Scene 04.
연희(連曦:ヨンヒ)がハンドルを握ったまま躊躇っていた。何度も死にかけたが、今回ほど深く残ったことはなかった。同じ人に助けられながらも、その人の正体を知ることすらできず、いつまでも死を傍らに置いて暮らすわけにもいかなかった。死はより一層巧妙だった。巧妙に押し寄せる死は、息をするだけで自分に覆い被さってきそうだった。それでも耐えていた。연수(延秀:ヨンス)のことも思い浮かんだが、自分に指輪を遺し遺志を託した母の意思もあった。広々とした본청(本廳:ホンチョウ)の駐車場に車を停めた連曦が、とても車から降りることができないまま、しばらく運転席に座って思案を続けていた。運転席の窓が叩かれた。見慣れた姿が、思わず驚いた連曦を安心させた。
경서(慶瑞:ギョンソ) : ショチョウ、何してるんですか? こんなところで。
連曦が溜め息をつき、揺れていた胸の内を鎮めてから、薄く笑みを浮かべ、車のドアを開けた。美しい襪の足を、花靴の一種である雲鞋へ載せ、地面へそっと足を下ろした。連曦が車から降り立った後、慶瑞の問いに答えを返した。
連曦 : ちょっと、考え事してただけ。
慶瑞 : また一人でしけた面してたでしょ。
連曦 : いつから見てたの?
慶瑞 : そんな経ってないよ。
희진(熙珍:ヒジン)が慶瑞と連曦の間へ歩み寄ってきた。二人の間に立った熙珍が連曦の容態をそっと尋ねた。
熙珍 : 大丈夫? 少しは?
熙珍のすべてを信じることはできなかった。腹の底がまだ読めない連曦が、警戒するように言葉を惜しみながら頷いた。そんな熙珍の問いに、慶瑞が連曦をちらりと見た。
慶瑞 : なに。どっか具合悪かったの?
連曦 : ちょっと、風邪気味だっただけ。
慶瑞 : そんだけ痩せてりゃしょっちゅう体壊すでしょ。一人だけどんどん痩せてくし。
熙珍 : 大丈夫ならいいじゃない。行こう。遅れるよ。
熙珍が先に立って慶瑞と連曦を引き連れ、執務室へ歩を進めた。
Scene 05.
粹廷(スジョン)から電話がかかってきた。所姬(ソヒ)がしばし身を洗い、出かける支度で席を外している間に、始緣(シヨン)のポケットにあった電話が聞き慣れない着信音を鳴らした。内ポケットを探って電話を取り出した始緣が、何も答えずに出た。
粹廷 : どう。殺してみた感想は。
粹廷の問いには嘲りと詰りが上品に混ざっていた。始緣は答えないまま、居間に静かに座り、電話を掴んだ手に力を込めていった。始緣の唇が妙に蠢き、あざ笑うように笑みを滲ませた。見えるはずもなく、聞こえるはずもなかったが、始緣は口元に含んだあざ笑いを存分に湛えていた。正気を少しでも取り戻した以上、何としても負けたくなかった。
粹廷 : 練習代よ。電話に入ってるカードで振り込んだから、足りないものがあれば買って使いなさい。
始緣の耳元で小さな通知音が鳴った。しかし確認はしなかった。
粹廷 : これからは、私が言うことをちゃんとやればいいの。たぶん、人を殺す仕事がほとんど全部でしょうけど。うまく処理しなさい。金は不足なく渡すから。
始緣 : 殺してやる。あんたも。
粹廷 : ええ。分かったわ。
始緣に最後まで嫌味を返すように、粹廷は始緣の警告にも落ち着いた声で答えた。始緣が力なく電話を下ろし、床へ弱々しく軽く放り投げた。洗っている最中に聞こえたはずのない通話の中身をすべて知っているかのように、所姬が外へ出てくるなり、濡れた髪をタオルで巻き上げながら始緣に何でもないように言った。
所姬 : 今はダメ。あんたが負けるから。
始緣 : 全部聞こえてたのか。
所姬 : 生きている人の道を視る人間だから。あんたの道は分からなくても、あの人の道は分かる。会えば視える。私がその気になった以上はね。だから今日は来られないから外に出ようって言ったの。でも、
所姬が洗い上がった体を整えながら、居間の食卓に腰を下ろし、始緣をしばし見つめた。
所姬 : もうすぐ、誰にも、あんたを傷つけることはできなくなる。
Scene 06.
薄暗い瓦屋根の間の路地で粹廷が電話を切った後、軽く溜め息をついた。そんな粹廷のそばへ미연(美延:ミヨン)が정현(正賢:ジョンヒョン)とともに歩み寄り、粹廷に軽く腰を折った。粹廷も電話を手に握ったまま、二人の挨拶を受け返した。
美延 : ずいぶん探しました。サクシ。
粹廷 : どのようなご用件で。
正賢 : ダンチョウはまだいらしていないようですね。
粹廷 : そうですね。もう平日が始まるというのに、お知らせもありません。じきにいらっしゃるでしょう。
美延 : では、少し私たちとお話しませんか。
粹廷が美延と正賢の気配を察し、口元に妙な微笑を漏らした。
粹廷 : すぐいらっしゃるかもしれません。週間朝礼の準備もありますし。代わっていただけるなら、まあ、お断りはしませんが。
正賢 : いいものを、一人で独り占めしようとするのは、昔も今も変わらなくて助かるよ。見破りやすくてね。
正賢が手を軽く振るい、狭い瓦屋根の間の路地を、薄い한지(韓紙)で囲うように塞いだ。宙から撒き散らされた薄く白い紙が瞬く間に四方を取り巻き、それまでとは打って変わった静寂な空気を内に閉じ込めた。正賢がゆったりと歩み寄った。依然として余裕の表情で二人に対する粹廷のすぐ前で立ち止まった正賢が、かなりの長身の粹廷をむしろ見下ろした。狭い路地の間に、鋭い殺意が互いへ向かっていた。その様を見た粹廷が、引かずに주술(呪術:ジュジュツ)を展開した正賢に向けて、丁寧な声で対抗しようとした。
粹廷 : 内部の者同士、呪術を使うことは許されていません。律法に明確に、
丁重だった粹廷の切迫した仲裁を正賢が断ち切り、己の意を伝えた。
正賢 : 少し前に、자격루(自擊漏:チャギョンヌ)が狂ったそうだな。昨日も。
礼を弁えない正賢の短い物言いに、粹廷もまとっていた礼を収め、嘲り混じりの答えを短い言葉で返した。
粹廷 : ああ、そう。誰も報告しなかったから私は知らなかったわ。
粹廷の淡々とした気色に、美延があざ笑いながら粹廷の言い分を取るに足らないものとして退けようとした。手に두루마리(卷子:トゥルマリ)に巻かれた教旨を一つ持ち、ちらつかせるように粹廷へ見せつけた。粹廷が美延の手にある教旨をしばし見つめていると、美延がにやつきながら教旨をポケットへ仕舞った。
美延 : まさか。ジムチョウに直接報告しましたよ。私が直々に。たぶんダンチョウも知ってるんじゃないですか?
粹廷 : 言葉遣いが随分短いわね? 「ダンチョウ」? 背が短いからって言葉まで短くされちゃ困るわ。
美延が粹廷の嫌味に逆上して顔を強張らせかけると、正賢が進み出て美延の言葉を代わりに継いだ。
正賢 : いいじゃないか、私たちだけなんだから。王だって不在の時は悪口を言われるもんだ。たかがダンチョウがどうだってんだ。
正賢がもう少し詰め寄り、腰をわずかに屈めてから、粹廷の耳元へ小さく囁いた。
正賢 : お前が持ち出したんだろ?
粹廷 : 何のことだかさっぱり分からないけど。
正賢 : 삼도천(三途川:サムドチョン)の水で、俺たちが巻き戻した時間を記録する自擊漏が、役目を果たせなくなる瞬間はいつだ?
粹廷 : 門が開いた時?
正賢 : それから?
粹廷 : 誰かがその三途川の水を持ち出して死を欺いた時?
正賢の追及に問いで返す粹廷が片腹痛かった。美延が間に割り込み、粹廷をさらに追い詰めようとした。
美延 : よくご存知で。先日と昨日、三途川の水を管理するうちのダイミンカンの水門番が変死体で見つかったそうですよ。下っ端の職員が死んだ程度のことですから、黙って記憶を書き換えるのは難しくなかったけど、二度の死から溢れ出た三途川の水で新たに満たされていたんです。それをちょうど私が収拾したってわけ。
粹廷 : 自分の仕事したわね。偉いわ。それで? 褒めてほしいの、って——
粹廷の言葉が続かなかった。一瞬にして粹廷の体を覆い尽くした白い紙が、粹廷を強く締め上げ、繭のように成した。土の地面へ力なく崩れ落ちた粹廷の体を、正賢が足で軽くめくるように押した。周囲と空間を隔てるために張られていた紙片が静まり消えた。周囲で待ち構えていた正賢の一行へ素っ気ない顎の動きで合図すると、正賢の一行が近づき、白い紙に包まれた粹廷をどこかへ引きずっていった。美延が正賢に静かな声で尋ねた。
美延 : ダンチョウが来たらどうするつもり?
正賢 : 本当のことを言えなくすればいいだけだ、記憶を少しこんがらがせておけば何も言えやしないだろ。まともに思い出せるものがあるかね。
美延 : まだ私たち二人だけが知ってるの?
正賢 : まあ、俺たちだってちゃんと分かってるわけじゃない。ちゃんと分かろうとしてるんだ。後で永敏オンニも来る。とりあえず行こう。
Scene 07.
近くはない公営駐車場に停めてある所姬(ソヒ)の車へ、所姬とともに足を運んだ始緣(シヨン)。二日間に起きた出来事にはまだ順応しようもなく、なかなか表情のほぐれない始緣が、自分より背の低い所姬の後をとぼとぼとついて歩いていた。所姬がかなり高いヒールを履いてコツコツと足を運ぶ間、始緣は別の新しい服を着てスニーカーを履いた姿で、あちこち様子を窺いながらおぼつかなく所姬のあとを追った。ふと、始緣が所姬のヒールが気になったのか、車にたどり着いてから問いを投げた。
始緣 : ねえ。てか、買い物行くんでしょ。靴めちゃ高いね。しんどくない?
所姬 : 身長の話に敏感だから黙って乗りな。
所姬が自分の車の運転席のドアを開けながら始緣にぶっきらぼうに放った言葉に、始緣が唇をひくつかせながら独り言を呟いた。
始緣 : べつに、低い背でもないくせに。
助手席のドアを開けてやった所姬。始緣が小さくないSUVに身を乗せた途端、助手席のグローブボックスに挟まった写真が一枚目に入った。黙って写真をぼんやりと見つめていた始緣が、動揺の色を隠せなかった。エンジンをかけた所姬が遅れて写真の正体を確認し、少し慌てて写真を抜き取りグローブボックスの中へ押し込んだ。
始緣 : 今の。
所姬 : そう。私が言った私のオンニだよ。私たちを育ててくれた人と一緒に。
始緣がしばし言葉を継がなかった。所姬の一文にはいくつもの意味が含まれていた。それ以上何も言えなくなった始緣が、黙って所姬の小言を聞いた。
所姬 : ベル鳴ったらうるさいからシートベルトしなよ。
始緣が遅れて反応しシートベルトを締めた。所姬が自然に車を走らせその場を離れる頃、車内には静けさが漂っていた。
始緣 : いい車だね。
所姬 : 卒業祝いにもらったの。
始緣 : ああ。大学?
所姬 : うん。
始緣 : いいね。
所姬 : プレゼントは良かった。学校は最悪だったけど。ていうか、酷かった。
始緣 : なんで。
所姬 : 政治ごっこばっかやってるクソ女ども、最悪だったから。
始緣 : ああ。それ。学のある女も同じなんだね。
所姬 : いい子がいなかったわけじゃないけど、クソな女も多かった。
始緣 : どこも同じでしょ。
所姬 : あんたは。
始緣 : 私はもともと変態にもたくさん当たってきた仕事だからさ。仕事も最悪だったし一緒にいる女もほとんど最悪だった。まあ中には言うこと聞く子もいたのは確かだけど、あの子たちだって別に。腹の中は分かんないし。
所姬 : 妬まれて。
始緣 : そう。私が一番イケてたから政治ごっこしてくるシバル女も一人二人じゃなかったよ。
所姬 : 服買うお金は入った? メッセージで決済用の暗証番号も届いてるはずだけど。
始緣 : 全部知ってるんだ。あんたが送ったわけじゃないだろうに。
所姬 : あんなシバル女と関わらないでくれる?
始緣 : あんたはいい人なの?
所姬 : 少なくとも人に害は加えない。害を加えるのを止めたいだけ。
始緣 : じゃあいい人だね。
所姬 : でもうまくいかない。うまくいけばいい人でいられるんだろうけど、まだそうじゃない気がする。
始緣 : うまくいく日もあるよ。やってりゃそうなるから。
聞き覚えのある言葉が溢れ出た。所姬が黙ってハンドルを握る手を持ち替えてから、窓をそっと開けた。思いのほか息苦しい重さが感じられた。本当に自分をあれほど慈しんでくれた人の鏡が目の前にいるのだという思いに、深い重みが所姬を押し潰していた。
所姬 : あ、そうだ。あんたは暑いよね。エアコンつけな。あんたの席だけ別に入れられるから。
始緣 : 暑くないの? あんたは??
所姬 : 暑いは暑いけど、あんたの方がもっとだと思う。私より体温も下がってるだろうから。
始緣 : ああ。
所姬 : よく知ってるの。私のオンニもすごく冷たいから。
始緣 : あの人もじゃあ。
所姬を見つめていた始緣が、これ以上言葉が続きそうにない所姬から視線を逸らし、自分の側にあるエアコンを開けて涼しい風を受けた。
연희(連曦:ヨンヒ)がハンドルを握ったまま躊躇っていた。何度も死にかけたが、今回ほど深く残ったことはなかった。同じ人に助けられながらも、その人の正体を知ることすらできず、いつまでも死を傍らに置いて暮らすわけにもいかなかった。死はより一層巧妙だった。巧妙に押し寄せる死は、息をするだけで自分に覆い被さってきそうだった。それでも耐えていた。연수(延秀:ヨンス)のことも思い浮かんだが、自分に指輪を遺し遺志を託した母の意思もあった。広々とした본청(本廳:ホンチョウ)の駐車場に車を停めた連曦が、とても車から降りることができないまま、しばらく運転席に座って思案を続けていた。運転席の窓が叩かれた。見慣れた姿が、思わず驚いた連曦を安心させた。
경서(慶瑞:ギョンソ) : ショチョウ、何してるんですか? こんなところで。
連曦が溜め息をつき、揺れていた胸の内を鎮めてから、薄く笑みを浮かべ、車のドアを開けた。美しい襪の足を、花靴の一種である雲鞋へ載せ、地面へそっと足を下ろした。連曦が車から降り立った後、慶瑞の問いに答えを返した。
連曦 : ちょっと、考え事してただけ。
慶瑞 : また一人でしけた面してたでしょ。
連曦 : いつから見てたの?
慶瑞 : そんな経ってないよ。
희진(熙珍:ヒジン)が慶瑞と連曦の間へ歩み寄ってきた。二人の間に立った熙珍が連曦の容態をそっと尋ねた。
熙珍 : 大丈夫? 少しは?
熙珍のすべてを信じることはできなかった。腹の底がまだ読めない連曦が、警戒するように言葉を惜しみながら頷いた。そんな熙珍の問いに、慶瑞が連曦をちらりと見た。
慶瑞 : なに。どっか具合悪かったの?
連曦 : ちょっと、風邪気味だっただけ。
慶瑞 : そんだけ痩せてりゃしょっちゅう体壊すでしょ。一人だけどんどん痩せてくし。
熙珍 : 大丈夫ならいいじゃない。行こう。遅れるよ。
熙珍が先に立って慶瑞と連曦を引き連れ、執務室へ歩を進めた。
Scene 05.
粹廷(スジョン)から電話がかかってきた。所姬(ソヒ)がしばし身を洗い、出かける支度で席を外している間に、始緣(シヨン)のポケットにあった電話が聞き慣れない着信音を鳴らした。内ポケットを探って電話を取り出した始緣が、何も答えずに出た。
粹廷 : どう。殺してみた感想は。
粹廷の問いには嘲りと詰りが上品に混ざっていた。始緣は答えないまま、居間に静かに座り、電話を掴んだ手に力を込めていった。始緣の唇が妙に蠢き、あざ笑うように笑みを滲ませた。見えるはずもなく、聞こえるはずもなかったが、始緣は口元に含んだあざ笑いを存分に湛えていた。正気を少しでも取り戻した以上、何としても負けたくなかった。
粹廷 : 練習代よ。電話に入ってるカードで振り込んだから、足りないものがあれば買って使いなさい。
始緣の耳元で小さな通知音が鳴った。しかし確認はしなかった。
粹廷 : これからは、私が言うことをちゃんとやればいいの。たぶん、人を殺す仕事がほとんど全部でしょうけど。うまく処理しなさい。金は不足なく渡すから。
始緣 : 殺してやる。あんたも。
粹廷 : ええ。分かったわ。
始緣に最後まで嫌味を返すように、粹廷は始緣の警告にも落ち着いた声で答えた。始緣が力なく電話を下ろし、床へ弱々しく軽く放り投げた。洗っている最中に聞こえたはずのない通話の中身をすべて知っているかのように、所姬が外へ出てくるなり、濡れた髪をタオルで巻き上げながら始緣に何でもないように言った。
所姬 : 今はダメ。あんたが負けるから。
始緣 : 全部聞こえてたのか。
所姬 : 生きている人の道を視る人間だから。あんたの道は分からなくても、あの人の道は分かる。会えば視える。私がその気になった以上はね。だから今日は来られないから外に出ようって言ったの。でも、
所姬が洗い上がった体を整えながら、居間の食卓に腰を下ろし、始緣をしばし見つめた。
所姬 : もうすぐ、誰にも、あんたを傷つけることはできなくなる。
Scene 06.
薄暗い瓦屋根の間の路地で粹廷が電話を切った後、軽く溜め息をついた。そんな粹廷のそばへ미연(美延:ミヨン)が정현(正賢:ジョンヒョン)とともに歩み寄り、粹廷に軽く腰を折った。粹廷も電話を手に握ったまま、二人の挨拶を受け返した。
美延 : ずいぶん探しました。サクシ。
粹廷 : どのようなご用件で。
正賢 : ダンチョウはまだいらしていないようですね。
粹廷 : そうですね。もう平日が始まるというのに、お知らせもありません。じきにいらっしゃるでしょう。
美延 : では、少し私たちとお話しませんか。
粹廷が美延と正賢の気配を察し、口元に妙な微笑を漏らした。
粹廷 : すぐいらっしゃるかもしれません。週間朝礼の準備もありますし。代わっていただけるなら、まあ、お断りはしませんが。
正賢 : いいものを、一人で独り占めしようとするのは、昔も今も変わらなくて助かるよ。見破りやすくてね。
正賢が手を軽く振るい、狭い瓦屋根の間の路地を、薄い한지(韓紙)で囲うように塞いだ。宙から撒き散らされた薄く白い紙が瞬く間に四方を取り巻き、それまでとは打って変わった静寂な空気を内に閉じ込めた。正賢がゆったりと歩み寄った。依然として余裕の表情で二人に対する粹廷のすぐ前で立ち止まった正賢が、かなりの長身の粹廷をむしろ見下ろした。狭い路地の間に、鋭い殺意が互いへ向かっていた。その様を見た粹廷が、引かずに주술(呪術:ジュジュツ)を展開した正賢に向けて、丁寧な声で対抗しようとした。
粹廷 : 内部の者同士、呪術を使うことは許されていません。律法に明確に、
丁重だった粹廷の切迫した仲裁を正賢が断ち切り、己の意を伝えた。
正賢 : 少し前に、자격루(自擊漏:チャギョンヌ)が狂ったそうだな。昨日も。
礼を弁えない正賢の短い物言いに、粹廷もまとっていた礼を収め、嘲り混じりの答えを短い言葉で返した。
粹廷 : ああ、そう。誰も報告しなかったから私は知らなかったわ。
粹廷の淡々とした気色に、美延があざ笑いながら粹廷の言い分を取るに足らないものとして退けようとした。手に두루마리(卷子:トゥルマリ)に巻かれた教旨を一つ持ち、ちらつかせるように粹廷へ見せつけた。粹廷が美延の手にある教旨をしばし見つめていると、美延がにやつきながら教旨をポケットへ仕舞った。
美延 : まさか。ジムチョウに直接報告しましたよ。私が直々に。たぶんダンチョウも知ってるんじゃないですか?
粹廷 : 言葉遣いが随分短いわね? 「ダンチョウ」? 背が短いからって言葉まで短くされちゃ困るわ。
美延が粹廷の嫌味に逆上して顔を強張らせかけると、正賢が進み出て美延の言葉を代わりに継いだ。
正賢 : いいじゃないか、私たちだけなんだから。王だって不在の時は悪口を言われるもんだ。たかがダンチョウがどうだってんだ。
正賢がもう少し詰め寄り、腰をわずかに屈めてから、粹廷の耳元へ小さく囁いた。
正賢 : お前が持ち出したんだろ?
粹廷 : 何のことだかさっぱり分からないけど。
正賢 : 삼도천(三途川:サムドチョン)の水で、俺たちが巻き戻した時間を記録する自擊漏が、役目を果たせなくなる瞬間はいつだ?
粹廷 : 門が開いた時?
正賢 : それから?
粹廷 : 誰かがその三途川の水を持ち出して死を欺いた時?
正賢の追及に問いで返す粹廷が片腹痛かった。美延が間に割り込み、粹廷をさらに追い詰めようとした。
美延 : よくご存知で。先日と昨日、三途川の水を管理するうちのダイミンカンの水門番が変死体で見つかったそうですよ。下っ端の職員が死んだ程度のことですから、黙って記憶を書き換えるのは難しくなかったけど、二度の死から溢れ出た三途川の水で新たに満たされていたんです。それをちょうど私が収拾したってわけ。
粹廷 : 自分の仕事したわね。偉いわ。それで? 褒めてほしいの、って——
粹廷の言葉が続かなかった。一瞬にして粹廷の体を覆い尽くした白い紙が、粹廷を強く締め上げ、繭のように成した。土の地面へ力なく崩れ落ちた粹廷の体を、正賢が足で軽くめくるように押した。周囲と空間を隔てるために張られていた紙片が静まり消えた。周囲で待ち構えていた正賢の一行へ素っ気ない顎の動きで合図すると、正賢の一行が近づき、白い紙に包まれた粹廷をどこかへ引きずっていった。美延が正賢に静かな声で尋ねた。
美延 : ダンチョウが来たらどうするつもり?
正賢 : 本当のことを言えなくすればいいだけだ、記憶を少しこんがらがせておけば何も言えやしないだろ。まともに思い出せるものがあるかね。
美延 : まだ私たち二人だけが知ってるの?
正賢 : まあ、俺たちだってちゃんと分かってるわけじゃない。ちゃんと分かろうとしてるんだ。後で永敏オンニも来る。とりあえず行こう。
Scene 07.
近くはない公営駐車場に停めてある所姬(ソヒ)の車へ、所姬とともに足を運んだ始緣(シヨン)。二日間に起きた出来事にはまだ順応しようもなく、なかなか表情のほぐれない始緣が、自分より背の低い所姬の後をとぼとぼとついて歩いていた。所姬がかなり高いヒールを履いてコツコツと足を運ぶ間、始緣は別の新しい服を着てスニーカーを履いた姿で、あちこち様子を窺いながらおぼつかなく所姬のあとを追った。ふと、始緣が所姬のヒールが気になったのか、車にたどり着いてから問いを投げた。
始緣 : ねえ。てか、買い物行くんでしょ。靴めちゃ高いね。しんどくない?
所姬 : 身長の話に敏感だから黙って乗りな。
所姬が自分の車の運転席のドアを開けながら始緣にぶっきらぼうに放った言葉に、始緣が唇をひくつかせながら独り言を呟いた。
始緣 : べつに、低い背でもないくせに。
助手席のドアを開けてやった所姬。始緣が小さくないSUVに身を乗せた途端、助手席のグローブボックスに挟まった写真が一枚目に入った。黙って写真をぼんやりと見つめていた始緣が、動揺の色を隠せなかった。エンジンをかけた所姬が遅れて写真の正体を確認し、少し慌てて写真を抜き取りグローブボックスの中へ押し込んだ。
始緣 : 今の。
所姬 : そう。私が言った私のオンニだよ。私たちを育ててくれた人と一緒に。
始緣がしばし言葉を継がなかった。所姬の一文にはいくつもの意味が含まれていた。それ以上何も言えなくなった始緣が、黙って所姬の小言を聞いた。
所姬 : ベル鳴ったらうるさいからシートベルトしなよ。
始緣が遅れて反応しシートベルトを締めた。所姬が自然に車を走らせその場を離れる頃、車内には静けさが漂っていた。
始緣 : いい車だね。
所姬 : 卒業祝いにもらったの。
始緣 : ああ。大学?
所姬 : うん。
始緣 : いいね。
所姬 : プレゼントは良かった。学校は最悪だったけど。ていうか、酷かった。
始緣 : なんで。
所姬 : 政治ごっこばっかやってるクソ女ども、最悪だったから。
始緣 : ああ。それ。学のある女も同じなんだね。
所姬 : いい子がいなかったわけじゃないけど、クソな女も多かった。
始緣 : どこも同じでしょ。
所姬 : あんたは。
始緣 : 私はもともと変態にもたくさん当たってきた仕事だからさ。仕事も最悪だったし一緒にいる女もほとんど最悪だった。まあ中には言うこと聞く子もいたのは確かだけど、あの子たちだって別に。腹の中は分かんないし。
所姬 : 妬まれて。
始緣 : そう。私が一番イケてたから政治ごっこしてくるシバル女も一人二人じゃなかったよ。
所姬 : 服買うお金は入った? メッセージで決済用の暗証番号も届いてるはずだけど。
始緣 : 全部知ってるんだ。あんたが送ったわけじゃないだろうに。
所姬 : あんなシバル女と関わらないでくれる?
始緣 : あんたはいい人なの?
所姬 : 少なくとも人に害は加えない。害を加えるのを止めたいだけ。
始緣 : じゃあいい人だね。
所姬 : でもうまくいかない。うまくいけばいい人でいられるんだろうけど、まだそうじゃない気がする。
始緣 : うまくいく日もあるよ。やってりゃそうなるから。
聞き覚えのある言葉が溢れ出た。所姬が黙ってハンドルを握る手を持ち替えてから、窓をそっと開けた。思いのほか息苦しい重さが感じられた。本当に自分をあれほど慈しんでくれた人の鏡が目の前にいるのだという思いに、深い重みが所姬を押し潰していた。
所姬 : あ、そうだ。あんたは暑いよね。エアコンつけな。あんたの席だけ別に入れられるから。
始緣 : 暑くないの? あんたは??
所姬 : 暑いは暑いけど、あんたの方がもっとだと思う。私より体温も下がってるだろうから。
始緣 : ああ。
所姬 : よく知ってるの。私のオンニもすごく冷たいから。
始緣 : あの人もじゃあ。
所姬を見つめていた始緣が、これ以上言葉が続きそうにない所姬から視線を逸らし、自分の側にあるエアコンを開けて涼しい風を受けた。
