胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 05.

明け方の光が昇り始めていた。汗まみれになるほど激しかった初めての訓練を終えた始緣が、床に投げ出すように座り込んだ。慶瑞が疲れた様子も見せず、始緣の隣に腰を下ろした。

始緣 : やってみたら、何言ってたかは分かるんだけど。うん。

慶瑞 : 今日一日やったんだから、まあ、徐々に良くなるだろ。あ。そうだ。おい。

始緣 : 何。

慶瑞 : お前、血ちょっとちょうだい。

始緣 : これを血って呼べるのか? なんか真っ黒い水みたいなのが滲み出てんだけど。

慶瑞 : 血だろ。体から出てきたんだから。

始緣が体を転がしながら、肌に付いた黑水の筋を探し回った。慶瑞が小さな試薬瓶を取り出し、始緣の唇の方へ寄せた。

慶瑞 : おい。ここ、唇の横に付いてるの、お前が入れてみろ。

始緣 : まあな。あんだけブン殴られて、見当違いなとこ探してたわ。

始緣が口元に付いた血の跡を試薬瓶へ慎重に移し、慶瑞に渡した。

始緣 : 飯食おう。腹減った。散々ブン殴られたから。

始緣から受け取った小さな試薬瓶をポケットにしまった慶瑞が、今さらのように周囲を見回しながら言った。

慶瑞 : この辺はちょっと危ないから、お前先に家に帰ってろ。麻布を纏って後から行く。

始緣 : あー。お前も見つかるとまずいの?

慶瑞 : そうだって言われてる。だからまあ、言われた通り気をつけなきゃ。

始緣 : 分かった。じゃああたし先に所姬んちに行ってるわ。

慶瑞 : 所姬って一体誰なのか分かんないけど。まあ、そうしな。

始緣が先に腰に銃を差し込んだ後、のそのそと歩みを進めた。慶瑞が試薬瓶をポケットにしまった後、手を振るって麻布の端を広げた。体の周りに大きく円を描くような短い舞を繰り広げ、麻布を広く展いた途端、慶瑞の姿はたちまち消え失せた。


Scene 06.

日曜の明け方。夜明けに昇る夏の陽が空の縁にかすかに掛かっていた。だぶだぶのノースリーブの上衣と下半身をかろうじて隠す下着だけを着た知暎(ジヨン)が、いびきをかきながら眠りから抜け出せずにいた。所姬(ソヒ)が先に入ってきて、知暎の部屋をそっと覗いた。知暎の枕へ、びっしょり濡れるほどの涎が流れ出ていた。所姬が白い肌の知暎をくすぐるようにして起こした。

所姬 : 目を開けてみて。オンニ。

知暎 : うぅん、あたしもう会社辞める。朝起きたくなぁい。

所姬 : いや。だから。今日は日曜の朝だってば。目を開けなさいって。

知暎 : うぅん~ じゃあもっと寝る。日曜だから。

所姬 : 私、お母さんって呼んだよ。

知暎がうつ伏せたままの体で膝を持ち上げるように力をいっぱい込め、上体をまっすぐに起こすと、所姬を不意に抱きしめた。

知暎 : よくやった。あたしの妹。

所姬が知暎のあやしを受けた後、黙って知暎を抱き返した。しばらくの間、互いを撫で合った二人だった。知暎が先にそっと所姬を離してやった。髪に付いた自分の涎が所姬に付いていないか心配そうに確かめる知暎の様子を見て、所姬は首を横に振り、軽く笑って見せた。知暎のぼさぼさの姿が初めてまともに見えた。

所姬 : 後悔したくなかった。連曦という人を見たら、なおさら。

知暎 : ちゃんと会えた?

所姬 : うん。私と似てるようで、確かに違ってた。

知暎 : もしかしてもっと遅れて、あんたが傷つくんじゃないかって心配してたけど。よくやった。趙所姬。

所姬 : お母さん来るって。ご飯食べようって。久しぶりに三人で食べようって。

知暎 : あの子は時間合わないって?

所姬 : 誰?

知暎 : 始緣。四人でご飯一回食べるのはどうかなって。

所姬 : まだダメ。あと、あの子は今頃までボコられてるよ。

知暎 : ひん。

知暎が覚め切らない眠りの中でも不満げな鼻声を出した。所姬は気にもせず、まだ眠りに酔った知暎を咎めた。

所姬 : 起きて少し洗いなよ。目やにも取って。起こさなかったら一日中寝てるでしょ。

知暎 : あいたた。死にそう。

知暎がベッドを整えもせず体を動かした。布団もぐしゃぐしゃに乱した知暎が、浴室へ歩いて行きドアを開けたままシャワーを捻ると、所姬が渋い顔をしながら浴室のドアを閉めようとした。

知暎 : あ。あたしまた閉めてなかった?

ポケットに入っていた所姬の電話機が鳴った。所姬が電話を取ると、素っ気ない始緣の声が聞こえてきた。

始緣 : おい。あたし今日家で慶瑞と飯食ってもいい?

所姬 : 散らかすだけはやめて。酒飲みすぎないで。後で夜に大事な用事が一つあるから。


Scene 07.

慶瑞が酒を食卓の上に出していた。所姬の声がスピーカー越しに聞こえていたため、酒瓶を袋から出していた慶瑞の手がそのまま凍りついた。慶瑞が、行為を指摘した電話の向こうの意思と、その意思を伝える人物の声に覚えがあることを感じ取り、しばし固まっていた。

所姬 : 今出したぶんまでだから、残りは冷蔵庫にしまっておいてください。

慶瑞 : な、何。この声。連曦オンニかな。いや。それより、ここカメラあんの?

慶瑞が慌てて周囲を見回した。所姬が慶瑞に声だけでも挨拶を送った。

所姬 : 敎正館(キョウセイカン)の文慶瑞さん。始緣の友人、趙所姬と申します。近いうちにお目にかかるとは思いますが、このような形でご挨拶して申し訳ありません。

慶瑞 : あ、はい。はい。こんにちは。文慶瑞です。あの、私。私の肩書はどうやって知って。いや、つまり。うん。え。あ。

所姬 : お食事おいしく召し上がってください、今日は始緣と一緒にいてくださると嬉しいです。お願いいたします。

慶瑞 : あ、それは、はい。まあ。ええ。

所姬 : 始緣の部屋でお休みになっても構いませんので、お疲れでしたら少し目を閉じてください。それと。

慶瑞 : はい。

所姬 : 團長の御指示を、条件なしに聞き届けてくださり、ありがとうございます。

所姬の真摯な感謝の言葉に、慶瑞がためらっていた身振りを改め、心からの返答を伝えた。

慶瑞 : お願いしたいとのことでした。とても良い方でいらっしゃるので。お断りする理由も、そのつもりも当然ございませんでした。ですから、私にお礼をおっしゃる必要もありません。

浴室の中から知暎の声が幕に遮られるようにかすかに届いた。

知暎 : 冷蔵庫の奥にヘムルタンの材料入れてありますよ!! 同封してあるスープを注いで煮るだけでいいですから!!

スピーカー越しに聞こえる知暎の声に、始緣が冷蔵庫の奥を覗くと、新鮮な海鮮鍋の材料が目に入った。慶瑞が目を大きく見開きながら、さりげない手つきでこっそり酒瓶をもう一本取り出した。


Scene 08.

知暎が端正な化粧を施した後、母を手伝い食事の支度をした。きちんとした韓服姿をいつの間にか楽な服に着替えた以心(イシム)。知暎がいつも家で着ているだぶだぶの上衣と運動のときに穿くゆったりしたズボンを身に着けたまま、以心は豚肉を焼いていた。所姬、知暎が食卓を整えるように料理を並べていた。

知暎 : お母さん、あの、晶善っていう子は来なかったの? 玄敎(ゲンキョウ)の一従長。

以心 : 一緒に行こうって言ったんだけど、先に始緣のことを片付けなきゃいけないんじゃないかって言うから、林技師の車で送り出したの。お母さんはタクシーで来たし。

所姬 : 私も後でそれがあるから行かなきゃいけないんだけど。かなり大事なことだから。それはそうと、お母さんは疲れてないですか?

以心 : 今日、あたしが疲れてるわけないでしょ、所姬。今までで一番気分のいい日なのに?

知暎 : 全女史はもう口が耳まで裂けちゃってるよ。

所姬 : すみません。遅くなって。

以心 : もう! 違うってば。所姬も知暎も、ずっとあたしの娘だったんだから。いつだってお母さんは、あなたたちのお母さんだったの。だから、ごめんなんて言わないで。知暎。ニンニクちょっと切っておいて。剥いてあるの冷蔵庫にあるはずだから。

知暎が冷蔵庫から剥きニンニクの容器を取り出し、半分に割りながら小さな器に載せていった。所姬がサムジャンを作りながらコチュジャンとテンジャンの比率を混ぜていた。以心が知暎と所姬の手元を見つめ、内心誇らしい気持ちを感じているように見えた。分厚い肉をひっくり返しながら、下焼きした肉をフライパンごと食卓の真ん中のIHコンロへ載せ置いた。

知暎 : おお。タムラの首肉。美味しそう。

所姬 : いただきます。

以心 : たくさん食べなさい、うちの娘たち。

以心が箸を取ると、知暎が素早くご飯を一匙大きく掬い、口の中へ押し込むように慌てて食べた。肉汁の滲み出た肉を一切れ持ち上げ、黙って以心の匙の上に載せた所姬。所姬が黙ってご飯を大きく掬い、知暎が食べるようにご飯を慌てて食べ始めた。知暎が今日に限ってとりわけ、何もせずただ黙々と自分の腹を満たすばかりでいた。ご飯をたっぷり盛っていた知暎の気遣いを理解した所姬が、知暎に見せつけるように、以心の茶碗へ肉を載せていた。唐突にしょっぱい表情をいっぱいに湛えた知暎が、首を横に振った。

知暎 : あたしがさ、ここ数日まともにご飯も食べられなくて、ねえ? もうあちこち走り回って部長のクソ野郎に罵られて。もう一週間が最悪だったっての。牛肉がすごく食べたかったのに。まあそれでもタムラの首肉なら認めるけど。

知暎の嘆きと苛立ちに、所姬が顔をしかめながら知暎に尋ねた。

所姬 : まだあいつはオンニのこと食い足りなくてジラルしてんの?

知暎 : 言わないで。あたしがいなきゃ翻訳もまともにできない奴らが、揃いも揃って口だけ達者で。それでもこっそり助けてくれる会社の人たちが多いから、罵られるのもマシなんだよ。

所姬 : あのブタ。オンニに気があるんじゃないの?

知暎 : あんな太鼓腹の四十代のオッサンが?? 死ね。夢に出てきたらと思うとクソだわ。

以心が向かいに座った知暎の腕を叩いた。

以心 : 「クソ野郎」までは見逃してあげるからね。

知暎 : あぁもう。ほんとに。所姬。あたしら今日お酒一杯飲んでもいい? あたし運転することない?

所姬 : んー。今日は大事な用事がある日だから。お母さんも後でいらっしゃると思うし。

知暎 : あ。そうか。今日は大事な日だもんね。あたしが行って手伝うことはない?

所姬が知暎の問いに首を横に振った。

所姬 : 大丈夫。たぶん、てんやわんやだと思うけど。

知暎が素っ気なく頷くと、残りの肉を焼き始めた。