胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 18.

がらんとした駐車場に車を止めた。電話をかけて團長(ダンチョウ)の指示を追加で仰ごうとした連曦(ヨンヒ)が、しばしエンジンを切らぬまま指示を待った。

團長 : 連曦かい。

連曦 : はい。ダンチョウ。返書を受け取りました。今、ホンチョウにいらっしゃるのでしたら、

團長 : いいのよ。明日持ってきてくれて構わないから、今日は疲れたでしょう、帰ってお休みなさい。

連曦 : ありがとうございます。明日、早くにお伺いいたします。

團長 : ぐっすりお休み。

連曦 : はい。ダンチョウもどうかぐっすり。

器を引っ繰り返す音と共に、気品のあった團長の声が、慌てふためく普通の人の声に変わった。

團長 : あらまあ、とにかく、早く帰って休みなさいね。

連曦 : はい、は? はい。

連曦の返事を聞き終えぬまま、團長の電話が切れた。


Scene 19.

熱いチゲの一部が床へ溢れ落ちた。火傷も怪我もしていないようで、慌ただしく後始末を進める以心(イシム)の手が忙しなかった。

以心 : あらまあ、姜知暎は確かに私の娘ねえ。こういうところは、あの子、母親に似なくていいのに。


Scene 20.

知暎 : ヘクシッ!!

うらぶれた工場跡の前に車を止めた後、着替えを済ませた知暎(ジヨン)の後ろ姿。突然のくしゃみを音もなく隠そうともがいていた。


Scene 21.

近くの公営駐車場にきちんと車を収めた後、エンジンを切った途端に電話が騒がしく鳴ってきた。薄く溜息をついてから、連曦(ヨンヒ)が電話を取った。

延秀 : アニ、オンニ。なんでこんな遅いの、さっきホンチョウに電話してみたら早く退庁したって言ってたのに。

連曦が運転席のドアを開け、教旨を手に降りた。

連曦 : ごめん。急に指示が下りてきて。そういえば、どこ? あんたが送ってくれた住所に来たけど。すごくうるさいね。そっち。

延秀 : ただの飲み屋だよ。早く来て。慶瑞オンニが全部酔っ払ったらつまんなくなるから。まだ飲んでないよ。

連曦 : 何か買っていこうか?

延秀 : いいから来て。ここ屋台、つまみ安いから。早く来てよ。お腹すいた。

連曦 : うん。すぐ行くね。

電話を切った後、雲鞋(ウンヘ)を運んで歩き出した。駐車場の出口へ出た連曦が外に出て、四つ辻の信号に足を止めた。歩行者信号が赤い光を灯していた。繁華街に立ち、しばし教旨を見つめた。玄敎(ゲンキョウ)から渡ってきた教旨であるがゆえに、慎重に扱おうとした。連曦にとってはまだ冷える夜気の中、周衣(トゥルマギ)を一枚羽織っていた。薄い周衣の長衫袍(ジャンサンポ)の内へ教旨をしまい入れた。周囲に誰かがそっと近づいてくる気配が感じられたとき、不審を覚えて歩みを一度退かせた連曦。向かい側の信号が青に変わった。不審な接近に気づいた連曦が、四つ辻の信号に合わせて足を急がせたとき、横断歩道を渡りながら連曦と交差していたある人間が、連曦の肩を強くぶつけた。連曦が体勢を崩し、よろめいた。身体を立て直し、ぶつかってきた人間へ視線を向けたとき、ふと胸の片側に生温かい何かが感じられた。歩いていた足をしばし止め、青い韓服の裾先を撫でた連曦。赤い血が手に付いていた。連曦がその場に立ち尽くし、何もできずにただ立っている間に、信号を無視して交差点へ進入したあるワゴン車の中へ引きずり込まれた後には、連曦の痕跡は四つ辻のどこにも見つけることができなかった。


Scene 22.

連曦を慌ただしく乗せた数名の人間が、連曦を急いで縛り上げた。何も見えぬよう被せた袋の中から連曦の悲鳴が聞こえていたが、連曦の暴れようを抑えるのも容易くはなかった。しかし予想していた以上に困難な仕事ではなかった。誰かが渡していたあの縄を使うと、連曦が見せていた頑強な抵抗がゆっくりと鎮まった。さほど長い道のりを走らなかったワゴン車が、やがて目的地に着いたらしく速度を落とした。ゆっくりと止まった車両から人間たちが降りてきた。ぐったりと見える連曦を担ぎ上げて車から降ろし、ある倉庫の柱に括りつけようとした手つき。禁繩(クムズル)が連曦の手首から外れるや否や、連曦は咄嗟に白砂(フィンモレ)を起こし、自分を支えていた人間を遠くへ投げ飛ばした。袋を素早く引き剥がした連曦が、血の流れ出る胸元を片手で押さえたまま、自分を狙う大勢の人間に敵意を向けた。見たこともない人間たちだった。この者たちは團とは無関係な普通の人間に違いなかった。連曦が自らの傷を砂で急ぎ止血した後、向かってくる人間たちを迎え撃とうとした。足で蹴り起こした砂の塊をそのまま軽く押し出し、駆け寄ってきた人間たちの目へ正確に散らした。目に砂が入った人間たちが狼狽する隙を突き、連曦が素手で一人の首を正確に打ち据えた。死にはしないだろうが、しばらく意識を失わせるには十分な衝撃だった。騒がしい廃工場の入り口から、一人が入ってきた。連曦のものと似た周衣を纏った気配。連曦が惟碩(ユイセキ)を見て、しばし言葉を失ったように呆然と立ち尽くしていたとき、二人の手に握られた刃が、連曦の背を正確に貫いた。


Scene 23.

夜へと移りゆこうとしていた。記された場所に着いた頃には、すでにかなり遅い時刻だった。この時間に人が歩く場所ではなかった。遅刻ではなかったが、この時間にこんな場所に人がいるはずもなかった。しかし、いると言われていた。始緣(シヨン)がタクシーから降りた後、太腿に巻いた銃を抜いて確かめた。撃ち方や基本的な格闘の仕方が、始緣の頭の中に浮かび上がってきていた。ひどく不快な臭いを放つ下水口が目に映った。大きな排出口の前で始緣が自分の身なりとヒールをちらりと見下ろし、着ていた外套を脱いで地面に置いた。見るだけで暑く、臭う排出口だった。人の背丈よりゆうに大きい入り口の前で、始緣がしばし躊躇っていたとき、奥深くから人の声が聞こえてきた。ちゃんと辿り着いたという安堵よりも、いったいこの時間に中で何をしているのかと苛立つ方が先だった。始緣が中へ足を踏み入れた。大股で入り込んだ下水路のある区域にまで辿り着いたとき、始緣が顔をしかめて鼻を手で塞いだ。もはや澄んだ空気など届かぬほどの深い下水道だった。携帯で前方を照らしながら進んだが、中から聞こえていた声の気配は近づく気配を見せなかった。これ以上進めぬところにまで行き着いた。溢れんばかりの汚物が、行き止まりに至った通路で、始緣をしばし躊躇わせた。このまま入れば、次の場所へ向かう気力がなくなる自信があった。人間相手の汚い仕事は耐えられても、場所や本物の汚物がある汚さは、まるで別の領域だった。始緣がしばし躊躇い、何もできずにいる間に、深い下水道から人が一人歩み出てきた。防塵服を纏い中を見回していたある気配が、場にそぐわぬ身なりで通路に立っている始緣を見た。

有善 : ここに来てはいけません。ここは。

始緣 : いいから。外して。それ。

有善 : は?

顔全体を覆った防毒マスクに、始緣が顔を確かめようとした。始緣が携帯を確認していた。女の防塵服には警察捜査課を示す文字が刻まれていた。巻き込まれるにしてもこんな巻き込まれ方は想定していなかったが、ただ始緣は消せとしか聞かされていなかった。防塵服を着た女がしばし理解が追いつかぬというふうに、そのまま立って始緣を追い出そうとした。

有善 : だから、ここに来てはいけないと言っているでしょう! ここは事件現場ですから一般の方が来ては。

始緣 : あんたはなんでここにいるわけ。

防塵服を着た女が首に掛けた身分証を始緣に見せた。

有善 : 私、今日は本来お休みだったんですけど、休めなくてここでゴミ漁ってるんですよ? ちょっと疲れてるんで、お願いしますね。私の指示に。

身分証を確かめもしなかった始緣が、いきなり太腿に巻いた銃を抜き、女のマスクへ向けた。むしろ幸いだと思った。防毒マスク級のマスクを着けていたため、女の目がよく見えなかった。安心して撃てそうだった。始緣がいくらか覚束ない格好で女の顔の正面に銃を構えた。女が両手をそっと上げた。しかし始緣の意に素直に従う気配ではなかった。始緣に向かって女がゆっくりと歩み寄った。落ち着けと言うように、慎重に刺激しまいと努める女の歩みに、むしろ始緣の方が後退っていた。

有善 : 銃の持ち方。間違ってますよ。

始緣 : あんたに関係ない。

有善 : このままお帰りになれば、見なかったことにします。正直、明かりのせいであなたの顔もよく見えませんし。

始緣 : あんたに関係ないっつってんの!

防塵服を着た女のマスクに、始緣の銃口が触れた。女が素早く始緣の手を掴み取り、床へ叩きつけながら銃を遠くへ弾き飛ばした。間一髪で撃発された弾が女のマスクを掠めて過ぎたとき、女も、始緣も、驚きの色を隠せなかった。銃が落ちて床のどこかへ滑っていったとき、女が始緣の脚を払い、汚れた床の上へ転がした後、素早く外へ駆け出していった。始緣が慌てて銃を探し当て、手に握ったまま外へ出た女を追った。先に外へ出た女が防塵服を外で手早く脱いだ。身分の通り、女の腰にも銃が挿さっていた。排水口の脇に出て、始緣が外へ出てくるのを息を殺して待った。このまま逃げれば地位にそぐわぬことだと思った。着任してまだ間もなく、汚れ仕事を一手に引き受けながら辛うじて認められた自分だった。息を整え、ヒールが近づく音を待った。外へ出てきた始緣の背に、自ら先に銃を突きつけた。銃口の冷たさが始緣の後頭部に触れた。

始緣 : あ。シバル。マジで。

有善 : 銃を下ろして。

女の懐から手錠が一つ現れた。始緣は断じて銃を下ろさなかった。女は自分の知る教本通りに動こうとしたが、始緣が女の読んだ本の通りにするはずがなかった。始緣が身を翻して女を見据えた。始緣の視界に広がっていた全ての天然色が一瞬で場を離れた。歪んだ色が始緣の目に流れ込み、始緣が睨みつけた人間の姿が、馴染み深い憎悪の対象に変わっていた。始緣が理性を失い、嘲り笑い始めた。

始緣 : このシバル女。見ろよ?

有善 : は?

駆け出しの警察官であった有善が、飛びかかってきた始緣へ咄嗟に銃口を動かし、始緣の膝を撃ち抜いた。黑水(コムンムル)が飛び散ったが、始緣は意にも介さなかった。よろめきもしなかった身体をそのまま投げつけ、有善を床へ叩き伏せた。有善が握っていた銃を奪う考えすら持たなかった始緣が、そのまま自らの銃口を有善の手首に押し当て、一切の躊躇なく引き金を引いた。手首の上に繋がっているべき手が、丸ごと消え失せると、有善が悲鳴を上げた。始緣の狂気を帯びた嘲笑が恐怖を呼び起こした。殺すべき人間の顔が露わになった途端に変貌した始緣の姿だった。始緣が灼熱する銃口を有善の額へ押し当てた。肉が焼け焦げていった。満足のゆく感覚だった。

始緣 : 祈れ。シバル女が。

有善 : 何を、何をしているの!!

単発の銃声が鳴り響いた。候補者(コウホシャ)の額を正確に撃ち抜いた始緣が立ち上がりながら、自らの弾が尽きるまで女の身体をぼろ切れに変えていった。呆けた顔に満足げな嘲笑を湛えていた。笑っていたが、笑えてはいなかった。嘲り笑っていた目元から、力なく涙が滲み始めた。握っていた銃を力なく下ろした始緣が、踵を返した。