胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 14.

遅い夕暮れだった。まだ日差しの残る團長(ダンチョウ)の部屋へ、光が押し寄せていた。帳の向こうの気配が退出の支度を整える間に、수정(粹廷:スジョン)が前に座っていた体を先に起こした。

粹廷 : お出になりますか。

團長 : 退廳の刻限になったからな。策士(サクシ)もこのあたりで休むがいい。

粹廷 : かしこまりました。

團長 : 明日、朝礼の前に入るから。地方の鄕主(ヒャンジュ)たちの報告書、きちんと整理しておくように。

粹廷 : はい。

團長が帳を払い、落ち着いた足取りを運んだ。薄い長衫衣を羽織った歩みは速くも遅くもなかった。部屋を出た團長の座を片付けた。帳を再び上げ、補慮(ボリョ)の上を整える粹廷の手捌きもなかなか手慣れていた。座を片付けていた粹廷のポケットで、けたたましい振動が鳴った。粹廷が電話を取った。

지윤(智胤:ジユン) : コン、出たね?

かかってきてはならない電話と内容だった。一人でいた粹廷がしばし周囲を窺った後、小さな声で受話器の向こうから流れ込む智胤の声を窘めた。

粹廷 : そんなことしてたらバレるよ。バレたら密室(ミッシツ)行きだし。

智胤 : 逃げ回っても誰も捕まえられなかったけど。

粹廷 : それでも、あたしの連絡は取ったんだね。逃亡者のくせに。

智胤 : そこそこ旨味のある条件じゃなきゃ無視するっての。

粹廷 : あたしの車に先に行ってて。見つからないように。ナンバーは覚えてるでしょ?

智胤 : 見つかったところで、あいつらに何ができんの。殺す以上のことある?

電話を切った粹廷が座の片付けを止め、外へ歩を運んだ。


Scene 15.

遠くない駐車場まで歩を運んだ粹廷(スジョン)。自分の車の運転席を開ける前に、妙な考えが過った。しばし背後を振り返った後、怪しい考えを拭い切れないまま運転席に体を乗せた。少し深く倒された助手席の上に、身を隠すように座っていた智胤(ジユン)が、粹廷の思案を窺った。

智胤 : 久しぶりに会ったんだから、挨拶ぐらい先にしてくれてもいいのに?

粹廷 : 先にお出になったはずなのに。確かに。

智胤 : コン? まだ車にいるの? 車に乗ったとこまで全部見たんだけど。

粹廷がしばし思案を棚上げし、エンジンをかけて車をゆっくり動かした。わざと團長の車両の真横に寄せながら中を覗いたが、車は空だった。

智胤 : あれ、確かに、この車に乗ったのに。

気にも留めない智胤に、粹廷がきちんと運転を始めながらポケットから小さな鈴を三つ取り出して渡した。

粹廷 : 道に迷わないようにちゃんと持ってて。

智胤 : は。毎日追いかけてばっかいたのが追われる側に回んのクソだるかったわ。死亡処理はちゃんとやってよ。

粹廷 : だからって調子に乗って暮らせって話じゃないから、ほどほどに暴れな。

智胤 : あたしはさ、オンニに言われた仕事でもしながら金でも稼ぎゃいいんでしょ。適当な仕事くれるっしょ。まあ。バレたらオンニもヤバいんだし。

粹廷 : あんたみたいに口の軽い人間は末端の仕事でもやるんだよ。

智胤 : それあたしが言いたいやつ。面倒で難しいのはごめんだから。

粹廷 : 持ち出すもんは全部持ってきた?

智胤 : 呪いかけたり銃の撃ち方教えたりすりゃいいんでしょ? どうせ呪術(ジュジュツ)みたいなのは教える必要もないだろうし。そういえば、ユイセキオッパは元気にしてる?

粹廷 : 変わんないよ。

智胤 : そりゃそうでしょ。

粹廷 : あんたを追ってたのだってどうせオッパが指示したことなのに、オッパに何の用? 復讐でもする気? 横領したのは事実でしょ? バレて集賢館(シュウケンカン)の人間殺したのも事実だし。それで廃位されたなら、おとなしく息潜めて暮らしなよ。

智胤 : 分かってるって。復讐なんて柄にもない話だし。面倒くさいし。でも、ちゃんと言おうよ。今だってオンニがあたしを呼んだんじゃないじゃん。違う? オッパが指示したんでしょ。

粹廷は智胤の問い返しに答えなかった。

智胤 : 使って要らなくなったら廃棄するんでしょ。要らなくならないように振る舞うのが一番大事なわけで。あたしの立場じゃ、逃げるよりくっつく方がマシだと思っただけだよ。

粹廷 : 賢いね。

智胤 : あたしらがケツ振るの一年二年やってきたと思ってんの? 変態みたいな女どもの中で空気読んで生き延びるにはしょうがないじゃん? 残るのは嗅覚だけだっての。

粹廷 : 廃位より確実なのは死ぬことだからね。

智胤 : それも終わりじゃなけりゃなお良いし。無意味に冥土(ジョスン)で過ごす気はないよ。まだ。

粹廷 : 任されたことだけちゃんとやりな。残りはなるようになるから。


Scene 16.

玄関が開いた。疲れたように靴を叩きつけながら居間の中へ踏み入った지영(知暎:ジヨン)の足。そんな知暎を迎えたのは、温かい食事と優しい母の声だった。

知暎 : ただいま。

まだ日が長く傾きながら留まる夕暮れだった。食卓の上に日差しが斜めに差していた。知暎が体も洗わないまま食卓に崩れ落ちるように座った。座るなり額を食卓に貼り付け、眠るような素振りを見せると、熱い汁物を運んでいた知暎の母が知暎に小さな小言を投げた。

이심(以心:イシム) : 起きなさい~ そんなことしてたら熱いスープで火傷するよ。

知暎 : あーもう、部長(ブチョウ)のクソ野郎マジで、頭だけはデカくてさ。ぶん殴ってやろうかと思ったわ。

顔も上げない知暎の嘆きと苛立ちにも、以心は格別の反応もなく、煮え立っていた汁碗の蓋を開けた。

以心 : 今日も部長に怒られたの??

知暎 : ヨンヒが無事に帰るとこまで見届けようと思って見守ってたら、一睡もできなくて遅刻までしたんだよね。

知暎が手首に嵌めていたブレスレットを外し、食卓の上に投げやりに置いた。すべての膳を整え終えた後、知暎の肩をあやすように叩いた。知暎が外しておいたブレスレットを再び嵌めてやり、自分の席に着いて、知暎が体を起こすのを待つようにしばし見つめた。知暎は伏せた体を起こさなかった。

知暎 : ソヒは? 今日来なかったの?

以心 : 何日かシヨンの面倒見に行かなきゃいけないんだって。後で電話でもしてあげて。

知暎がゆっくりと額を離した。


Scene 17.

深い眠りだった。何の記憶もないほど深く眠り込んでいたのは確かだった。行くあてなどあるだろうか。諦めの早い시연(始緣:シヨン)だったから、横たわった体のまま深い眠りに沈んでいた。次第に日が傾き夜が訪れたとき、始緣は自分でも知らずはっと驚いた気配で目を覚ました。ただベッドではなかったから、変わった寝床だったから、冷たい地べたで眠っていたから、痺れるほどの痛みとともに目が覚めたのだと思った。大きな窓の向こうには、遥かな夜闇が広がっていた。始緣が自分の短いズボンの下に覗く肌を見下ろした。足の爪先から始まった黒い痣が、足の甲を越え足首まで広がっていた。始緣が感じていた痛みの正体だった。足に纏っていた黒い痣が、始緣の戻った意識とともにゆるりと下へ沈んでいった。仰天して、もがくように寝床から遠ざかった。本当に自分を貪ろうとする死が、目と鼻の先に留まっている心地だった。いつも強がって過ごそうとしていた始緣だったが、今置かれた状況は始緣の感情すべてを恐怖に追い込んでいた。四方を素早く見回した。何も存在しなかった。幸いだったが、不幸だった。不幸だった。始緣が体を丸めたまま、周囲を見渡すこともできない有様になった。重く閉ざされていた鉄の扉が開き、粹廷(スジョン)がゆっくりと入ってきた。そんな始緣の状態を予期していたかのように、静かに入ってきた粹廷の目は揺るがなかった。

粹廷 : やっぱり、あんたも日が沈んでから眠っちゃダメだね。

むしろ薄い笑みを湛えているようにさえ感じられた。入ってきた粹廷が始緣をじっと見下ろした。靴の爪先を持ち上げ、始緣の背腰をじわりと踏んだ。残りの正気を取り戻せという意味だったが、正気とともに戻ってくるのは踏みつけられた体が覚える屈辱だった。だが正気を手放した深呼吸を絶え間なく繰り返し、押し寄せていた今の恐怖を無視しようと足掻いた。粹廷が痛ましげな表情を浮かべた。始緣の背腰に乗せていた足を降ろした。ゆっくりと離れた粹廷が姿勢を低くし、始緣の視線と同じくらいの高さに腰を落として始緣の髪を掴み上げた。恐怖にまみれた始緣が、粹廷を見て問おうとした。このすべての状況が何なのか、ちゃんと説明してほしいという様子だった。始緣の顔には屈辱と恐怖がともに刻まれていた。うまく吐けない息を口から漏らし、悲痛な恐怖を噛みしめていたとき、粹廷が始緣の頬を撫でた。

粹廷 : あらあら。怖いんだね。

始緣がゆるりと頷いた。死という恐怖の前では、虚勢も強がりも何の役にも立たなかった。始緣が粹廷に懇願するように目で訴えた。今この状況をどうにかして助けてほしいという眼差しだった。粹廷はそんな始緣を理解するように、おとなしく抱き寄せてあやした。

粹廷 : よかった。怖がってくれて。

始緣がひたすらに頷いた。抱いていた始緣をゆっくりと離した。

粹廷 : だから、うまくやれるよ。

粹廷が一人で入ってきたのではなかった。粹廷の背の向こうから入ってきた別の気配に、始緣がしばし自分を立て直した。粹廷から離れた始緣が疑念をたっぷり抱えたまま、粹廷をまた見据えた。粹廷が穏やかな表情で始緣に言葉を継いだ。

粹廷 : ひょっとしたら、いっそ殺してくれって言うかもしれないからね。

智胤(ジユン)が腰元から銃を抜き、そのまま始緣を撃った。

智胤 : クソ綺麗な顔してんな。まあ、そうじゃなきゃ売れないか。

粹廷の脇をすり抜けながら撃ち込まれた弾丸に、始緣が後ずさりしながら切迫した悲鳴を上げた。智胤が遠ざかる始緣を淡々と追いかけながら、弾をすべて撃ち尽くすまで撃った。轟音が四方に響いたが、本当に誰一人気にも留めなかった。始緣の体から검은 물(黑水:コムンムル)が四方に跳ね上がった。始緣が目一杯に体を丸め、苦痛に耐えようと足掻いたが、黙々と弾を込めた智胤はただ不思議そうな顔で始緣と粹廷を交互に見た。

智胤 : ホントだ。不思議なもんで。

粹廷 : 夜はあれの意識を失わせないで。何としてでも起こして。見たでしょうけど、夜に眠ると雑なものが群がってくるから面倒になるかもしれないよ。

粹廷が智胤の脇を通り過ぎていった。智胤が呻き声だけを漏らす始緣に銃口を向けたまま、そのまま立っていた。顔をちらりと振り向け、出ていく粹廷に声をかけた。恐怖に理性を失った始緣は震える体をどうすることもできずにいた。丸めた体から流れ出ていた黑水が床をじっとりと濡らしていた。凄惨な苦痛がまだたっぷり残っているかのように、始緣は目すらまともに開けられずにいた。

智胤 : 意識さえあればいいんでしょ? こいつトカゲみたいにどんどん生えてくるし。

粹廷が首の動きで答えに代えた。

粹廷 : 遅くならないうちに来るから、きちんと仕上げて。

気の抜けた声を残したまま、その場を離れた。粹廷が扉を閉め、アパートの薄汚れた廊下に出たとき、中からけたたましい銃声と悲鳴が再び響いてきた。重苦しい壁の向こうから聞こえる悲鳴だった。誰も関心すら寄せない、誰も住んでいないがらんどうのアパートだった。管理用の電力を除けば各戸に電気すら通っていない、薄汚れたアパートだった。エレベーターだけがかろうじて動き、廊下の灯だけがかろうじて点く程度だった。薄暗い道を辿り、粹廷が廊下式アパートの通路をしばし見渡した。確かに、始緣が眠っていた部屋には死体が転がっていなければならなかった。不審を覚えた粹廷が廊下を歩きながら電話機を取り出した。