本作は現在、MUNPIA、Royal Road、エブリスタ、ノベマ!、Purrfiction、アルファポリスにて、著者本人が直接連載を行っている公式原稿です。
Scene 01.
現代式のスーツに着替えた수정(粹廷:スジョン)が、細い足首をしばし撫でた。高いヒールにはまだ馴染めずにいたが、履き慣れた운혜(雲鞋:ウンヘ)とはまた違う気品を備えていると思った。あらかじめ家から選んできた一番きれいな靴を取り出し、車の中で履き替えてから、運転席のドアを開けて外へ出た。不夜城に近い歓楽だった。辺り一面に並ぶ気品めいた安物の装飾を背景に、すでに酔った人々が足を運んでいた。慣れた足取りで高級なロビーを通り過ぎた粹廷が、誰も乗っていないエレベーターに身を預けた。大きく開かれたガラス窓の向こうに、紅灯街がずらりと立ち並んでいた。粹廷は路上で遊ぶ連中などに関心を置かなかった。無心な表情で下を見下ろしたが、目に入るのは刺激的な照明ばかりだった。しばらく昇り続けたエレベーターが、小さなベル音とともに止まった。粹廷が振り返り、開いた扉へ足を運んだ。高級な内装がひときわ下品に感じられた。いつものことだと言わんばかりに、ドアを開けてある事務室へ入った。粹廷の到着をすでに知っていた事業主が、デスクから腰を上げ、前に置かれたソファへ先に腰を下ろした。粹廷に座れとは勧めなかったが、粹廷もそんな事業主の態度に慣れた様子で、空いたソファへ自ら腰を下ろした。デスクに置かれた名札には연진(蓮眞:ヨンジン)という名が記されていた。
粹廷 : 今月の資金、受け取りに来た。
蓮眞は粹廷の言葉に何の気色も見せず、内ポケットを探って封筒を一つ取り出し、サイドテーブルの上に置いた。一緒に引き出された煙草を一本抜き、口にくわえて火を点けた。
蓮眞 : どういう風の吹き回しで、わざわざ直接来ると知らせまで寄越したんだ。
蓮眞が置いた封筒を粹廷がさりげなく掴むと、蓮眞が安否を続けて尋ねた。
蓮眞 : ホンチョウの田舎女どもは、相変わらずか?
粹廷 : 言ったでしょ、都で人商売をちょっと長くやったからって、しきりにホンチョウを田舎者扱いしてると厄介よ。あくまでここも地方の郷土勢力に過ぎないんだから。
蓮眞 : 田舎女を田舎女と言って何が悪い。じゃあ何、世間知らずのウブな巫女ども、とでも飾ってやろうか。
粹廷が蓮眞の皮肉にあざ笑いで返した。封筒を開けて中の額を確認した粹廷が、軽く頷いた。着込んだ薄手のスーツの内ポケットへ封筒を仕舞った。
蓮眞 : 約束だけは忘れるなよ。肩書きがこの取引すべての条件なんだからな。
粹廷 : 意外と、出世に欲深いのね。私は面倒だけど。
蓮眞が粹廷に渡した金額を帳簿で整理しながら、粹廷の直截な見立てに冷笑的な答えを返した。
蓮眞 : まあ。当然だろ。出世もそうだし。名誉もな。そういうのに興味ないと言う方がよっぽど浅はかなんだよ。本心を隠して出しゃばってるってことだからな。そういう女は何をしでかすか分からねえ。一番欲しいものを奪われたら犬みたいに噛みついてくるぞ。むしろ俺みたいに最初から俗物丸出しでいる方がよっぽど信用できる。
粹廷は長く言葉を交わす気はなかったようで、蓮眞の長い持論にも特に返答せず腰を上げた。ふと浮かんだ疑問に、蓮眞へちらりと視線を送り、ぶっきらぼうな質問を投げた。
粹廷 : もしかして、ここに、うちの手先いる?
蓮眞 : ここも西北の郷土本拠地の一つだ。いないとは言えねえな。なんでだ。
粹廷 : 私が出入りしてるのを知ってる人間がいてね。裏金が動いてるのも察してる様子だったし。
蓮眞 : なにせでかい額だからな。調べてやろうか? ここの女どもは政治ごっこに長けた連中だから、ちょっと問い詰めりゃベラベラ吐くぞ。
粹廷 : いいよ。知ったところで、あいつらに何ができるわけでもないし。もう少し様子見て、拗れたら聞くわ。
粹廷が入ってきた入口のドアを開け放ち、出かけた足を一瞬止めた。もう少し振り返った粹廷が、蓮眞へ晴れやかな嘲笑を向けた。
粹廷 : 私が死んだら、身を置く場所でも用意しておいて。誰にも知られない所に。
蓮眞 : 条件が多すぎんだよ。うちのエースを殺す時もそうだったし。元気にしてんのか? もう連れ戻すこともできねえだろうに。
粹廷は返事もせず、止めていた足を再び運んで外へ出た。
Scene 02.
夜が薄く褪せてゆくばかりだった。시연(始緣:シヨン)の意識も少しずつ薄れていった。力ない声に気力さえ消えかけた頃、始緣の顔を荒々しく鷲掴みにした지윤(智胤:ジユン)が始緣の髪を引き上げ、浴室へ乱暴に引きずり込んだ。冷水を開けて始緣の体へ浴びせた。眠りに落ちかけた始緣が水を吹き出し、辛うじて意識を取り戻した。智胤が始緣の足の爪を確認した。うっすらと黒く焦げていた影が消えてゆく様を見届けた。
智胤 : 本物だな。お前みたいなのでも、案外厄介なんだな?
水に濡れた始緣の髪をそのまま再び掴み上げ、始緣の体から流れた검은 물(黑水:コムンムル)がべったりと広がる居間へ引きずり出した。始緣を床へ荒々しく放り捨てた後、太腿に提げていた銃を抜いた。始緣がぎょっとして再び体を後ろへ退いた。
智胤 : お前、夜に眠ったら、一発ずつ。お前の頭にぶち込んでやる。眠りたい? 眠らせない。そうすりゃ私を呪うだろ。私を憎め。
後ろへ退いた始緣が、恐怖にもかかわらず滲み出る嘲笑を隠さなかった。
始緣 : 今でも充分だけど。
智胤が始緣の言葉を聞くと、始緣の近くの床に転がっている銃を指し示した。
智胤 : なのに何で撃たないの? 銃もあげたじゃない。
始緣が一瞬たじろいだ。葛藤した。殺してしまいたいという願望とともに、소희(所姬:ソヒ)の言づけと慰めが蘇った。殺さなければ生きられないような気がした。しかし、それがどれほど辛いことか、所姬が伝えてくれた真心が、すでに先に人を殺した経験のあった始緣の深い場所を撫でるような心地だった。だから、しなかった。
智胤 : 撃ち方も全部教えた、戦い方ももう頭に入ってる、何で何もしないの? 私が怖い? それは違うよね。目ぇ見りゃ分かる。
満身創痍の始緣に再び膝を落として座った智胤が、始緣に向けていた銃を太腿へ収めた。空手になった智胤が、両手を大きく広げて何も持っていない、安心して撃っていいとでも言うように、無邪気な笑みを浮かべて始緣を嘲った。
智胤 : さあ。撃ってみな。
始緣がすべての意志を背いた。顔を背け、すべての助言と慰めをしばし振り切ろうともがいた。床に置かれた銃を掴み取り、目をきつく瞑った。しかし瞑った目で銃を握っているだけで、持ち上げて構えることすらできなかった。どこまでも柔い始緣は、最後まで背くことができなかった。そんな始緣を見つめながら、智胤がゆっくりと表情を険しくしていった。智胤が太腿に収めていた銃を再び抜き、始緣の閉じた瞼の上へ銃口を突きつけた。
智胤 : 後悔するよ?
強要だった。そして、その強要はむしろ始緣の殺意を鎮めた。掴んでいた銃を下ろしたまま、始緣は自分の目に突きつけられた銃口を確かめもしなかった。数発の銃声が明け方を叩いた。悲鳴すら上がらなかった。望む通りにしないことが、最も智胤を怒らせる方法だと考えた。悲鳴すら上げなかった始緣が、黑水を顔にたっぷりと溢れさせたまま、無傷になった目を閉じて笑っていた。
智胤 : いやあ。このシバル女が、マジで。
始緣と智胤がいるアパートの扉が開いた。粹廷(スジョン)が黑水まみれの居間を見て、訝しげに足を運んできた。
粹廷 : 何。まだ終わってないの??
智胤 : もうすぐ終わる。こいつが私を撃てば終わるのに、最後まで撃たないんだよ。
粹廷 : 今日月曜だよ。早く下りなきゃ。週末もろくに休めなかったのに、ちょっと、早く終わらせてよ。
智胤 : 呪いは確かに入ったのに、最後まで撃たないんだ。
粹廷 : じゃあ、あいつがあんたを撃てば終わるの?
粹廷の問いに、智胤が頷いた。粹廷が大きな鏡を一つ生み出し、始緣の目の前へ落とした。始緣が慌てて体を後ろへ退いた。鏡の中に始緣が映っていた。
粹廷 : あんたは、いつが一番酷かった?
粹廷の簡潔な問いに、始緣が歪み始めた鏡を見つめた。忘れて過ごしていた記憶だった。努めて取り出さなかった、酷かった昔のことだった。そしてその昔のことの真ん中に、存在すらしなかったはずの智胤が居座っていた。始緣が大きな目にいつしか涙をいっぱいに湛えたまま、傍に置かれていた銃を拾い上げた。震える指先で鏡を狙い、鏡の向こうに映る光景を止めようとした。記憶とはまるで異なる状況と場所で、幼子だった自分の妹を殴り始めた智胤が、過去を投影した鏡の真ん中に居座っていた。呆然となった始緣が、失っていた意志を怒りで満たし始め、手に握った銃口から火を噴き始めた。薄汚れたアパートに押し寄せた早い東雲を叩き起こすように、数発の銃声が続いた。
Scene 03_01.
夜の眠りを損ねたのは何も始緣(シヨン)だけではなかったようで、소희(所姬:ソヒ)もソファに足を上げたまま体を丸めて座っていた。銃声が四方に轟いた。裂けるような悲鳴が聞こえてもおかしくなかったが、凄まじい沈黙が早い東雲を埋めていた。しばらくが経った。駐車場に停めてあった車からエンジン音とともに誰かが立ち去る音まで、すべて聞こえてきた。早朝、人の気配もない薄汚れたアパートには、背筋の凍る静寂だけが満ちていた。体を目一杯丸めて座っていた所姬が、自分を責め、また責めた。このすべてを一人で耐えろと追い遣った自分の狭量さを咎めた。本当は、逃げたい隠れたいのは自分の方だった。そんな自分自身がおぞましく嫌悪に堪えなかった。扉の外で気配が感じられた。ぎくりとしながら、固く閉じたが鍵は掛けていなかった玄関の鉄扉の前へ、誰かが近づいたのを感じた。所姬が何も考えず一足で駆け寄り、閉ざされていた扉を開けた。黑水と他人の血を浴びた始緣が、裸足で立って泣いていた。始緣の手には血に塗れた誰かの銃が握られていた。
始緣 : 助けて。お願い。
力なく泣き叫ぶ始緣が、今にも崩れ落ちそうな危うさを露わにした。かろうじて立っていた体を、自分に向かって歩み寄る所姬へ、崩れるように座り込ませた。
Scene 03_02.
朝の陽射しが押し寄せた。思いのほか穏やかに眠りについている始緣の、血に汚れた顔を濡れ布巾で拭ってやった所姬が、小さな柄杓に溜まった血混じりの水を捨て、新しい水を汲みに立ち上がった。玄関の扉が再び開いた。所姬がはっとして、扉に立つ단장(團長:ダンチョウ)を見つめた。團長が장포(長衫袍:ジャンサンポ)で顔を隠したまま、居間の中を窺い、所姬の慌ただしい挨拶を静かに退けた。버선(襪:ポソン)の足を運び、ソファに倒れたまま意識を失っている始緣のもとへ歩み寄った。柄杓を手にしていた所姬が、静かに立って團長の小さな背を見つめた。小さく衣擦れの音を立てながら慎み深く始緣の傍に腰を下ろした、團長の小さな背が今日に限って痛ましく見えた。團長の美しい手が、意識を失った始緣の冷たい手に触れた。温かな手で、始緣の手を包むように握ってやった後、始緣にだけ届くほどの小声で言った。
團長 : すまないね。
團長の穏やかな慰めが伝わった。まだ意識を取り戻せない始緣は、何一つ答えずにいた。
團長 : だから、もっとすまない。
始緣の汚れた手をそっと下ろし、始緣の胸へ載せてやった。團長が手首に巻いていた腕輪を解いた。澄んだ音を立てながら細かく裂けた현사(玄絲:ヒョンサ)の先端が、始緣の耳元をそっと刺し入った。始緣の凄惨な夢と記憶をいくらかでも慰めてやった後、團長がしばし潤んでいた目元を整え、玄絲を再び腕輪へ呼び戻した。何も言わず立ち上がり、入ってきた扉へ向かった。所姬が急いで團長を見送ろうとしたが、團長は所姬に穏やかに手を振り、始緣を指し示した。何の言葉も交わされなかったが、深い感情が伝わった。所姬が去りゆく團長の後ろ姿へ、腰を深く折った。
Scene 03_03.
始緣が目を開けた。一度見た天井だったが、思いのほか温もりのある所姬の住まいだと気づき、再び目を閉じた。始緣の気配に気づいた所姬が、柄杓で綺麗な水を汲んでくるとともに、冷たいペットボトルの水を一本冷蔵庫から取り出してきた。近づいてくる所姬の足音に合わせて、始緣も横になっていた体をゆっくりと起こした。所姬が黙って薄氷の張った水のボトルを差し出した。始緣ががぶがぶと一息に小さなボトルを空にした後、大きく溜め息をついた。
所姬 : なんで、逃げなかったの。
所姬の落ち着いた問いに、始緣が顔を向けて所姬の目を見据えた。
始緣 : そうしないでほしいって言ったじゃん。
所姬 : そうだね。自分勝手だよね。
始緣 : 私、頼まれごとは聞くほうだから。
所姬 : 何を信じて。
始緣 : どうせ私は最悪だから。
所姬が力なく頷いた。始緣が震える体をかろうじて持ち直し、あまりに縮こまっていた体の強張りを覚えたのか、大きく溜め息をついた後、震えを懸命に鎮めようとした。指先をまだ震わせながら、辛そうに首を撫で、頭をあちこちに傾けて骨の鳴る音を立てた。幸いにも思ったほど深く根を下ろしていない記憶だった。始緣が安堵したように軽く息を吐いてから、所姬に言った。
始緣 : 実は。
しかし奥底に残る、まだ収まりきらない震えが感じられた。始緣はもどかしさに、なんとしてでも話を伝えたがっていた。
始緣 : 初めて人を殺したわけじゃないんだ。
素っ気なく言葉を放った始緣の声に、所姬がぼんやりしていた視線を再び始緣へ向けた。しかし長く語るつもりはないとでも言うように、ぼろ切れになってしまった服をちらりと見下ろした始緣が、所姬に申し訳なさそうな気色を遠回しに滲ませた。
始緣 : 私の服でもないのに。ごめんね。
所姬 : いいよ。また買えばいいんだから。
始緣 : 誰の?
所姬 : 言ったでしょ。あんたとそっくりな人がいるって。
始緣 : なに、生き別れの双子みたいなクソみたいな朝ドラでもあるまいし。
震える声にもかかわらず何でもないように冗談を投げる始緣の軽口に、所姬が小さく失笑を漏らしながら、新しく汲んできた柄杓の水を手に立ち上がった。
所姬 : 起きたなら洗いなよ。出かけて服でも買おう。
Scene 01.
現代式のスーツに着替えた수정(粹廷:スジョン)が、細い足首をしばし撫でた。高いヒールにはまだ馴染めずにいたが、履き慣れた운혜(雲鞋:ウンヘ)とはまた違う気品を備えていると思った。あらかじめ家から選んできた一番きれいな靴を取り出し、車の中で履き替えてから、運転席のドアを開けて外へ出た。不夜城に近い歓楽だった。辺り一面に並ぶ気品めいた安物の装飾を背景に、すでに酔った人々が足を運んでいた。慣れた足取りで高級なロビーを通り過ぎた粹廷が、誰も乗っていないエレベーターに身を預けた。大きく開かれたガラス窓の向こうに、紅灯街がずらりと立ち並んでいた。粹廷は路上で遊ぶ連中などに関心を置かなかった。無心な表情で下を見下ろしたが、目に入るのは刺激的な照明ばかりだった。しばらく昇り続けたエレベーターが、小さなベル音とともに止まった。粹廷が振り返り、開いた扉へ足を運んだ。高級な内装がひときわ下品に感じられた。いつものことだと言わんばかりに、ドアを開けてある事務室へ入った。粹廷の到着をすでに知っていた事業主が、デスクから腰を上げ、前に置かれたソファへ先に腰を下ろした。粹廷に座れとは勧めなかったが、粹廷もそんな事業主の態度に慣れた様子で、空いたソファへ自ら腰を下ろした。デスクに置かれた名札には연진(蓮眞:ヨンジン)という名が記されていた。
粹廷 : 今月の資金、受け取りに来た。
蓮眞は粹廷の言葉に何の気色も見せず、内ポケットを探って封筒を一つ取り出し、サイドテーブルの上に置いた。一緒に引き出された煙草を一本抜き、口にくわえて火を点けた。
蓮眞 : どういう風の吹き回しで、わざわざ直接来ると知らせまで寄越したんだ。
蓮眞が置いた封筒を粹廷がさりげなく掴むと、蓮眞が安否を続けて尋ねた。
蓮眞 : ホンチョウの田舎女どもは、相変わらずか?
粹廷 : 言ったでしょ、都で人商売をちょっと長くやったからって、しきりにホンチョウを田舎者扱いしてると厄介よ。あくまでここも地方の郷土勢力に過ぎないんだから。
蓮眞 : 田舎女を田舎女と言って何が悪い。じゃあ何、世間知らずのウブな巫女ども、とでも飾ってやろうか。
粹廷が蓮眞の皮肉にあざ笑いで返した。封筒を開けて中の額を確認した粹廷が、軽く頷いた。着込んだ薄手のスーツの内ポケットへ封筒を仕舞った。
蓮眞 : 約束だけは忘れるなよ。肩書きがこの取引すべての条件なんだからな。
粹廷 : 意外と、出世に欲深いのね。私は面倒だけど。
蓮眞が粹廷に渡した金額を帳簿で整理しながら、粹廷の直截な見立てに冷笑的な答えを返した。
蓮眞 : まあ。当然だろ。出世もそうだし。名誉もな。そういうのに興味ないと言う方がよっぽど浅はかなんだよ。本心を隠して出しゃばってるってことだからな。そういう女は何をしでかすか分からねえ。一番欲しいものを奪われたら犬みたいに噛みついてくるぞ。むしろ俺みたいに最初から俗物丸出しでいる方がよっぽど信用できる。
粹廷は長く言葉を交わす気はなかったようで、蓮眞の長い持論にも特に返答せず腰を上げた。ふと浮かんだ疑問に、蓮眞へちらりと視線を送り、ぶっきらぼうな質問を投げた。
粹廷 : もしかして、ここに、うちの手先いる?
蓮眞 : ここも西北の郷土本拠地の一つだ。いないとは言えねえな。なんでだ。
粹廷 : 私が出入りしてるのを知ってる人間がいてね。裏金が動いてるのも察してる様子だったし。
蓮眞 : なにせでかい額だからな。調べてやろうか? ここの女どもは政治ごっこに長けた連中だから、ちょっと問い詰めりゃベラベラ吐くぞ。
粹廷 : いいよ。知ったところで、あいつらに何ができるわけでもないし。もう少し様子見て、拗れたら聞くわ。
粹廷が入ってきた入口のドアを開け放ち、出かけた足を一瞬止めた。もう少し振り返った粹廷が、蓮眞へ晴れやかな嘲笑を向けた。
粹廷 : 私が死んだら、身を置く場所でも用意しておいて。誰にも知られない所に。
蓮眞 : 条件が多すぎんだよ。うちのエースを殺す時もそうだったし。元気にしてんのか? もう連れ戻すこともできねえだろうに。
粹廷は返事もせず、止めていた足を再び運んで外へ出た。
Scene 02.
夜が薄く褪せてゆくばかりだった。시연(始緣:シヨン)の意識も少しずつ薄れていった。力ない声に気力さえ消えかけた頃、始緣の顔を荒々しく鷲掴みにした지윤(智胤:ジユン)が始緣の髪を引き上げ、浴室へ乱暴に引きずり込んだ。冷水を開けて始緣の体へ浴びせた。眠りに落ちかけた始緣が水を吹き出し、辛うじて意識を取り戻した。智胤が始緣の足の爪を確認した。うっすらと黒く焦げていた影が消えてゆく様を見届けた。
智胤 : 本物だな。お前みたいなのでも、案外厄介なんだな?
水に濡れた始緣の髪をそのまま再び掴み上げ、始緣の体から流れた검은 물(黑水:コムンムル)がべったりと広がる居間へ引きずり出した。始緣を床へ荒々しく放り捨てた後、太腿に提げていた銃を抜いた。始緣がぎょっとして再び体を後ろへ退いた。
智胤 : お前、夜に眠ったら、一発ずつ。お前の頭にぶち込んでやる。眠りたい? 眠らせない。そうすりゃ私を呪うだろ。私を憎め。
後ろへ退いた始緣が、恐怖にもかかわらず滲み出る嘲笑を隠さなかった。
始緣 : 今でも充分だけど。
智胤が始緣の言葉を聞くと、始緣の近くの床に転がっている銃を指し示した。
智胤 : なのに何で撃たないの? 銃もあげたじゃない。
始緣が一瞬たじろいだ。葛藤した。殺してしまいたいという願望とともに、소희(所姬:ソヒ)の言づけと慰めが蘇った。殺さなければ生きられないような気がした。しかし、それがどれほど辛いことか、所姬が伝えてくれた真心が、すでに先に人を殺した経験のあった始緣の深い場所を撫でるような心地だった。だから、しなかった。
智胤 : 撃ち方も全部教えた、戦い方ももう頭に入ってる、何で何もしないの? 私が怖い? それは違うよね。目ぇ見りゃ分かる。
満身創痍の始緣に再び膝を落として座った智胤が、始緣に向けていた銃を太腿へ収めた。空手になった智胤が、両手を大きく広げて何も持っていない、安心して撃っていいとでも言うように、無邪気な笑みを浮かべて始緣を嘲った。
智胤 : さあ。撃ってみな。
始緣がすべての意志を背いた。顔を背け、すべての助言と慰めをしばし振り切ろうともがいた。床に置かれた銃を掴み取り、目をきつく瞑った。しかし瞑った目で銃を握っているだけで、持ち上げて構えることすらできなかった。どこまでも柔い始緣は、最後まで背くことができなかった。そんな始緣を見つめながら、智胤がゆっくりと表情を険しくしていった。智胤が太腿に収めていた銃を再び抜き、始緣の閉じた瞼の上へ銃口を突きつけた。
智胤 : 後悔するよ?
強要だった。そして、その強要はむしろ始緣の殺意を鎮めた。掴んでいた銃を下ろしたまま、始緣は自分の目に突きつけられた銃口を確かめもしなかった。数発の銃声が明け方を叩いた。悲鳴すら上がらなかった。望む通りにしないことが、最も智胤を怒らせる方法だと考えた。悲鳴すら上げなかった始緣が、黑水を顔にたっぷりと溢れさせたまま、無傷になった目を閉じて笑っていた。
智胤 : いやあ。このシバル女が、マジで。
始緣と智胤がいるアパートの扉が開いた。粹廷(スジョン)が黑水まみれの居間を見て、訝しげに足を運んできた。
粹廷 : 何。まだ終わってないの??
智胤 : もうすぐ終わる。こいつが私を撃てば終わるのに、最後まで撃たないんだよ。
粹廷 : 今日月曜だよ。早く下りなきゃ。週末もろくに休めなかったのに、ちょっと、早く終わらせてよ。
智胤 : 呪いは確かに入ったのに、最後まで撃たないんだ。
粹廷 : じゃあ、あいつがあんたを撃てば終わるの?
粹廷の問いに、智胤が頷いた。粹廷が大きな鏡を一つ生み出し、始緣の目の前へ落とした。始緣が慌てて体を後ろへ退いた。鏡の中に始緣が映っていた。
粹廷 : あんたは、いつが一番酷かった?
粹廷の簡潔な問いに、始緣が歪み始めた鏡を見つめた。忘れて過ごしていた記憶だった。努めて取り出さなかった、酷かった昔のことだった。そしてその昔のことの真ん中に、存在すらしなかったはずの智胤が居座っていた。始緣が大きな目にいつしか涙をいっぱいに湛えたまま、傍に置かれていた銃を拾い上げた。震える指先で鏡を狙い、鏡の向こうに映る光景を止めようとした。記憶とはまるで異なる状況と場所で、幼子だった自分の妹を殴り始めた智胤が、過去を投影した鏡の真ん中に居座っていた。呆然となった始緣が、失っていた意志を怒りで満たし始め、手に握った銃口から火を噴き始めた。薄汚れたアパートに押し寄せた早い東雲を叩き起こすように、数発の銃声が続いた。
Scene 03_01.
夜の眠りを損ねたのは何も始緣(シヨン)だけではなかったようで、소희(所姬:ソヒ)もソファに足を上げたまま体を丸めて座っていた。銃声が四方に轟いた。裂けるような悲鳴が聞こえてもおかしくなかったが、凄まじい沈黙が早い東雲を埋めていた。しばらくが経った。駐車場に停めてあった車からエンジン音とともに誰かが立ち去る音まで、すべて聞こえてきた。早朝、人の気配もない薄汚れたアパートには、背筋の凍る静寂だけが満ちていた。体を目一杯丸めて座っていた所姬が、自分を責め、また責めた。このすべてを一人で耐えろと追い遣った自分の狭量さを咎めた。本当は、逃げたい隠れたいのは自分の方だった。そんな自分自身がおぞましく嫌悪に堪えなかった。扉の外で気配が感じられた。ぎくりとしながら、固く閉じたが鍵は掛けていなかった玄関の鉄扉の前へ、誰かが近づいたのを感じた。所姬が何も考えず一足で駆け寄り、閉ざされていた扉を開けた。黑水と他人の血を浴びた始緣が、裸足で立って泣いていた。始緣の手には血に塗れた誰かの銃が握られていた。
始緣 : 助けて。お願い。
力なく泣き叫ぶ始緣が、今にも崩れ落ちそうな危うさを露わにした。かろうじて立っていた体を、自分に向かって歩み寄る所姬へ、崩れるように座り込ませた。
Scene 03_02.
朝の陽射しが押し寄せた。思いのほか穏やかに眠りについている始緣の、血に汚れた顔を濡れ布巾で拭ってやった所姬が、小さな柄杓に溜まった血混じりの水を捨て、新しい水を汲みに立ち上がった。玄関の扉が再び開いた。所姬がはっとして、扉に立つ단장(團長:ダンチョウ)を見つめた。團長が장포(長衫袍:ジャンサンポ)で顔を隠したまま、居間の中を窺い、所姬の慌ただしい挨拶を静かに退けた。버선(襪:ポソン)の足を運び、ソファに倒れたまま意識を失っている始緣のもとへ歩み寄った。柄杓を手にしていた所姬が、静かに立って團長の小さな背を見つめた。小さく衣擦れの音を立てながら慎み深く始緣の傍に腰を下ろした、團長の小さな背が今日に限って痛ましく見えた。團長の美しい手が、意識を失った始緣の冷たい手に触れた。温かな手で、始緣の手を包むように握ってやった後、始緣にだけ届くほどの小声で言った。
團長 : すまないね。
團長の穏やかな慰めが伝わった。まだ意識を取り戻せない始緣は、何一つ答えずにいた。
團長 : だから、もっとすまない。
始緣の汚れた手をそっと下ろし、始緣の胸へ載せてやった。團長が手首に巻いていた腕輪を解いた。澄んだ音を立てながら細かく裂けた현사(玄絲:ヒョンサ)の先端が、始緣の耳元をそっと刺し入った。始緣の凄惨な夢と記憶をいくらかでも慰めてやった後、團長がしばし潤んでいた目元を整え、玄絲を再び腕輪へ呼び戻した。何も言わず立ち上がり、入ってきた扉へ向かった。所姬が急いで團長を見送ろうとしたが、團長は所姬に穏やかに手を振り、始緣を指し示した。何の言葉も交わされなかったが、深い感情が伝わった。所姬が去りゆく團長の後ろ姿へ、腰を深く折った。
Scene 03_03.
始緣が目を開けた。一度見た天井だったが、思いのほか温もりのある所姬の住まいだと気づき、再び目を閉じた。始緣の気配に気づいた所姬が、柄杓で綺麗な水を汲んでくるとともに、冷たいペットボトルの水を一本冷蔵庫から取り出してきた。近づいてくる所姬の足音に合わせて、始緣も横になっていた体をゆっくりと起こした。所姬が黙って薄氷の張った水のボトルを差し出した。始緣ががぶがぶと一息に小さなボトルを空にした後、大きく溜め息をついた。
所姬 : なんで、逃げなかったの。
所姬の落ち着いた問いに、始緣が顔を向けて所姬の目を見据えた。
始緣 : そうしないでほしいって言ったじゃん。
所姬 : そうだね。自分勝手だよね。
始緣 : 私、頼まれごとは聞くほうだから。
所姬 : 何を信じて。
始緣 : どうせ私は最悪だから。
所姬が力なく頷いた。始緣が震える体をかろうじて持ち直し、あまりに縮こまっていた体の強張りを覚えたのか、大きく溜め息をついた後、震えを懸命に鎮めようとした。指先をまだ震わせながら、辛そうに首を撫で、頭をあちこちに傾けて骨の鳴る音を立てた。幸いにも思ったほど深く根を下ろしていない記憶だった。始緣が安堵したように軽く息を吐いてから、所姬に言った。
始緣 : 実は。
しかし奥底に残る、まだ収まりきらない震えが感じられた。始緣はもどかしさに、なんとしてでも話を伝えたがっていた。
始緣 : 初めて人を殺したわけじゃないんだ。
素っ気なく言葉を放った始緣の声に、所姬がぼんやりしていた視線を再び始緣へ向けた。しかし長く語るつもりはないとでも言うように、ぼろ切れになってしまった服をちらりと見下ろした始緣が、所姬に申し訳なさそうな気色を遠回しに滲ませた。
始緣 : 私の服でもないのに。ごめんね。
所姬 : いいよ。また買えばいいんだから。
始緣 : 誰の?
所姬 : 言ったでしょ。あんたとそっくりな人がいるって。
始緣 : なに、生き別れの双子みたいなクソみたいな朝ドラでもあるまいし。
震える声にもかかわらず何でもないように冗談を投げる始緣の軽口に、所姬が小さく失笑を漏らしながら、新しく汲んできた柄杓の水を手に立ち上がった。
所姬 : 起きたなら洗いなよ。出かけて服でも買おう。
