Scene 04.
意識を失った記憶があった。연희(連曦:ヨンヒ)の傍には、痛ましさと怒りを抱えた경서(慶瑞:ギョンソ)、연수(延秀:ヨンス)が連曦を見守っていた。まだ日の昇らぬ深い夜。連曦が酒の臭いもしない二人を見ながら、ゆるりと体を起こした。ベッドに横たわっていた連曦は、血に汚れた服も着替えられぬまま、意識を手放していた。ベッドの枕元に半ば体を預けていた連曦が、そっと体を起こし切ると、二人を見ながら辛そうに問いかけた。
連曦 : 私が、どうやってここに。
延秀 : ある方が、電話でオンニの居場所を教えてくれたの。
連曦 : ああ……。
延秀 : オンニ、その人が助けてくれたの? 誰なのその人は?
連曦は答えなかった。言葉を惜しむには理由があるのだろうと察した二人は、あえて連曦の答えを迫らなかった。
慶瑞 : そういうのは後で聞くとして、目が覚めたんだからまあ良かったわ。とにかく、その人が、オンニが意識戻したら電話一本入れてくれって。遅くてもいいからって。まあ、マスクと帽子まで被ってて、口が塞がってんのか、一言も喋らないでメモだけ残してったけど。電話してみなよ。
Scene 05.
所姬の口元にこびりついた血を拭い取った。先ほど所姬が始緣を助けたように、始緣が所姬を助けていた。始緣が所姬をソファの上に横たえたまま、濡れタオルを持ってきて血に汚れた顔を拭いてやった。所姬が力いっぱい腕をまっすぐ伸ばし、短い時間深く入っていた眠りを追い払った。所姬の気配に始緣がまず安否を尋ねた。
始緣 : 大丈夫か??
始緣の手にある血の滲んだ濡れタオルを見ながら、所姬が目を静かに閉じたまま軽い笑みを浮かべた。始緣の問いに遅ればせながら答えようと、力ない首をそっと頷かせた所姬。横になっていたソファの上へ体を起こした。
始緣 : おい、それで、何がどうなったんだよ。
所姬 : その前に、
所姬が体を起こした後、始緣を見つめた。血に汚れていた所姬が、始緣に感謝を示した。
所姬 : ありがと。
始緣 : 何が。
怪訝な始緣が所姬をまじまじと見つめ返すと、所姬は始緣の手にある濡れタオルへ視線を落とした。始緣が自分の手の濡れタオルを見て、大したことではないとばかりに、血混じりの洗面器へタオルを置いた。
始緣 : こんなもんで何だってんだよ。
所姬 : 私が怠けてたから辛かったの。遺物(イブツ)が半端物だからって、怠けて練習してたのが問題で。
始緣 : だから、何がどうなったんだっつの。
所姬が軽く溜息をつきながら、助けた方法を落ち着いて説明した。
所姬 : 私はまだ人の思考や感情を上書きできない。それを無理にやると、こういう障りが出るの。数えきれない近隣の人の中から、一番悪い人間を選びに選んだ。数えきれない道の中から。一番悪く生きてきた人間を見つけて、その人に事故を起こさせたの。飲酒状態でひき逃げの容疑がかかってたのに誰にも捕まらなかった奴だったんだけど。今頃は檻の中でしょ。
始緣 : まあ、いいよ。それはいいとして、
始緣もようやく安堵の色を取り戻すと、疲労と共に漠然としていた殺人の後遺症が押し寄せてきた。始緣が脚を投げ出すように伸ばして座ったまま、呆けた目で独り言のように呟いた。始緣の安堵と共に訪れた短い沈黙には、漠然とした恐怖が滲んでいた。居間いっぱいに満ちた深い夜明け前の静寂に、始緣は嘆きのような罵りを吐いた。
始緣 : はあ。シバル。おぞましかったわ。
所姬 : あんたのせいじゃない。
始緣 : 分かってる。分かってても何の足しにもならねえ。
所姬 : あんたが殺したんじゃない。あの女どもが殺させたの。
始緣 : お前は悪い奴すら殺さないように頑張ったじゃねえか。
所姬 : それを助けたのはあんただったし。
始緣は何も言えなかった。複雑な思いが怒涛のように押し寄せたが、浅い知識のせいで始緣は容易く言葉を吐き出せなかった。
所姬 : ありがと。助けてくれて。
始緣 : 一回でいいから。
所姬 : 二回助けてくれたじゃない。二回言わなきゃ。
始緣が所姬の軽い言葉に、気の抜けた笑いを見せた。
始緣 : 絶対、今日くたばると思った。死ぬほどぶん殴られると思ってた。
所姬 : そう。だから出たの。助けるって言ったでしょ。
所姬の淡々とした言葉を聞いた始緣が、軽い吐息と共に口を開いた。
始緣 : まあ、ありがとな。お前も。
Scene 06.
明け方の光と共に家へ入ってきた지영(知暎:ジヨン)。眠そうな顔を隠そうともせず中へ入った知暎が、そのまま居間のソファへ力なく歩いてきた。靴だけ辛うじて玄関あたりに脱ぎ捨てたまま、鬱陶しかったマスクと帽子も被ったままの知暎が、ソファへうつ伏せに体を投げ出した。まだ眩しくない日差しが感じられていた。
知暎 : あーあ。土曜日で良かった。疲れて死にそう。お母さん!
うつ伏せのまま呼んだ声に返事がないと、知暎が面倒くさそうな顔でソファから体を起こし、シンクの上のメモを確認した。のそのそとした足取りと共に、頭に被っていた帽子からまず脱いで雑に床へ放り投げた。
-スープ温めて食べなさい。今日用事があって遅くなるから。所姬には別棟を空けておいたから、連曦と話ができるだろうと伝えてあるわ。ご飯ちゃんと食べなさい!! 面倒だからって寝てばっかりいないで!!-
知暎が帽子を脱ぎ捨てた後、すっきりした頭を素手でがしがしと掻いてから、そのままソファへ再び崩れ落ちるようにうつ伏せた。
知暎 : あーあ。めんどくさ。
手首に着けていた腕輪を撫でた。
Scene 07.
業務用車両の後部座席に座った단장(團長:ダンチョウ)が、自らの手首に着けていた腕輪を撫でていた。腕輪を撫でた團長が不快な心中を隠さなかった。
團長 : この子はもう、ちゃんと食べなさいって言ってるのに。
임 기사(林技師:イムギシ) : ああ、上のお嬢さんですかね。
前で行儀よく運転を続けていた技師が、團長の独り言に近い小言を耳にし、軽い笑いで応じた。團長は内心待ってましたとばかりに愚痴を並べ始めた。
團長 : あの子は、昔も今も面倒くさいと毛先一本動かそうとしないんだから困ったもんだよ。よほどじゃなきゃ貴方が気づくはずもないのにねえ。
林技師 : でも、お仕事だ何だと、お疲れでしょうしね。
團長 : そういうところは、あの子の母親に似なくていいのに。ともかく、着くまでの間、少し目を閉じるから着いたら起こして。
車が大きく横転するようにひっくり返った。分厚い壁にぶつかったかのように、何もなかった公道で突如として車が大きく転覆していた。中型車両が軽々と浮き上がるほどの巨大な衝撃が伝わった。車両下部が丸見えになるほど高く跳ね上がった車が、力なくひっくり返りながら四方へ残骸を撒き散らした。浮き上がった車体から鋭く噴き上がる黒い光の泡が溢れ出た。團長が素早く腕輪を散らして車体を切り裂き、運転手と自分の体を滑らせるように路上へ押し上げた。呆然とした運転手がしばし立ち尽くしている間に、鋭い紙の裂ける音が聞こえてきた。團長の韓服の裾が翻るように広がり、二人の周囲に満ちていた黒い鉄線を四方へ撒き散らした。荒々しい舞に合わせて吹き荒ぶ黒い鉄線が、どこからか飛来した黒い紙を切り裂きながら地面へ落としていった。猛然と降り注いでいた黒い紙が一瞬で収まった。團長がもはや飛んでこなくなった紙片を確認すると、遅れて息を整え舞を収めた。ただの一つの傷も負わなかった團長が、袖口を払ってすべての鉄線を腕輪の中へ呼び戻した。息を整えた團長が地面に落ちていた黒い紙片の一枚を拾い上げ、運転手に歩み寄って穏やかな声をかけた。
團長 : 林技師。車、替え時だって言ってたよね?
林技師 : は、はい……。
團長 : まずは、林技師の携帯でタクシーでも呼ぼうか? 私はみんなに教わったのにどうにもよく分からなくてねえ。
Scene 08.
惟碩 : ふむ。本当に黒い鉄線だったんだな?
しばし深い思案を巡らせた惟碩。辻褄の合わない話だった。自分が見たものと実際に起きていることは、どうにも辻褄が合わなかった。仮に連曦を助けたのが今の團長だとしても、距離的にあり得ない距離だった。すでに團長は西北方面の近くにいるとの知らせだった。團長に奇襲を仕掛けた者たちの位置が西北方面の入口付近だった。自分の位置は中央道の南寄り。車で三時間以上かかる距離だった。二時間も経っていない今の時刻では、辻褄の合わない出来事だった。遺物(イブツ)は一つずつしか存在しない。複製することもできない。同時に二箇所に存在することもできない。惟碩の頭が複雑になった。何から追うべきか、しばし順序を整理しなければならなかった。
惟碩 : ひとまず、分かった。俺も少し休む必要がある。今は。
惟碩が電話を切った後、タクシーの後部座席にもう少し体を預けた。
Scene 09.
身支度を終えた始緣が浴室の外へ歩み出た。すべての水気を拭い、服まで着て出てきた始緣。レギンス姿の始緣が長い髪をタオルで拭う最中にも、すすり泣く声は隠せなかった。悔しかった。悔しいに決まっていた。しかしわざわざ顔に出したくはなかった。今泣き喚いて騒いだところで、取り返しのつかないことだった。助けると言ってくれた人を信じるしかなかった。
始緣 : はあ。シバル。
所姬 : 月曜までは何もないから。ここでぐっすり寝な。ここなら夜に寝ても大丈夫。
始緣 : お前、何でも知ってんの?
所姬 : 知るべきことだけは。
始緣 : ここは何が違うんだよ? なんでここなら夜に寝ていいわけ?
所姬 : オンニが直接呪術(ジュジュツ)をかけてくれたの。あんたの体にまとわせてる細かいもの以外は、簡単にはここへ来られないはず。深く眠れるし。
すすり泣いていた始緣がいくらか落ち着き始めた。大きく溜息をついた始緣。背を向けて座り、絶え間なくすすり泣いていた始緣の膝を掴んだ所姬が、背を向けていた始緣の体をゆっくりと回してやった。壁を向いていた始緣がようやく所姬を見ることができた。腫れ上がった始緣の目を見て、所姬が呆れた笑いを浮かべた。
始緣 : 何がおかしいんだよ。このクソ女が。
所姬を見ながら声を荒らげた始緣の罵りに、所姬が呆れた顔で始緣をたしなめた。
所姬 : おい。なんで関係ないところに当たり散らしてジラルしてんだよ? 私がやれって言ったか??
始緣 : シバル。悪い。あんまりクソみたいでつい。
所姬は微笑を崩さなかった。じっと始緣を観察していた所姬を見ながら、だいぶ緊張を解いた始緣が唐突に脈絡のない疑問を思いつき、所姬に尋ねた。
始緣 : あたしとそっくりだっていうお前の姉ちゃん。あたしと会ったら死ぬとか、そういうやつじゃないだろうな?
所姬 : どこかで見かじったもんだね。
所姬の言葉に、始緣がまだすすり泣き混じりの鼻声を出しながら、続く所姬の言葉に耳を傾けようとした。
所姬 : いい人だよ。あんたみたいに。
始緣 : あたしはいい女じゃないんだけど。人も殺したし……。
所姬 : そうだったら、私を助けもしなかったでしょ。ただの「そうならなければいいのに」って言葉を聞き入れてもくれなかったはず。
始緣が長く溜息をついた。所姬の慰めが始緣に届いたのか、始緣がようやく表情を緩め、自分を穴が開くほど見つめていた所姬と向き合って見つめ返した。
始緣 : 何をそんなにずっと見てんだよ。
所姬 : 十数年飽きるほど見てきた顔なのに、あんたは何が違うんだろうって。
始緣 : 何言ってんのかさっぱり分かんねえ。
所姬が始緣をなだめた。これ以上遅くなる前に始緣を寝かせるつもりなのか、先に立ち上がった所姬が始緣に手を差し出した。始緣がしばし所姬の手を見ていた。所姬の手を取るのにそう長い時間はかからなかった。始緣を力いっぱい引き起こした所姬が、始緣を自分の部屋へ案内した。
所姬 : 新しいベッドではあるけど、寝られないほどひどくはないはず。前もって匂いも抜いといたし。
始緣 : あたし、床でも寝れるし。
所姬 : 黙って、ここにいる間くらいふかふかのとこで寝な。
始緣 : お前も地味に口悪いな。
始緣が所姬に案内された部屋のベッドに大の字に寝転がった。
始緣 : お前は?
所姬 : 私はもうちょっとしたら出かけるから。ほら。
始緣のベッドの脇に電話を置いた。
所姬 : この家にいる間はこの電話使って。私の番号入ってるから。何かあったら電話して。今日中に戻るから。
始緣 : んー。
始緣の疲労が遅れて押し寄せてきた。声から力が抜けていく始緣を見届けた後、所姬が部屋の扉を閉めながら居間へ移った。始緣は髪も乾かせないまま、ぐっすりと眠りについた。所姬が用意した住まいのベッドの上で深い眠りに落ちた始緣。所姬が静かに居間へ出るなり、手にした電話が振動を鳴らした。
所姬 : はい。
しばし言葉を継がない相手。所姬が先に、戸惑っているであろう相手に声をかけた。
所姬 : 知暎オンニの声じゃないから、驚かれましたよね。
意識を失った記憶があった。연희(連曦:ヨンヒ)の傍には、痛ましさと怒りを抱えた경서(慶瑞:ギョンソ)、연수(延秀:ヨンス)が連曦を見守っていた。まだ日の昇らぬ深い夜。連曦が酒の臭いもしない二人を見ながら、ゆるりと体を起こした。ベッドに横たわっていた連曦は、血に汚れた服も着替えられぬまま、意識を手放していた。ベッドの枕元に半ば体を預けていた連曦が、そっと体を起こし切ると、二人を見ながら辛そうに問いかけた。
連曦 : 私が、どうやってここに。
延秀 : ある方が、電話でオンニの居場所を教えてくれたの。
連曦 : ああ……。
延秀 : オンニ、その人が助けてくれたの? 誰なのその人は?
連曦は答えなかった。言葉を惜しむには理由があるのだろうと察した二人は、あえて連曦の答えを迫らなかった。
慶瑞 : そういうのは後で聞くとして、目が覚めたんだからまあ良かったわ。とにかく、その人が、オンニが意識戻したら電話一本入れてくれって。遅くてもいいからって。まあ、マスクと帽子まで被ってて、口が塞がってんのか、一言も喋らないでメモだけ残してったけど。電話してみなよ。
Scene 05.
所姬の口元にこびりついた血を拭い取った。先ほど所姬が始緣を助けたように、始緣が所姬を助けていた。始緣が所姬をソファの上に横たえたまま、濡れタオルを持ってきて血に汚れた顔を拭いてやった。所姬が力いっぱい腕をまっすぐ伸ばし、短い時間深く入っていた眠りを追い払った。所姬の気配に始緣がまず安否を尋ねた。
始緣 : 大丈夫か??
始緣の手にある血の滲んだ濡れタオルを見ながら、所姬が目を静かに閉じたまま軽い笑みを浮かべた。始緣の問いに遅ればせながら答えようと、力ない首をそっと頷かせた所姬。横になっていたソファの上へ体を起こした。
始緣 : おい、それで、何がどうなったんだよ。
所姬 : その前に、
所姬が体を起こした後、始緣を見つめた。血に汚れていた所姬が、始緣に感謝を示した。
所姬 : ありがと。
始緣 : 何が。
怪訝な始緣が所姬をまじまじと見つめ返すと、所姬は始緣の手にある濡れタオルへ視線を落とした。始緣が自分の手の濡れタオルを見て、大したことではないとばかりに、血混じりの洗面器へタオルを置いた。
始緣 : こんなもんで何だってんだよ。
所姬 : 私が怠けてたから辛かったの。遺物(イブツ)が半端物だからって、怠けて練習してたのが問題で。
始緣 : だから、何がどうなったんだっつの。
所姬が軽く溜息をつきながら、助けた方法を落ち着いて説明した。
所姬 : 私はまだ人の思考や感情を上書きできない。それを無理にやると、こういう障りが出るの。数えきれない近隣の人の中から、一番悪い人間を選びに選んだ。数えきれない道の中から。一番悪く生きてきた人間を見つけて、その人に事故を起こさせたの。飲酒状態でひき逃げの容疑がかかってたのに誰にも捕まらなかった奴だったんだけど。今頃は檻の中でしょ。
始緣 : まあ、いいよ。それはいいとして、
始緣もようやく安堵の色を取り戻すと、疲労と共に漠然としていた殺人の後遺症が押し寄せてきた。始緣が脚を投げ出すように伸ばして座ったまま、呆けた目で独り言のように呟いた。始緣の安堵と共に訪れた短い沈黙には、漠然とした恐怖が滲んでいた。居間いっぱいに満ちた深い夜明け前の静寂に、始緣は嘆きのような罵りを吐いた。
始緣 : はあ。シバル。おぞましかったわ。
所姬 : あんたのせいじゃない。
始緣 : 分かってる。分かってても何の足しにもならねえ。
所姬 : あんたが殺したんじゃない。あの女どもが殺させたの。
始緣 : お前は悪い奴すら殺さないように頑張ったじゃねえか。
所姬 : それを助けたのはあんただったし。
始緣は何も言えなかった。複雑な思いが怒涛のように押し寄せたが、浅い知識のせいで始緣は容易く言葉を吐き出せなかった。
所姬 : ありがと。助けてくれて。
始緣 : 一回でいいから。
所姬 : 二回助けてくれたじゃない。二回言わなきゃ。
始緣が所姬の軽い言葉に、気の抜けた笑いを見せた。
始緣 : 絶対、今日くたばると思った。死ぬほどぶん殴られると思ってた。
所姬 : そう。だから出たの。助けるって言ったでしょ。
所姬の淡々とした言葉を聞いた始緣が、軽い吐息と共に口を開いた。
始緣 : まあ、ありがとな。お前も。
Scene 06.
明け方の光と共に家へ入ってきた지영(知暎:ジヨン)。眠そうな顔を隠そうともせず中へ入った知暎が、そのまま居間のソファへ力なく歩いてきた。靴だけ辛うじて玄関あたりに脱ぎ捨てたまま、鬱陶しかったマスクと帽子も被ったままの知暎が、ソファへうつ伏せに体を投げ出した。まだ眩しくない日差しが感じられていた。
知暎 : あーあ。土曜日で良かった。疲れて死にそう。お母さん!
うつ伏せのまま呼んだ声に返事がないと、知暎が面倒くさそうな顔でソファから体を起こし、シンクの上のメモを確認した。のそのそとした足取りと共に、頭に被っていた帽子からまず脱いで雑に床へ放り投げた。
-スープ温めて食べなさい。今日用事があって遅くなるから。所姬には別棟を空けておいたから、連曦と話ができるだろうと伝えてあるわ。ご飯ちゃんと食べなさい!! 面倒だからって寝てばっかりいないで!!-
知暎が帽子を脱ぎ捨てた後、すっきりした頭を素手でがしがしと掻いてから、そのままソファへ再び崩れ落ちるようにうつ伏せた。
知暎 : あーあ。めんどくさ。
手首に着けていた腕輪を撫でた。
Scene 07.
業務用車両の後部座席に座った단장(團長:ダンチョウ)が、自らの手首に着けていた腕輪を撫でていた。腕輪を撫でた團長が不快な心中を隠さなかった。
團長 : この子はもう、ちゃんと食べなさいって言ってるのに。
임 기사(林技師:イムギシ) : ああ、上のお嬢さんですかね。
前で行儀よく運転を続けていた技師が、團長の独り言に近い小言を耳にし、軽い笑いで応じた。團長は内心待ってましたとばかりに愚痴を並べ始めた。
團長 : あの子は、昔も今も面倒くさいと毛先一本動かそうとしないんだから困ったもんだよ。よほどじゃなきゃ貴方が気づくはずもないのにねえ。
林技師 : でも、お仕事だ何だと、お疲れでしょうしね。
團長 : そういうところは、あの子の母親に似なくていいのに。ともかく、着くまでの間、少し目を閉じるから着いたら起こして。
車が大きく横転するようにひっくり返った。分厚い壁にぶつかったかのように、何もなかった公道で突如として車が大きく転覆していた。中型車両が軽々と浮き上がるほどの巨大な衝撃が伝わった。車両下部が丸見えになるほど高く跳ね上がった車が、力なくひっくり返りながら四方へ残骸を撒き散らした。浮き上がった車体から鋭く噴き上がる黒い光の泡が溢れ出た。團長が素早く腕輪を散らして車体を切り裂き、運転手と自分の体を滑らせるように路上へ押し上げた。呆然とした運転手がしばし立ち尽くしている間に、鋭い紙の裂ける音が聞こえてきた。團長の韓服の裾が翻るように広がり、二人の周囲に満ちていた黒い鉄線を四方へ撒き散らした。荒々しい舞に合わせて吹き荒ぶ黒い鉄線が、どこからか飛来した黒い紙を切り裂きながら地面へ落としていった。猛然と降り注いでいた黒い紙が一瞬で収まった。團長がもはや飛んでこなくなった紙片を確認すると、遅れて息を整え舞を収めた。ただの一つの傷も負わなかった團長が、袖口を払ってすべての鉄線を腕輪の中へ呼び戻した。息を整えた團長が地面に落ちていた黒い紙片の一枚を拾い上げ、運転手に歩み寄って穏やかな声をかけた。
團長 : 林技師。車、替え時だって言ってたよね?
林技師 : は、はい……。
團長 : まずは、林技師の携帯でタクシーでも呼ぼうか? 私はみんなに教わったのにどうにもよく分からなくてねえ。
Scene 08.
惟碩 : ふむ。本当に黒い鉄線だったんだな?
しばし深い思案を巡らせた惟碩。辻褄の合わない話だった。自分が見たものと実際に起きていることは、どうにも辻褄が合わなかった。仮に連曦を助けたのが今の團長だとしても、距離的にあり得ない距離だった。すでに團長は西北方面の近くにいるとの知らせだった。團長に奇襲を仕掛けた者たちの位置が西北方面の入口付近だった。自分の位置は中央道の南寄り。車で三時間以上かかる距離だった。二時間も経っていない今の時刻では、辻褄の合わない出来事だった。遺物(イブツ)は一つずつしか存在しない。複製することもできない。同時に二箇所に存在することもできない。惟碩の頭が複雑になった。何から追うべきか、しばし順序を整理しなければならなかった。
惟碩 : ひとまず、分かった。俺も少し休む必要がある。今は。
惟碩が電話を切った後、タクシーの後部座席にもう少し体を預けた。
Scene 09.
身支度を終えた始緣が浴室の外へ歩み出た。すべての水気を拭い、服まで着て出てきた始緣。レギンス姿の始緣が長い髪をタオルで拭う最中にも、すすり泣く声は隠せなかった。悔しかった。悔しいに決まっていた。しかしわざわざ顔に出したくはなかった。今泣き喚いて騒いだところで、取り返しのつかないことだった。助けると言ってくれた人を信じるしかなかった。
始緣 : はあ。シバル。
所姬 : 月曜までは何もないから。ここでぐっすり寝な。ここなら夜に寝ても大丈夫。
始緣 : お前、何でも知ってんの?
所姬 : 知るべきことだけは。
始緣 : ここは何が違うんだよ? なんでここなら夜に寝ていいわけ?
所姬 : オンニが直接呪術(ジュジュツ)をかけてくれたの。あんたの体にまとわせてる細かいもの以外は、簡単にはここへ来られないはず。深く眠れるし。
すすり泣いていた始緣がいくらか落ち着き始めた。大きく溜息をついた始緣。背を向けて座り、絶え間なくすすり泣いていた始緣の膝を掴んだ所姬が、背を向けていた始緣の体をゆっくりと回してやった。壁を向いていた始緣がようやく所姬を見ることができた。腫れ上がった始緣の目を見て、所姬が呆れた笑いを浮かべた。
始緣 : 何がおかしいんだよ。このクソ女が。
所姬を見ながら声を荒らげた始緣の罵りに、所姬が呆れた顔で始緣をたしなめた。
所姬 : おい。なんで関係ないところに当たり散らしてジラルしてんだよ? 私がやれって言ったか??
始緣 : シバル。悪い。あんまりクソみたいでつい。
所姬は微笑を崩さなかった。じっと始緣を観察していた所姬を見ながら、だいぶ緊張を解いた始緣が唐突に脈絡のない疑問を思いつき、所姬に尋ねた。
始緣 : あたしとそっくりだっていうお前の姉ちゃん。あたしと会ったら死ぬとか、そういうやつじゃないだろうな?
所姬 : どこかで見かじったもんだね。
所姬の言葉に、始緣がまだすすり泣き混じりの鼻声を出しながら、続く所姬の言葉に耳を傾けようとした。
所姬 : いい人だよ。あんたみたいに。
始緣 : あたしはいい女じゃないんだけど。人も殺したし……。
所姬 : そうだったら、私を助けもしなかったでしょ。ただの「そうならなければいいのに」って言葉を聞き入れてもくれなかったはず。
始緣が長く溜息をついた。所姬の慰めが始緣に届いたのか、始緣がようやく表情を緩め、自分を穴が開くほど見つめていた所姬と向き合って見つめ返した。
始緣 : 何をそんなにずっと見てんだよ。
所姬 : 十数年飽きるほど見てきた顔なのに、あんたは何が違うんだろうって。
始緣 : 何言ってんのかさっぱり分かんねえ。
所姬が始緣をなだめた。これ以上遅くなる前に始緣を寝かせるつもりなのか、先に立ち上がった所姬が始緣に手を差し出した。始緣がしばし所姬の手を見ていた。所姬の手を取るのにそう長い時間はかからなかった。始緣を力いっぱい引き起こした所姬が、始緣を自分の部屋へ案内した。
所姬 : 新しいベッドではあるけど、寝られないほどひどくはないはず。前もって匂いも抜いといたし。
始緣 : あたし、床でも寝れるし。
所姬 : 黙って、ここにいる間くらいふかふかのとこで寝な。
始緣 : お前も地味に口悪いな。
始緣が所姬に案内された部屋のベッドに大の字に寝転がった。
始緣 : お前は?
所姬 : 私はもうちょっとしたら出かけるから。ほら。
始緣のベッドの脇に電話を置いた。
所姬 : この家にいる間はこの電話使って。私の番号入ってるから。何かあったら電話して。今日中に戻るから。
始緣 : んー。
始緣の疲労が遅れて押し寄せてきた。声から力が抜けていく始緣を見届けた後、所姬が部屋の扉を閉めながら居間へ移った。始緣は髪も乾かせないまま、ぐっすりと眠りについた。所姬が用意した住まいのベッドの上で深い眠りに落ちた始緣。所姬が静かに居間へ出るなり、手にした電話が振動を鳴らした。
所姬 : はい。
しばし言葉を継がない相手。所姬が先に、戸惑っているであろう相手に声をかけた。
所姬 : 知暎オンニの声じゃないから、驚かれましたよね。
