胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 02.

소희(所姬:ソヒ)が疲れた体を引きずって家に入った。空になった始緣の席を確認した後、とぼとぼと歩みを運び、部屋へ入った。しばらくして、部屋から黒い蝋燭を一本持って出てきた所姬が、居間に座ると蝋燭に火を灯し、目をそっと閉じた。簡単にではあるが、道が正しく巡っているかを確認した。所姬が考えた通り、見た通りに変わりなく進んでいる状態を見定めた後、閉じていた目をゆっくりと開き、蝋燭の火を息で吹き消した。万事が面倒だと言わんばかりに力いっぱい伸びをして、冷たい床に大の字に寝転がった。自分と似ていた연희(連曦:ヨンヒ)の姿が頭から離れなかった。人々の道が繋がるという事実だけを信じ、飛びつくように選んだ道だった。もはや後悔する理由も、後悔してはならない事でもあった。そして、何より。自分を最も信じ始めた誰かのためにも、所姬自身が崩れ落ちてはならない状況になりつつあった。手足をいっぱいに広げて横たわっていた所姬が、体を整え横向きに寝返りを打った。もうこれ以上、重荷だとは思わないようにした。ただ、지영(知暎:ジヨン)が言った通りに信じようとした。自分を信じてくれる人たちを、所姬もまた信じるべき理由ができたのだった。横になったまま、着ていた薄い上着の中に手を入れ、ポケットに入っていた電話機を取り出した。あれほど長く待ち望んでいた瞬間だったのかもしれなかった。そして、黙って電話をかけた。緊張はしなかった。見た道の中で感じた、あの方の虚しさと罪悪感を和らげてあげたかった。呼び出し音が短く鳴ったとき、待っていた声が受話器の向こうから聞こえた。所姬が淡々とした声で、自分もまたあれほど言いたかった言葉を、淡々とした声で伝えた。

所姬 : お母さん。


Scene 03.

이심(以心:イシム)――團長(ダンチョウ)が黙って後部座席に座り、声を聴いていた。あれほど待ち望んでいた、もう一人の子の声だった。どれほど長く待ったか知れないことだった。以心は急かさなかった。所姬が続けて話してくれることを、ただ願っていた。そしていつもそうであったように、所姬は以心の期待を裏切らなかった。たとえ受話器の向こうから届いた声と呼び名であったとしても、以心はただ感謝するばかりだった。所姬の安否をまず尋ねようとした以心は、言葉さえ塞がれたかのように、しばらく何も言えずにいた。頭の中が一瞬にして白く褪せていった。電話機の向こうから、所姬の呼びかけが再び続いた。

所姬 : お母さん。

以心 : うん、そう。あたしの娘、所姬。無事に着いた?


Scene 04.

所姬 : はい。無事に帰りました。お母さんは。何事もないですよね?

水をたっぷり湛えていた堰が決壊したように、所姬は躊躇わず堪えていた言葉を絶え間なく伝えた。

以心 : もちろん。誰が教えてくれるっていうの。何事もなく帰ってるよ。ご飯は? ちゃんと食べてる?

所姬 : はい。連曦という人。会って来ました。お母さんが大事にされている理由、分かりました。

以心 : お前たちみんな、あたしが胸で産んだ子たちだよ。仲良くしなさい。互いに大事にして、辛い時は慰め合って。

所姬 : はい。お母さんは、お食事されましたか?

こんなにも言いたかった、呼びたかった言葉だったのに。何がそんなに難しくて口にできず、ためらってばかりいたのか分からないことだった。

以心 : うん。古い友人に会って、久しぶりにちゃんと食べて帰ってるところ。

所姬 : 気をつけて帰ってきてください。私はちょっと寝ます。長く運転して疲れました。お母さんは、お母さんが運転してるわけじゃないですよね?

以心 : もちろんよ。林技師(イム・ギシ)のおじさんがやってる。一従長(イルジョンジャン)と一緒に上がってるところだし。早く寝なさい。深く。携帯も少し切っておきなさい。お姉ちゃんは毎日あんなに携帯を離さないんだから。

所姬 : お母さん、知暎オンニは海外から電話たくさん来るじゃないですか。やっぱり仕事がそうだから。

以心 : 毎日ゲームの動画ばっかり観てるくせに。

所姬 : お母さん。

以心 : うん、所姬。

所姬 : お母さんって呼ぶの。遅くなってすみません。

隠していた弱い姿が所姬の目を押し広げるようにして溢れ出た。震えない声を淡々と届けたかったのだが、以心に分からないはずがなかった。

以心 : 違うよ。あたしの娘がお母さんに申し訳ないことなんか何があるの。いつも健やかで、いつも良い子でいてくれて。お母さんと一緒にいてくれてありがとう。

所姬 : 気をつけて来てください。それと。お母さん。

以心 : うん。所姬。

所姬が懸命に堰き止めていた堤が崩れ、所姬の奥深くにあった申し訳なさまでもが込み上げてきた。

所姬 : いつも、いつもそうでした。お母さんが私を助けてくれたとき、目を開けた途端になぜ私だけ生き残ったのかって怒鳴りつけたときも、本心じゃなかったんです。ごめんなさい。傷つけて。道のために私を大切にしたんじゃないってことも、全部分かってます。お母さんが、私をどれほど大事にしてくれたかも。

以心 : ありがとう。あたしの娘。

所姬 : お母さん。

以心 : うん。所姬。

所姬 : 愛してます。

積もっていた言葉だった。いつどうすればいいのか分からないだけだった。そして分からない時間の中にふいに湧き上がったその感情だった。所姬の淡々とした声に、先に感情を抑えきれなかったのは、以心の方だった。以心は答えることができなかった。込み上げる感情に以心はすすり泣きすら漏らせずにいた。

所姬 : 知暎オンニが言ってました。後悔しなければいいって。私が、後悔したら、オンニもオンニだけど私が一番辛くなるって。だから、だから。今日連曦という人に会ったとき、決心しました。ああ。強いということは、やらなければならないことを最後までやり遂げることなんだって。ああ。なぜやらなかったんだろう。後悔するのはやめよう。後悔したら、二度とお母さんを呼ぶこともできなくなるかもしれないから。

以心 : そう。ありがとう。あたしも愛してるよ。所姬。

所姬 : 気をつけて帰ってきてください。私、ほんとにちょっと目を閉じますね。すごく眠いです。

眠いと言う所姬の声は存外しっかりと聞こえていた。短かった電話が名残惜しかった以心が、途切れかけた所姬の声を慌てて引き留めた。眠いことは分かっていた。当然眠くもなるだろうと思った。それでも、もっと聞いていたかった。以心が所姬を呼んだ。

以心 : 所姬。

所姬 : はい。

以心 : 後で、来られるなら来ない? ご飯作っておくから。ご飯食べよう。久しぶりにみんなで。お母さん、お昼には着けるから。

所姬 : はい。それなら、お昼ご飯の頃に合わせてオンニの家に行ってますね。ご飯食べないで。

以心 : うん。美味しいもの作ってあげるから。何食べたい、うちの所姬?

所姬 : プデチゲは暑いですかね? 夏ではあるけど、オイソバギもあるにはあるんですけど、温かいものが食べたいです。

以心 : 久しぶりにサムギョプサルも焼こうよ。お前、タムラの首肉好きでしょ。

所姬 : オンニが昨日牛肉がどうとか言ってたから、豚肉だったら拗ねそうだけど。

以心 : 拗ねないわよ。あの子だってどれだけよく食べるか。買い物して帰るね。少し寝て、後で必ず来なさい。分かった?

所姬 : はい。お母さん。気をつけて来てください。

以心 : うん。所姬。ぐっすり寝なさい。

所姬が先に電話を切った。感極まった以心の様子を、助手席に座っていた정선(晶善:ジョンソン)がそっと窺った。晶善が思った通り、主教(シュキョウ)が言った通り、以心は悪い人であるはずがなかった。内容をきちんと聞き取ることはできなかったが、確かに、結ばれていた何かが、待ち続けていた何かがついに解けた人の表情だった。細い皺が浅く刻まれた目元が、しっとりと潤んでいた。目元を拭う以心をそれ以上見つめなかった。それが今、晶善にできる敬意だと思った。以心が先に晶善へ言葉をかけた。

以心 : 一従長。ごめんなさいね。歳を取ると、つい見苦しくて。

晶善 : いいえ。そのようなことはございません。ただ、少し羨ましく思いました。

以心 : どんなところが羨ましかったですか。

晶善 : 実は主教より團長のお話を多く伺っておりました。良い方だという言葉を。そして、それをこの目で確かめたような気がいたしまして。何と言いますか。電話の向こうのその方が少し羨ましくもありました。人の心を動かすような言葉は、容易には出てこないものですから。私もまだ、そのような勇気を出せたことがありません。

以心が後ろから晶善の肩をそっと撫でた。

以心 : 一従長も、いえ。晶善も、きっとできますよ。

晶善 : ありがとうございます。まもなく、北西の料金所です。少し休んでいかれますか。

以心 : そうしましょうか。何か、食べたいものあります? おごりますよ。久しぶりに。いつも哺乳瓶ばっかり咥えさせてたから。

晶善 : うん。それなら。久しぶりに牛乳を少し。実は、少しお腹が空いてきまして……。