじゃん。

以心 : 飛行機より怖い?

知暎がしばし悩んだ。程度を測りかねる知暎の躊躇いを断ち切るように、以心が短い答えを寄越した。

以心 : 行かない。

知暎 : あ お母さん~! 一緒に行こうよ。ねえ? あたし来週インセンティブ出るし。使えてなかった有給も取れるし。どう? 所姬も一緒にみんなで行こうよ。

以心 : ふむ。うん。

趣のある夏の夜だった。昼の暑さが引いた夕方の街は、むしろ焼けつくような昼間よりも多くの人波を映し出していた。狭くない歩道を横切って走る人々をあちこちよけていた知暎が、爪先を動かせるほどの余裕あるスリッパを引きずりながら、住んでいるマンション近くに位置する広々とした公園を以心と共に散策した。

知暎 : お母さんだって有給まだたくさん残ってるじゃん。ていうかその前に、社長が自分の休みたいときに休めなかったらそれ社長なの?

以心 : あたしが社長かい。團長よ。

知暎 : とにかくトップじゃん。国の法律通りにしてよ。ちょっとは。

知暎が小言を言うように以心を説得し続けると、以心も少しずつ知暎の望みに合わせようとするかのように、迷いが感じられ始めた。

以心 : 来週忙しそうなんだけど。うん。

知暎 : 所姬に聞くっていう手がある。

以心 : 余計なことにあの子を使わせないの、分かったわよ。いつ空ければいいの?

知暎 : 来週の木曜日。いいね。木曜日。人も多くないはずだよ。たぶん。

しばし途切れたおしゃべり。以心がしっかりと握った知暎の手を離さぬまま、長い間撫で続けた。以心が小さな溜め息とともに、難しそうな独り言のように話を切り出した。

以心 : 全部やりたいのね。うちの長女。

知暎の忍耐だった。以心が寄越した何気ない言葉に、知暎が歩いている足取りそのまま、しばし視線をふいと上へ持ち上げた。しばらく続かなかった知暎の声が、少し後に零れ出た。

知暎 : もっとたくさん残したいから。あたしはお母さんの最期も見届けられないんでしょ。だからなおさら後悔したくない。

以心 : じゃあ、今日所姬のところに送っていってくれる? 林技師を少し休ませてあげるついでに。あなたも着替えて。

知暎 : うん! ただ、上がりはしないよ。所姬がいずれ会うことになるって言ってたから。

知暎の手をもう少し深く包み込んだ以心が、向きを変え知暎の車の方へ足を向けた。