胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

本作は現在、MUNPIA、Royal Road、エブリスタ、ノベマ!、Purrfiction、アルファポリスにて、著者本人が直接連載を行っている公式原稿です。


Scene 01.

暗い夜だった。街灯の光がかろうじて差し込む、とある廃墟の柱に息を殺して立つ시연(始緣:シヨン)が、銃を握り直しながら冷や汗を流していた。影一つまともに見えないほど暗い場所だった。がらんとした廃墟に響く風の音が始緣の耳を掻き乱していた。始緣がガサリと足をそっと運んだとき、スニーカーに細い삼베(麻布:サンベ)の糸が引っ掛かった。始緣がしまったという顔で慌てて腰を屈めた。柱を丸ごと砕きながら경서(慶瑞:ギョンソ)の拳が始緣のいた場所を掠めるように通り過ぎた。慶瑞の拳に、巻かれた麻布の端に付着していたコンクリートの残骸が床へ崩れ落ちていた。落ちる残骸が床に届くよりも前に、慶瑞が素早く手を伸ばし、腰を屈めていた始緣の頭を鷲掴みにすると、始緣の顔を慶瑞自身の膝へ力いっぱい打ち上げた。力いっぱい打ち上げた慶瑞の膝に、無防備のまま顔面を打たれた始緣の目の前が、星を散らすように痺れ、一瞬にして真っ暗になった。始緣の口から검은 물(黑水:コムンムル)が噴き出した。一瞬にして均衡を失った始緣の両脚がふらついた。始緣は負けじと、手に握った銃から火を噴いた。慶瑞の気配を撃ちながら始緣がかろうじて慶瑞を引き剥がしたとき、傷がたちまち塞がった始緣が、たじろぎながら別の柱へ身を隠した。

始緣 : おい!! クソ卑怯だろ!!

慶瑞 : 何が。

暗い空き建物の中で、慶瑞の声が四方に響き、始緣の文句に答えを返した。

始緣 : お前は何一つ見えないじゃん!!

慶瑞 : お前には代わりに銃があるだろ。撃ちまくれよ。

始緣 : アニ シバル、何が見えてこそ当てられるってもんだろ!!!

慶瑞が始緣の鼻先で黒い麻布を取り払い、己の姿を晒した。始緣が慌てて銃を構え慶瑞を撃とうとしたとき、慶瑞が始緣の手首を掬い取るように掴み、足を掛けてその場に倒した。そのまま床に転がった始緣。しばし小康状態を望むかのように、それ以上抗わなかった始緣が、うつ伏せた体をゆっくり起こそうとした。慶瑞が手を差し出し、倒れた始緣を引き起こしてやった。慶瑞の悪意のない訓練に満足したのか、体を起こした始緣が、口に含んでいた黑水を床へ大雑把に吐き出し、汗を拭いながらかすかに力の抜けた笑みを見せた。

慶瑞 : 殴られすぎてイカれたか? 何ニヤけてんの。

慶瑞の咎めにも始緣は意に介さなかった。ただ襟をバタつかせて汗を冷まそうとするばかりだった。

始緣 : はー。シバル。クソ暑いわ。

慶瑞が始緣の前へ歩み寄った。始緣の両肩を両手で掴み、後ろへそっと反らしながら、始緣の姿勢を正してやった。

慶瑞 : あたしらは踊る者だよ。そこに巻き込まれちゃダメ。人によって激しいか柔らかいか、違いがあるだけ。それを以て人や死んだものたちを慰めるんだけど、お前の頭に呪術(ジュジュツ)で刻まれてるのは半端な殴り合いに過ぎない。そんなくだらないもんが浮かぶから、知らず知らず塞ごうとするんだよ。後ろへ流して手を伸ばさなきゃいけないのに、防ぐので精一杯なわけ。

始緣 : でもさ、あたし踊りとかよく分かんないし。地味に体が硬くてさ。

慶瑞 : 機会があれば覚えられるから、焦るな。機会ってのは呆気ないくらいひょっこり来たりもするから。

始緣 : 来ないかもしれないし?

慶瑞 : 一度は来るよ。気づかなくて逃すことはあっても。

慶瑞が始緣の姿勢を正してやりながら素っ気ない答えを返す最中にも、始緣は質問をやめなかった。

始緣 : 銃は? 役に立たない?

慶瑞 : お前が銃の方が楽なら使え。ただ踊るように。銃のことはあたしも知らないし。まあ、そのうち銃なんか使おうとも思わなくなるよ。慣れれば。

始緣 : あー。喉渇いて死にそう。

しばし始緣を置いたまま、慶瑞が入口へ歩みを移した。あらかじめ用意しておいた小さな飲み物を二つ持ってきて、一つを始緣へ無造作に放った。始緣が飲み物を受け取ると、急いですべてを一気に空けた。慶瑞が飲み物を飲む間に、始緣が何か思い出したように再び慶瑞へ問いを投げた。

始緣 : ところでさ、なんでお前は顔がそのままなの。

慶瑞 : 何の寝言だよ。

始緣 : いや、あたし、その、なんの呪術? 幻が見えるやつ。あのシバルな女の面に変わらないのかって。

慶瑞 : ああ。それね。お前が本気で殺そうとする状況でしか発現しないよ。それに、もし発現したとしても、

慶瑞が始緣の左手首にあらかじめ巻いておいた麻布の端をめくるように見せた。

慶瑞 : あたしが使う呪術が、呪術を抑制する遺物(イブツ)を元に紡がれたものだから。その程度の下級呪術なら、この麻布の糸一本で抑え込める。

始緣 : おお。お前もなんかクソすげえじゃん。

慶瑞 : ただ、完全に消すのは時間がかかる。お前が直接殺したせいで、あの女の呪術の根っこが丸ごと移ったみたいでさ。かなり強く残ってると思う。だからもうちょっと待ってて、消してやるから。

始緣 : クソだったわ。あれ。

慶瑞 : 当たり前だろ。人を惑わして何がいいっての。良い記憶として植え付けたとしても、後でくたばった後に、サムドチョン行って正しかったか量らなきゃいけない場で、たかが面で憎しみを煽るんだから、当然クソだろ。あれは、天罰が下るよ。

始緣 : 分かってくれると嬉しいね。

慶瑞 : あたしらは、普通の人間に呪術を使えないことになってる。本当によっぽどのことがない限り。絶対禁止。まあ、そうだな。正直、今すぐお前を普通の人間として見るのは無理があるかもしれないけど。

慶瑞が始緣の様子をちらりと窺い、胸に秘めていた本音を吐き出し始めた。

慶瑞 : そもそも最初から、戻って来ちゃいけないってのが先だったんだよ。何をさせようとしてお前をまた呼んだのかは知らないけど、自分らの利を得るために生きてたお前を殺して、それをまた引っ張り出す? 狂ってるだろ。それは絶対にやっちゃいけない。考えてもいけない所業だよ。あの策士(サクシ)の女がよっぽどネジの飛んだ女だから、何でもないように やったんだろうけど。絶対ダメだ。

始緣 : じゃあ、それをネタに全員ぶっ潰せばいいんじゃないの? なんか、罰するとかそういうの無いの? 警察はまるで通じないだろうし。お前らの中でなんかそういうの無いの?

慶瑞 : あるよ。あるけど、機能してないのがもう五年くらいかな。クソみたいな女共が席を占めてるから。それに、もし全部を引っ繰り返そうとしたら、お前から壊れるよ。証拠まで掴み出そうとすれば。解剖もされるだろうし。でも、本当の問題はそこじゃないんだよ。うん。

慶瑞が言葉を惜しんだ。だが敢えて言えないことでもないと思った慶瑞が、頭を一度かき乱し、溜めていた言葉を独り言のように吐き出した。

慶瑞 : 言ったように、うちの團(ダン)はかなり腐ってる。上に残ってる女共の半分はシバルな奴らだから。そうなると團長みたいな一部の人たちが本当に苦しんでるんだよ。もちろん、あの高い座にロクでもない女共を任命したのは團長だけど、なぜそうされたのかはまだ誰も分かってないし。とにかく新しい入れ替えをしなきゃいけないのに、その泥を被れそうな人が善すぎるんだ。はあ。

始緣 : じゃあお前が泥被ればいいじゃん。

慶瑞 : 止められた。その善すぎるオンニに。あたしが出て行って全員殺そうとしたのに。

始緣 : まあ。そういう人いるよね。世の中を綺麗にしか見ない人。そういう人が真っ先にひどい目に遭うんだよ。たまには人のせいにしないと長生きできない。

慶瑞 : もし本当にそんなことが起きたら、必ず見つけ出して殺す。律法だろうが何だろうが。

始緣 : お前もその様子だと、そんな悪い女でもないからさ。これ以上はダメだって思ったんだろうね。

慶瑞 : は? あたしはクソみたいな女だよ。

始緣 : あ、はい。

始緣が持っていた缶をひょいと宙に浮かせ、足で大きく蹴り飛ばした。割れていたガラス窓の外へ飛んでいった缶を見て、慶瑞が思わず浮かべた呆れた表情を慌てて引っ込め、始緣の腕を叩いた。

慶瑞 : ゴミをそこらに捨ててジラルかよ、このイカれ女。通りかかった人に当たったらどうすんの。

始緣 : あぁぁ!! クソみたいな女だって言ったくせに!!!