胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 13.

始緣がゆっくりと目を開けた。ベッドで目を覚ました始緣の腹の虫が先に鳴った。ふかふかのベッドにうつ伏せで眠りについていた始緣が、自分の腹の虫に思わず呆れた笑いを漏らした。久しぶりに深い眠りを得た心地だった。全身がすっきりするほどぐっすり眠った始緣が、思い切り伸びをしながら枕元に置かれていたメモを一枚確かめた。

起きたらお腹が空くだろうと、所姬が冷蔵庫を少し満たしておいてほしいと頼んでいたので。中に少し入れておきましたから。起きたら食べてください。ありがとうございます。いつもお気をつけて。

誰なのかは分からなかったが、敵意は感じられなかった。きちんと書き記された文字が気品をにじませていた。所姬に関わりのある人間だろうと見当をつけ、始緣は大して気にも留めず頭を掻きながら部屋を出た。こぢんまりとした冷蔵庫の扉を開けると、手軽に食べられるものがぎっしり詰まっていた。これらの食べ物を詰め込んでいる間、何の物音も聞き取れなかったほど自分の眠りが深かったことも意外だった。始緣がろくに乾かせないまま眠ってしまった髪がひどく絡まっていた。長い髪が絡み合っていたが、始緣はぞんざいな手つきで髪をむしるように掻きながら、冷蔵庫の中の食べ物を取り出して食卓へ並べた。電話が鳴った。電子レンジに食べ物を入れて適当に温めている間にかかってきた電話。知らない番号だったので、ぞんざいな手つきで癖のように着信を拒否した。電話を拒否した途端、玄関の扉が狂ったように叩かれた。始緣が薄気味悪さを感じた後、居間に放り出しておいた銃を手に取った。緊張した面持ちで玄関へゆっくりと歩を進めた。小さな覗き穴から外を窺った始緣。レンズの向こうに人の目玉が大きく映し出されていた。仰天して体を引いた始緣がたどたどしく銃口を構えたとき、外からぞんざいな声が聞こえてきた。

慶瑞 : ドア開けてください。頼まれて来たんだから。

始緣 : だ、誰だよ!!

外に立って通話を続けていた慶瑞が、不満たらたらの声で受話器の向こうの相手にぼやきを吐いた。

慶瑞 : ああ、こうなると思ったんだって。信じないでしょ。私だって信じないわ。アニ、私の電話取らないんだってば!?

始緣 : 誰だって聞いてんだろ!!

慶瑞 : はあ。これどう説明すりゃいいの。

もたもたしている間に、始緣が腹を決めた。玄関に向けた銃口をそのままに、扉を急いで開け放ち、外で考え込んでいた人間の胸ぐらを掴んで家の中へ放り投げるように投げ飛ばした。胸ぐらを掴まれた慶瑞が始緣の体の上を大きく飛び越えたが、床に叩きつけられることなく、飛んでいった体をそのまま転がして着地した後、自分の胸ぐらを激しく掴んでいた始緣をむしろ投げ返すように足で蹴り飛ばした。

慶瑞 : かかってきなさい。本気は出さないから。心配しないで。

背中を部屋の床に叩きつけられた始緣が息を整える間もなく、慶瑞が服を払いながら始緣を静かに見下ろした。始緣が慌てて銃口を再び構え、慶瑞への警戒を解かなかった。始緣が慶瑞に向けた銃口をそのままに、体をそろそろと起こした。慶瑞は耳に差したイヤホンをゆるりと抜き、イヤホンの充電ケースへ収めて通話を終えた。

始緣 : 誰かって聞いてんじゃん。

慶瑞 : 文慶瑞って言います。その、何だっけ。頼まれて、あれこれ親切に教えてやれって言われて、忙しくて死にそうなのに引っ張られてきたんだから。それ下ろしてください。

始緣 : 所姬が寄越したの?

慶瑞 : それ誰よ。

始緣が警戒を解かず銃口を慶瑞に固定し続けると、慶瑞が悠然と歩み寄りながら始緣の銃口に自分の額を持っていった。口元に浮かんだ妙な微笑を見て始緣が身動き取れずにいる間に、慶瑞が見覚えのある銃を見てから始緣を改めて見つめた。

慶瑞 : ああ、この銃。あのシバル女が使ってたやつでしょ?

始緣の電話が再び鳴った。銃を慶瑞に向けたまま、電話へようやく辿り着いた始緣が所姬の電話を取った。

所姬 : 私が頼んだんだから間違いないの、その人についていって。日曜の夜に送り届けてくれるから。

始緣 : 何なんだよこの人。

所姬 : あんたをちゃんと教えてくれる人。怪我しないように。ちゃんと。近いうちにあんたにかけられた呪術(ジュジュツ)も解いてくれるし。すぐには難しいだろうけど。早くついて行きなって。寝たんなら。

始緣が黙って電話を切り、銃をゆっくり下ろした。慶瑞がポケットに手を突っ込みながら口笛を吹き、辺りを見回した。始緣が取り出していた銃を適当に腰に差し込んで片づけた後、ちょうどレンジから鳴った合図に、温まった食べ物を取り出した。

始緣 : 飯。食った?

慶瑞 : ちょっとタメ口じゃない?

始緣 : いやシバル、飯食ったかって聞いてんだよ。

ほかほかと立ち上る湯気を見ながら、慶瑞がぞんざいな思案を続けた。

慶瑞 : もう一つある?


Scene 14.

軽い笑いが互いに届いた。連曦と所姬が長い間交わした会話の終わりを迎える時が来たようで、身を整えた所姬が空いた茶碗を別棟の中へ片づけようと席を立った。連曦が所姬を手伝おうと空いた碗に手を添えた。所姬が大丈夫だという素振りで茶碗と急須を持ち、別棟の中へ入ってしばし片づけている間、連曦が庭に座り、傾いた日差しを眺めた。所姬が手に付いた水気を払いながら外へ出た後、玄関の扉をしっかりと閉めた。

連曦 : その、始緣という方も。大変でしょうね。

所姬 : もう一つの欠片ですから。私たち四人とも、楽にはいかないでしょう。でも、大丈夫です。共にいるのですから。そのために團長も辛い選択をなさったのだし。

連曦がそっと立ち上がり、腰を深く折った。所姬が連曦の礼に戸惑いながら、座っていた体を起こして慌てて連曦の礼を共に受け止めた。連曦が深い礼と共に、決意を込めた言葉を伝えた。

連曦 : よろしくお願いいたします。

腰を伸ばし、所姬の目を見つめた。連曦の目がしっとりと潤んでいた。

連曦 : もっと、よくして差し上げなければ。團長にも。お子さん方にも。

所姬 : 知暎オンニと顔を合わせることは、当面そう多くはないはずです。あるとすれば、もっと悪い状況でしょうから、ない方がいいですよ。

連曦 : お話ができるだけでも、悪くはないと思います。あの方にお伝えしたい言葉がたくさんありますから。

連曦の言葉をしばし噛みしめていた所姬が、ふと浮かんだ言葉を伝えた。

所姬 : 所長。

連曦 : はい。所姬さん。

所姬 : 無理して犠牲にならないでください。道は誰にも届いているのですから。

所姬の言葉が何を含んでいるのかは詳しくは分からなかった。しかし、長い時間を過ごしてきた連曦が自分を振り返るには十分な言葉だった。忠告の通りにただ従うような連曦ではなかったが、短いか長いか分からない、過ぎた時間の一部を慰められるには十分な言葉だった。連曦が頷きながら所姬に答えた。

連曦 : ありがとうございます。

所姬 : え、いえ。私の方こそ。

連曦の重ねた挨拶に所姬がやっとの思いで再び腰を折った。何か思い出したように、所姬が連曦をもう一度軽く呼び止めた。

所姬 : あ! そういえば、私たち、大学も同じところ出てるんですよ。

連曦 : あ、本当ですか??

所姬 : 学科は違いましたけど。学年も。ああ。つまり。これ。私の方が下ですね。一学年。

連曦 : 構いませんよ。私は。そういう振る舞い、あまりできませんし。

連曦が手を振り、尻すぼみに消え入っていく所姬の声を退けた。

所姬 : あ。私もそれは。当然。とにかく。まあ。はい。

すべての話を終えたようで、もそもそと片づける所姬を見ながら、連曦が所姬の前の道をまず開けてやった。所姬が決まり悪そうに後頭部を掻きながら歩き出した。連曦が所姬の後に続いて歩を進め、周囲に張り巡らせていた흰 모래(白砂:フィンモレ)を再び解いていった。所姬の身の安全を守ろうとした連曦の配慮を受けながら、所姬と連曦がその場を離れた。


Scene 15.

軽い心持ちで熙珍が服を整えながら集賢館を出て、自分の住まいへ歩みを進めていた。熙珍の背後からそっと現れた気配が、熙珍の背中をぽんと叩くと、熙珍が仰天して驚いた目で振り返った。

熙珍 : うわっ!! 鄭伊仙!! びっくりしたじゃない!

이선(伊仙:イソン) : 自分が遅く出てきたくせに。

長身の伊仙が、たくましい自分の肩を揉みしだきながら首をあちこちにほぐした。そんな伊仙を見ながら、熙珍が顔をしかめて伊仙に尋ねた。

熙珍 : 何。殴る気? 遅れたからって?

伊仙 : 私が殴ったとして、あんたが食らうわけ?

熙珍が素っ気ない顔で再び歩き出した。伊仙が熙珍の歩調に合わせ、楽に履いたスリッパをぺたぺた引きずった。

伊仙 : ところで何で자격루(自擊漏:チャギョンヌ)で会おうなんて言ったの?

熙珍 : 静かに話を聞ける場所が要ったから。

伊仙 : 演武場のそばで会えばいいのに。あそこに誰が来るのよ、汗臭いからみんな寄りつかないし。

熙珍 : ちょっとついてきなさい。穏便に。

さほど歩かぬうちに辿り着いた水時計の庭。黒い石から流れ出る검은 물(黑水:コムンムル)が、今日も変わらず歪んだ彼女たちの時を指し示していた。東屋に腰を据えた熙珍が腕を組みながら脚を長く投げ出した。熙珍もなかなかの長身だった。ずっと下を見なければ爪先が見えないほどの立派な背丈だった。伊仙が東屋の床にべたんと座り込んだ。

伊仙 : うん。来た。何。で?

熙珍 : 精武館(セイブカン)の別動隊(ビョルドンデ)。最近ちょっと忙しい?

伊仙 : 別動隊なんてまあ。よほど大きなことがない限り忙しいわけないじゃない。なんで?

熙珍 : できれば、內禁府(ネグムブ)の代わりに、信頼できる人を私のそばに一人だけ置けないかと思って。團長のおそばにも。

伊仙 : 何かあったの? 集賢館の別動隊は何してんの?

熙珍 : うちの別動隊は純粋に呪術師しかいないから。やっぱり体術師が要ると思うのよ。

伊仙 : 大事なの?

熙珍 : どうも馬鹿どもの動きが尋常じゃなくて。

伊仙 : 馬鹿ども? ああ。あの政治ごっこ。

伊仙が腕を組みながら不快な心中をあからさまに見せた。

伊仙 : ほんとに、團長はなんであんな女どもをあんな役職に就かせたのよ。

熙珍 : 推挙したのは私なんだけど、ともかく。ちょっとお願いできる?

伊仙 : 二人一組でつけてあげる。でも團長には先に一声入れなきゃまずくない? あんたはあんたが言い出したんだから別動隊の子がこっそりついて回ってもあんたは疑わないだろうけど、今の團長が密偵(ミルジョン)もいない状況でうちの子がくっついて歩いてみなさい。おとなしくしてらっしゃると思う? 即バレよ。

伊仙もしばし悩む素振りを見せた。

伊仙 : だいぶ危ないのかな?

伊仙がわずかに曲げていた腰をまっすぐに伸ばし、小さく溜息をついた。

伊仙 : どう考えても私がお仕えするのが一番確実な気がするんだけど。誰が私に勝つのよ。まあ、週末に團長がお留守なら私があんたと一緒にいるし。

熙珍が伊仙の言葉に同じくかすかな逡巡を見せた。

熙珍 : じゃあ、お話は私からするわ。どうせ今日はお出かけだから、今日から少し。今日。私を。ね? 私からまず。

伊仙 : うわっ!! 気持ち悪い!! べたべたすんなっつの!! この頭おかしい女!!