胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 13.

惟碩(ユイセキ)が束になった書類を床に下ろした。手つきはそれほど神経質ではなかったが、表情はどうにも何かを不快に思っている気色だった。不快な心中を隠さず、重ねてあった別の書類を開いて目を通した。そんな惟碩の執務室の入口に粹廷が腕を組んで立っていた。濃く差し込む夕焼けが惟碩の背の向こうから強く射し込んでいた。部屋中が黄味がかって熟れていた。

粹廷 : エアコンもそろそろ切れるけど、帰らないの?

粹廷がいたが意に介さなかっただけだった。惟碩は粹廷の気配に溜め息をつき、積まれた書類の上へ手を載せた。

惟碩 : なにか、辻褄の合わない書類が多くてな。特に。

下ろしていた書類の中から、一番上にある薄い書類を取り出して粹廷に突きつけた。

粹廷 : 備品の書類じゃない。なに?

惟碩 : 一号室の欄を見てみろ。

粹廷 : えっ。何これ。

惟碩 : どの金がどう漏れたのかは分からんが、これだけの額を使っておいて経費処理されたら困るだろう。それに。見たところ。

粹廷 : そうね。私も初めて見るわ。私が決裁したこともない。

惟碩 : ダンチョウ独自の運用だろう。追えるか?

粹廷 : ちょうど、最近周りの目が尋常じゃなくて。気をつけないと。

惟碩 : なら一旦、お前は知らない振りをしていろ。こちらで少し調べるから。それはそうと、何の用だ?

粹廷 : さっき、朝にくだらない事がちょっとあって。

惟碩 : ああ。永敏か。

粹廷 : 知ってたの?

惟碩 : 息巻いて乗り込んできたよ。くだらない奴が。

粹廷 : まあでも私くらいはちゃんと作れるようになったから、まだましだったわ。危うく本当に大事になるところだった。二人がかりで来るとは思わなかったし。

惟碩 : 当面は身を潜めろ。シュウケンカンチョウにも伝えておけ。

粹廷 : 直接言えばいいじゃない。

惟碩が書類を裏返して別の部分を確認しながら続けた。

惟碩 : あまり頻繁に会うのも誤解を招きやすい。お前は勝手に夜に動いているだろう。俺がそんなことをしたら本当に噂が立つぞ。くだらない女どもの間で。

粹廷 : むしろその方が目眩ましにちょうどいいんじゃない?

惟碩 : お前はどのみち噂が立っているが、俺までそうなる必要があるか?

粹廷が意味深なあざ笑いを残した。踵を返して出ようとした時、肝心な言葉が遅れて浮かんだ粹廷が歩みを止めた。

粹廷 : ああ。今日、始めるわ。すぐに。

惟碩 : 準備はできているのか?

粹廷 : まあまあね。

惟碩 : まあ、今は将棋の駒を盤の上に並べているだけだからな。

粹廷 : そうね。みんな将棋の駒の分際だし。

惟碩 : 逃亡者は。うまく起こしたか?

粹廷 : やりかけてた筋がどこに行くってのよ。無傷よ。喜んでたわ。追われる心配がないって。ハセイヒンは汚染されてもう使えないけど、大して興味もなさそうだったし。

惟碩 : しっかり隠しておけ。まだ、二つの死体とも公にすべき時ではないからな。

粹廷が頷きながら、止めていた歩みをゆっくりと進めた。

粹廷 : ええ。

惟碩 : 行ってよく見届けてこい。手遅れになる前に。俺は今からでもせっせとやらないと、今日中には終わりそうにない。

粹廷 : お疲れ。先に行くわね。


Scene 14.

團長(ダンチョウ)の居処へ呼ばれた連曦(ヨンヒ)が、慎重に身を正しながら座布団の上へ腰を落ち着けた。西に傾いた陽が、窓の向こうから押し寄せてきていた。

團長 : 連曦や、冷たいお茶を一杯いかがかな。

連曦 : いえ。先ほどいただいてまいりました。

團長 : 退庁の直前に呼びつけて、すまないね。

帳の向こうから零れる團長の落ち着いた声に、連曦が頭をもう少しだけ深く下げた。

連曦 : いえ。

團長 : まだ、心が落ち着かないようだね。

慎ましい気遣いは、連曦がまだ口にできずにいる本音を隠し通させなかった。連曦は答えを返せなかった。

團長 : 構わないから、答えるのが辛ければ答えなくてよいのだよ。

連曦 : 申し訳ございません。

團長 : 退庁の直前に呼んだのは、これを。

帳の裾をそっと持ち上げ、連曦へ卷子(トゥルマリ)を一つ差し出した。連曦は無言のまま、卷子を恭しく受け取った。

團長 : 私が伝えた場所へ行き、この教旨を届けてほしいのだよ。信じられる者は、やはり連曦、お前だけでね。私は人生を誤ったのか、信じられる者が多くはないね。

連曦がさらに深く頭を下げた。

連曦 : いえ。ダンチョウにおかれましては、十分に私どもへ。

團長 : 頼むよ。会う者の正体は問わず、最も高い座にいる方へ、静かに渡して帰ってくればよい。

連曦 : 承知いたしました。

團長 : 西北の水香洞三番地へ行けば、会えるだろう。

連曦がじっと何かを考えた。遅れず浮かんだ何かを、連曦は團長へ問い返さずにはいられなかった。

連曦 : 水香洞と仰いますのは、

長く問うことを望まぬ團長の制止に、連曦は問いを継がなかった。連曦が腰を折って挨拶を送った後、席を離れた。


Scene 15.

運転席に座ったまま、大きく口を開けて居眠りしていた気配。鳴り出した電話のベルに、慌てて涎を拭いながら身を起こした。

知暎 : ん?ん??何。

所姬 : 知暎オンニまた寝たの??

知暎 : あー、このまま退勤したら私、交通事故起こすわ。多分。

所姬 : 悪いんだけど、オンニ。私が教える場所に行って。急いで。

知暎 : あー、あのクソ野郎は疲れも知らないわけ? 私が今日夜勤だったらどうするつもりよ。あー。クソが本当に。もう。

知暎が愚痴を零す気配を最後に、居眠りしていた身体を起こす暇もなく、いきなりエンジンをかけた。辛うじて押し寄せた欠伸を退けた後、バックミラーを見ながら髪だけを適当に整えた知暎が、急き込んだ表情で車を飛ばし、駐車場を抜け出していった。


Scene 16.

團(ダン)の本廳(ホンチョウ)からそう遠くない場所ではあった。運転席の窓を開け、自らの白砂(フィンモレ)を散らしていた手を収めた。ここまで来れば、誰かが自分を追えるはずもないと踏んだ。静寂に沈む狭い公道に、連曦(ヨンヒ)と連曦の車両の痕跡は見当たらなかった。しかし連曦は自分の車を駆っていた。狭い公道を抜け、街灯さえ届かぬある深い森の前で車両を止めた。緊張を隠しきれない連曦が、團長の卷子(トゥルマリ)を手に持ち、ゆっくりと運転席から降りてきた。目の前には、大きなトッケビの形を鉄で鋳て飾りとして打ち込んだ木の門が据えられていた。連曦の気配を知らぬはずもない門番が、望楼から見下ろし、緊張した面持ちで連曦を警戒した。連曦が教旨を手に握ったまま、両手を掲げて戦う意図がないことを示した。

主教 : 退け。

門番の警戒を退けた、しわがれた声。大きな門が開くと、しわがれた声の主ではなく、連曦と同年頃の別の女が外へ歩み出てきた。

晶善 : 一従長(イルジョンジャン)、尹晶善(ユン・ジョンソン)と申します。渡す物を渡してお帰りなさい。ここは、あなたがいるべき場所では。

連曦は手を上げたまま、自らの意を曲げなかった。固い意志ではあったが、敵意は込めていなかった。

連曦 : 申し訳ございません。私は、シュキョウへ直接お渡しせねばならぬとの指示を受けております。返書を持ち帰らねばなりません。

晶善 : 我々はあなた方を信用しておりません。ならばこのままお帰りください。受け取る物など、興味はございません。

連曦 : そうはまいりません。私は、私が受けた務めを果たします。

晶善の手から小さな刀が抜かれた。肘ほどの小刀だった。しかし、晶善の手捌きはさほど鋭くなかった。まだ熟れきらない印象だった。連曦は屈せずその場を守った。

晶善 : 失せろと言っているでしょう。

連曦の首元へ刃先をそっと押し当てた。連曦は最後まで場を譲らなかった。晶善がどうにもならぬと見て、再び刀を振るった。連曦はこの一撃を素手では受けきれぬと見た。晶善の手は連曦の目の真正面を辛うじて掠めるように過ぎた。連曦が足を僅かに後ろへ引き、腰を反らして晶善の刀を容易くいなした。連曦の髪を留めたキセルと装飾品が揺れて鳴った。白砂を起こし、舞の構えを整えた。

主教 : 来るべき者が来たのだな。確かめたゆえ、もうよい。退がれ。

主教が自ら歩みを進めた。主教の指図に従い、晶善が場を退いた。連曦もまた彼女らの意図を遅れて悟り、手に漂わせていた白砂を収め、再び礼を正した。いつの間にか連曦の前に歩み寄った主教へ、連曦が両手で恭しく團長の教旨を差し出した。

連曦 : お騒がせいたしました。シュキョウ。

連曦の恭しい手つきと端正な声を受けた後、主教が小さな声で連曦の存在を改めて認めた。

主教 : お前が、あの子か。成淵の長女よ。

主教の言葉にも連曦は容易く答えを返せなかった。一言一言が慎重でなければならなかったゆえ、緊張を緩めぬ連曦は腰を折ったまま、黙々と固められた礼を示すばかりだった。受け取った卷子には何の文字もなかった。しかし主教は空の教旨を目で辿っていた。たしかに内容があるように見えた。

主教 : お前たちの團長の性格からして、誰でも寄越すはずがないことは、お前が最もよく知っておろう。

連曦は主教の苦言に言葉を惜しんだ。争いを起こしたのは今だけで十分だった。軽率な言葉でこれ以上関係を損ねたくはなかった。

主教 : おそらく、最後の欠片であろう。すでに全ての座は定まっておるゆえに。

主教が手を差し出すと、晶善が懐にあった黒い筆を渡した。黑水(コムンムル)を含んだ筆であったが、教旨の上に記される文字は何もなかった。主教がしばし晶善の助けを受け、教旨の上へ文を書き下ろしていった。何も見えぬ教旨を晶善が巻き、連曦へ再び手渡した。

主教 : 参られよ。長く留め置くつもりはないゆえ。

連曦が深く腰を折った。正門に立つ主教と晶善が、連曦の車両が去っていく姿を最後まで見届けた。

晶善 : シュキョウ。では。

主教 : お前も準備に入れ。お前の導きが要るであろうからな。

晶善 : 承知いたしました。

主教がしばし晶善を見つめた。長いこと迷った言葉だった。あるいは自らが抱いてきた全ての過程を否定しかねない言葉であったゆえに、容易く出せなかった言葉だった。しかし真心だった。だから晶善にだけ届くよう、小さく呟いた。

主教 : お前だけは、被らずにいてほしかったのだが。

晶善 : 私は、大丈夫です。私を育ててくださったご恩を返せるのであれば、何でもいたせます。

主教が晶善の小さな身体を深く抱きしめた。

主教 : すまないな。


Scene 17.

始緣(シヨン)がまだ馴染みきらぬ銃とベルトを腰に巻いた。見せびらかして歩くわけにもいかず、暑さにもかかわらず長い外套を羽織るほかなかった。全ての化粧を終えた後、しばし鏡の前に座っていた。見慣れぬ姿ではなかった。もう少し血の気がなく、もう少し痩けた姿を除けば、いつも鏡で見ることのできたありふれた姿だった。しかし始緣自身が見てきた自信に満ちた姿ではなかった。理由のない怯えがたっぷりと染みついていて、今日はどんな恐怖と向き合うのかと怯える愚か者たちと大して変わらなかった。所姬(ソヒ)と共に買ってきた化粧台だった。その上に今しがた封を切ったばかりの化粧品が並んでいた。死んだという事実が、実のところまだ実感できてはいなかった。幾重もの拷問の果てに犯した殺人は、ただ繰り返された一つの記憶のようでしかなかった。解けた髪をきつく結い上げた。持ち込んでいた卷子に記された日付と時刻。そして場所まで確認した後、忘れかねない己の身を振り返り、該当部分の写真を撮って携帯を懐に収めた。支度を終えた始緣が扉を開けて出た。居間には、いつ入ってきたのかもわからない粹廷(スジョン)がいた。しかし始緣は驚かなかった。思いのほか変わった部屋の中を見回していた粹廷の方がむしろ、かなり驚いた色を露わにした。

粹廷 : 足りなくはなかったみたいね。随分いろいろ増えたじゃない。

粹廷の嫌味に始緣は何も言わなかった。始緣の無視に粹廷が嘲笑を含んだまま、内懐から小さな瓢箪二つと、小さな珠の塊が入った袋を取り出した。始緣の長い外套の懐へねじ込んだ後、始緣の鼻先で始緣の顎をそっと持ち上げた。

粹廷 : 殺した後、死んだ血をこの瓶の中に入れて持ってきなさい。死んだか確かめるためでもあるし、周りの人間から死者の存在を消すには、あんたが持ち帰った血で辿らなきゃならないから。最後に、死体の上にこの珠を投げなさい。青く焼け爛れるわ。そこまで終わって、あんたの仕事が終わったということ。忘れないで。

粹廷が警告を送りながら始緣の懐へ押し込んだ包み。始緣が面倒くさそうに粹廷の手を叩き落とした後、懐に入っていた包みを取り出してじっと見つめた。

粹廷 : あんたのヘマで私が面倒を被るのは許さない。あんたは犬なのよ。金を渡せば尻尾を振るしかない。

始緣は粹廷の冷たい威圧に何の素振りも見せなかった。悔しかったが、粹廷には何をしても通じまいという漠然とした確信と恐れも存在していた。自分を引きずり出した粹廷の持つ高圧は、思った以上に始緣を強く押さえつけていた。そんな始緣を粹廷が知らぬはずもなかった。粹廷が始緣の悔しげな表情に満足したように、軽い微笑を浮かべた。始緣の唇の傍へ粹廷が自らの唇を近く押し寄せた。始緣はそんな粹廷の嘲弄じみた意図も、粹廷という人間そのものも気に入らなかった。顔を背けて粹廷の吐息を拒んだとき、粹廷が始緣の顎を離し、少し距離を置いた。そこでようやく始緣の悪態が飛び出した。

始緣 : いい加減にしろ。シバル女が。

粹廷が明るい笑みで始緣の肩を叩いた。空のホルスターへ粹廷から渡された銃を押し込み、外套を着直した。

粹廷 : 惹かれるわね。その気性も。そのツラも。

始緣が大したことでもなさそうな顔で粹廷の手を払い、言葉を続けた。

始緣 : 私はヤる前に金もらうから。やりたいの? 金たんまり持ってきな。あんたは端金じゃ無理だろうね。死ぬほど嫌いなタイプだから。

始緣が席を立った。大股で歩く始緣が靴箱から苛立たしげに新しい靴を取り出して履き、出て行った後、扉を荒々しく叩きつけた。