Scene 13.
소희(所姬:ソヒ)が楽な運動着姿で長い髪をきつく一つに縛り、短い袖口を整えた。洗い上がった시연(始緣:シヨン)も、これといった化粧品がないため、髪だけ適当に乾かし、所姬が渡した服を別の部屋で着て出てきた。所姬がしばし始緣をじっと見つめた。その視線に、始緣はまだ取り乱したままの間の抜けた顔を晒していた。
所姬 : 本当にそっくりだね。
始緣 : 昨日もそれ言ってたけど。何がそっくりなんだよ。
ぶっきらぼうな始緣の声まで同じだった。口調が違うだけで、二十余年ともに過ごした지영(知暎:ジヨン)と瓜二つの始緣が不思議だった。だが時間が多くないと踏んだ所姬が、軽く羽織ったウインドブレーカーの前を合わせ、玄関へ向かおうとした。
始緣 : つうか、ここどこだよ。
所姬 : あたしがしばらくいる場所。あんたの面倒見ながら。
始緣 : なんであたしの面倒見んの。
所姬がジッパーを上げ、ポケットに手を突っ込んだまま、しばしぼんやりとした視線を漂わせた。
所姬 : さあね。
始緣 : 誰かに言われたの?
所姬 : あたしが選んだんだよ。
始緣 : だから何で?
所姬は始緣の子どものような問いに、ぼんやりしていた視線をふと引き戻し、始緣をまっすぐ見据えた。だが簡単には答えない所姬だった。始緣が所姬のぶっきらぼうな沈黙をどうにも理解できないというように、頭を掻いた。所姬が先に玄関へ出た。始緣に合いそうな運動靴を一足取り出して玄関に置いたとき、所姬が出しておいた運動靴に足を通しながら、始緣が不思議そうに呟いた。
始緣 : あたしの足のサイズ、どうやって分かったんだよ。背の割に足小さい方なんだけど。
所姬 : そこまで同じだろうから。
始緣 : シバル、マジで意味わかんねえ。おい、つうかどこ行くんだよ?
始緣の問いに所姬は無言で玄関を開けた。始緣の住処で見た光景と変わらない眺めだった。始緣がぎょっとして所姬を見やった。ここに所姬が住むとは思わなかったという始緣の狼狽だった。そんな始緣を見て、所姬が詰めるように短く訊いた。
所姬 : 何。なに。
始緣 : ここ、あたしのあの、建物。おい。あんたバレたらまずいんじゃ。
所姬 : 灯台下暗し。
始緣 : うわ。このイカれた女見ろよ。
所姬 : 初対面で口が悪いね?
始緣 : 昨日会ったじゃん。半年前? あの時も会ったし。
乾いた初夏のせいで、朝の肌寒さがまだ残っていた。所姬が玄関口に立ち、薄い上着のポケットに手を入れたまま、始緣が自分の足で踏み出すのを待つように、しばし時間を与えていた。一歩を踏み出して外へ出た始緣を確かめた所姬が、玄関の扉を閉めながらぶっきらぼうな声を投げた。
所姬 : とりあえず、覆した水は始末しないと。横で見てて。あんたもそのうち分かるようになるけど。
毒々しい普段の化粧を落とした始緣が、素直な瞳をぱちぱちと瞬かせながら、所姬の言うとおりについて出た。だが思ったより足が容易には進まなかった。
所姬 : 分かってる。急かさないから。でも、少しは慣れないと。どのみちあんたが片付けるわけじゃないし。
始緣の躊躇いを励ました所姬。始緣が辛うじて頷き、歩みに従った。所姬はウインドブレーカーに入れた手をそのまま、ぶっきらぼうに放った言葉をしばし自ら噛み締めながら、始緣の住処の前に辿り着いた。扉を開けると、居間に群がる蠅とともに、早くも腐り始めた死体が臭気を漂わせていた。だが当の所姬は何食わぬ顔で、運動靴を履いたまま中へ踏み入っていた。状況を受け止められないのは始緣の方だった。とても中へ入れずにいる始緣の手をそっと握った所姬が、始緣を掴んで引き入れた。顔を懸命に背ける始緣。一体なぜこんな状況に自分が置かれているのか、見当もつかなかった。所姬が片手を出し、赤い糸玉を流し放った。袖口に連なる長衫袍(ジャンサンポ)のように、赤い糸玉が所姬の片手を覆い隠し、長く赤い布を紡ぎ出した。始緣を握っていたもう片方の手を始緣の手からそっと離し、ともに前へ差し出して、赤い長衫袍を両手にまとった姿を形作った。長衫袍(ジャンサンポ)の裾を振り撒くように、腕を大きく翻した。目を逸らしていた始緣が、所姬の赤い舞の姿をちらちらと盗み見ていた。古い舞に見える所作をしばし見せた所姬。所姬の袖口に連なった赤い長衫袍がたなびきながら降りた。所姬がゆるりと手を引き出し、合わせるように合掌して腰を深く折った。火薬が弾けるような小さな爆発音が響いた。蒼い煙の中から出っ歯を覗かせた、蒼みがかった小さな도깨비(鬼:トッケビ)が一匹、蒼い煙の間からひょっこり飛び出した。
春宰 : キムソバン! 今日はどういった風の吹き回しだい?
所姬が合掌したまま折っていた腰を少し上げ、現れたトッケビに懐かしげな挨拶を返した。
所姬 : あ、춘재(春宰:チュンジェ)님がいらっしゃるとは。
春宰 : 頭目の小さな、小さな友が呼んだもんで、おれが内緒で出てきたのさ。この前の濁酒の席もありがたかったし。キムソバン家のキムソバンがまた面白い話を聞かせてくれるかと思ってな。
所姬 : ありがとうございます。お呼びに応じてくださって。
春宰 : ん?
小さな棍棒を肩に担いだ春宰というトッケビが、始緣を見てわざとらしく驚いた顔をした。
春宰 : き、キムソバン。あのキムソバンは。
所姬 : はい。死者(シジャ)でございます。
春宰 : アニ、ああ何と、おやおや。やれやれ。現世(イスン)に死者が足をつけているとは。こいつは、頭目が知ったら大騒ぎになるぞ。
所姬 : 私どものオンニが直接お話し申し上げます。すでに、頭目様も多少はご存じでいらっしゃいますし。しばし見て見ぬふりをしていただければ……。
所姬の説得に、小人よりもなお小さく蒼いトッケビが、大監にでもなったかのように小さく空咳を零した。
春宰 : まあ、うん。ふむ。そうだな、とにかく。それで、おれを呼んだわけは。
所姬 : 後ろに。
春宰がちらりと首を回したとき、二体の死体を確かめた。
春宰 : ああ。なるほど。こういうのは簡単さ。
両の掌に唾を吐いた後、棍棒を両手で握り締め、肩を揺すりながら興に乗った仕草をふわりと躍らせた。始緣は今起きていることを目にしながらも、信じられないという表情を浮かべるばかりだった。棍棒が死体の体を打つと蒼い炎が跳ね上がり、瞬く間に灰も残さず燃え尽きていった。弾む棍棒の浮かれた仕草が、一帯のあらゆる死体と痕跡を蒼い炎に焼き送った。棍棒を床にとんと突いた後、見せつけるように蒼い인불(人火:インブル)に乗せ、死んだ者たちの痕跡を一度に消し去った春宰。春宰が自ら腕前を誇るように出っ歯を見せ、晴れやかな笑みを浮かべたまま所姬をちらりと見やった。
所姬 : 今日も、ありがとうございます。
春宰 : おれたちゃあ、干し柿と話さえもらえりゃ、いつだって呼んでくれていいのさ。요승(妖乘:ヨスン)がいかんせん退屈でなあ、現世に足繁く来たいのもあるし。濁酒を一杯、頭目に隠れて飲むのが、おれはそりゃあ好きなんだ。
所姬 : たくさんのお話を差し上げたいのですが、今日は時間があまりございませんで。後日、機会がございましたら改めてお越しくださいませ。面白い話をお聞かせいたします。
春宰 : そうか。まあ、おれは今日は何も見てないからな。
所姬 : はい。ご安心くださいませ。
終始ぶっきらぼうだった所姬の声が、丁寧な恭しさを湛えていた。そんな所姬に手を振って挨拶を送った後、小さな爆竹の音とともに姿を消した春宰。所姬が腕をふわりと払い、袖口に連なっていた赤い長衫袍を霧散させた。始緣は今自分が目にしたすべての状況を、理解すらできずにいた。そもそも理解できることではなかった。
所姬 : あのトッケビ様が見えたでしょ。トッケビはあたしたちみたいに力を持った人間か、死んだ人間じゃないとなかなか見えないんだよ。
始緣 : トッケビ? マジで? いるの? あれが?
所姬 : 人間をキムソバンと呼んで、いつもあたしたちを助けてくださるの。困ったことがあればいつだって後始末をしてくださる方たちだよ。多分、聞いたこともないでしょ。このすべてのこと。あんたが死ぬ前、あたしたちみたいな人間を知らなかった理由の一つが。さっき見たトッケビ様の後始末とあわせて、起きた事件の分だけ時間を巻き戻せる呪術(ジュジュツ)の行いのせいなんだけど。
始緣 : 時間を巻き戻すって……??
所姬 : 今は呪術も、呪術を使った目撃者もいなかったから、あたしが見せることはできないけど、見せない方が一番いい状況でもあるんだよ。
始緣 : それまたどういう意味だよ。
所姬 : 事件が起きる前に時間を戻す代わりに、その分だけ呪術を展開した人間の命も縮む。時間を戻した分だけ、あたしの命が短くなるってこと。
始緣 : つうか、こういうのあたしも全部知っとかなきゃダメなの?
所姬 : もう知ってるよ。
始緣 : あたしが?
所姬 : あんたが飲み込んだ검은 모래(黒砂:コムンモレ)。黒砂を操る呪術師が全部の情報を詰め込んで、あんたの頭の中に植え付けたんだから。それが入りすぎたせいであんたに頭痛が来てるの。それをあたしは흰 모래(白砂:フィンモレ)を操る呪術師に頼んで、情報が順番に入るようにしたんだよ。だからあんたが痛くなくて済んだの。だんだん分かるようになるよ。一つずつ。
これらすべての状況を見守った始緣が、黙って躊躇っていた。知ることはできるとはいえ、受け入れ難い話ばかりが山のように積まれていた。怖気づいた始緣のためらいと、逃げ出したいという気勢を、所姬が知らぬはずはなかった。深い本心とは違う言葉を始緣に向けた。慰めではない慰めであり、つい最近まで所姬自身も抱えていた束の間の迷いだった。始緣も変わるまいという判断から、本心と異なる勧めを始緣にそれとなく差し出した。
所姬 : 逃げたいなら逃げてもいいよ。受け入れるの辛いだろうし。でも。
始緣 : でも?
所姬は始緣の問い返しに容易く答えられなかった。ポケットに手をまた入れ、体を翻して外へ向いたとき、一人呟くように答えた。
所姬 : ただ。そうしないでほしい。
玄関口に立った所姬が、中で物思いに沈んだ始緣を促すように呼んだ。
所姬 : もうすぐ、あの女が来るよ。逃げるなら今が最後のチャンスだろうね。もうあたしにはあんたの道が見えない以上、あんたを追うことはできない。もちろん、追いもしない。あんたが本当に必要だけど、あたしが選んだことだけど、あんたの選択が先。まだ、あんたは何も選んでない。あんたが選ぶなら、あたしは無視しない。恨みもしないから。
始緣 : じゃあ、あんたは。どうなるんだよ。
所姬の言葉を遮るように渡ってきた始緣の問いに、所姬はしばし答えなかった。
所姬 : あたしの選択が間違いだったって認めればいいだけだよ。だから、あたしの心配はしなくていいから、あんたのことをまず考えな。あんたが先。
素っ気ない言葉の内に籠もった悔恨が滲んでいた。しばし思い悩んでいた二人の足がそのまま止まっていた。始緣を一人残して立ち去ろうにも、所姬の小さな足がどうにも離れなかった。過ぎた日のことが絶え間なく浮かんでいた始緣は、黙って立ったまま指先を震わせていた。その姿をしばし見つめた所姬が、深い溜息を吐き、ポケットから흰 모래(白砂:フィンモレ)の詰まった小さな瓢箪瓶を取り出した。
所姬 : ごめん。
始緣 : ……何が……。
所姬 : あたしにもう少し才があったなら、こうしてわざわざ他人の手を借りなくても済んだのに。あたしが直接あんたにいい記憶をあげられたのに。
所姬が始緣に小さな瓢箪瓶をそっと差し出した。
所姬 : 少し薄まるよ。怖いもの。
所姬が渡した瓢箪瓶をそっと手に取り、震える手をもじもじさせながら、呟くように独り言を零した。
始緣 : まずかったんだよな。これ。
所姬 : 言ったけど、薬みたいなもんじゃないよ。あんたの中にあるいい記憶を、少しだけ先に思い出させるものだから。
始緣 : じゃあ意味ないな。
所姬 : なんで。
始緣 : そういうの大してないから。
所姬 : 作ればいいじゃん。これから。ここでも、どこか別の場所でも。
所姬の淡々とした慰めだった。始緣が手にした瓢箪瓶から一瞬視線を外し、慰めを寄越した所姬を見つめた。所姬の気取らないぶっきらぼうさに、始緣は文句も言わず瓢箪瓶の中の白砂をすべて飲み干した。始緣の空になった瓶を所姬がまた受け取った。ポケットにしまい込んだ小さな瓢箪瓶を指先でいじりながら、所姬が再び歩を進めようとした。
所姬 : 今日は、特に気をつけて。危ないことが多いだろうから。もしも、離れると決めたなら、それがどこであっても、そこでもいつも気をつけて。
さほど長い時間は経っていなかった。所姬が長い言伝とともに玄関を離れた。始緣が不思議なほどがらんと空になった部屋をぼんやりと見回した。血と肉片と蠅がひとかたまりに群がっていた光景がたちまち消え去り、始緣が初めて来たときのそのままの姿をした部屋を見ながら、床にどさりとへたり込んだ。着ている他人の服をしばし見下ろした。震えていた指先も次第に鎮まり、深いところに巣食っていた恐怖も次第に薄れていった。言うべき言葉がなかった。聞いてくれる人もいなかった。聞いてほしいと願う人も、これまではいなかったように思えた。深く垂れ込めていた孤独が、この数日で凪いだような心地だった。怖かったが、また独りになりたくもなかった。どちらがより大きな苦痛なのか、量ろうとしていた深い逡巡がやがて果てを見せたかのように、始緣はいきなり床に大の字に寝転がった。迷いと恐れを退けた始緣が、重くなった瞼をゆるりと下ろし始めた。
소희(所姬:ソヒ)が楽な運動着姿で長い髪をきつく一つに縛り、短い袖口を整えた。洗い上がった시연(始緣:シヨン)も、これといった化粧品がないため、髪だけ適当に乾かし、所姬が渡した服を別の部屋で着て出てきた。所姬がしばし始緣をじっと見つめた。その視線に、始緣はまだ取り乱したままの間の抜けた顔を晒していた。
所姬 : 本当にそっくりだね。
始緣 : 昨日もそれ言ってたけど。何がそっくりなんだよ。
ぶっきらぼうな始緣の声まで同じだった。口調が違うだけで、二十余年ともに過ごした지영(知暎:ジヨン)と瓜二つの始緣が不思議だった。だが時間が多くないと踏んだ所姬が、軽く羽織ったウインドブレーカーの前を合わせ、玄関へ向かおうとした。
始緣 : つうか、ここどこだよ。
所姬 : あたしがしばらくいる場所。あんたの面倒見ながら。
始緣 : なんであたしの面倒見んの。
所姬がジッパーを上げ、ポケットに手を突っ込んだまま、しばしぼんやりとした視線を漂わせた。
所姬 : さあね。
始緣 : 誰かに言われたの?
所姬 : あたしが選んだんだよ。
始緣 : だから何で?
所姬は始緣の子どものような問いに、ぼんやりしていた視線をふと引き戻し、始緣をまっすぐ見据えた。だが簡単には答えない所姬だった。始緣が所姬のぶっきらぼうな沈黙をどうにも理解できないというように、頭を掻いた。所姬が先に玄関へ出た。始緣に合いそうな運動靴を一足取り出して玄関に置いたとき、所姬が出しておいた運動靴に足を通しながら、始緣が不思議そうに呟いた。
始緣 : あたしの足のサイズ、どうやって分かったんだよ。背の割に足小さい方なんだけど。
所姬 : そこまで同じだろうから。
始緣 : シバル、マジで意味わかんねえ。おい、つうかどこ行くんだよ?
始緣の問いに所姬は無言で玄関を開けた。始緣の住処で見た光景と変わらない眺めだった。始緣がぎょっとして所姬を見やった。ここに所姬が住むとは思わなかったという始緣の狼狽だった。そんな始緣を見て、所姬が詰めるように短く訊いた。
所姬 : 何。なに。
始緣 : ここ、あたしのあの、建物。おい。あんたバレたらまずいんじゃ。
所姬 : 灯台下暗し。
始緣 : うわ。このイカれた女見ろよ。
所姬 : 初対面で口が悪いね?
始緣 : 昨日会ったじゃん。半年前? あの時も会ったし。
乾いた初夏のせいで、朝の肌寒さがまだ残っていた。所姬が玄関口に立ち、薄い上着のポケットに手を入れたまま、始緣が自分の足で踏み出すのを待つように、しばし時間を与えていた。一歩を踏み出して外へ出た始緣を確かめた所姬が、玄関の扉を閉めながらぶっきらぼうな声を投げた。
所姬 : とりあえず、覆した水は始末しないと。横で見てて。あんたもそのうち分かるようになるけど。
毒々しい普段の化粧を落とした始緣が、素直な瞳をぱちぱちと瞬かせながら、所姬の言うとおりについて出た。だが思ったより足が容易には進まなかった。
所姬 : 分かってる。急かさないから。でも、少しは慣れないと。どのみちあんたが片付けるわけじゃないし。
始緣の躊躇いを励ました所姬。始緣が辛うじて頷き、歩みに従った。所姬はウインドブレーカーに入れた手をそのまま、ぶっきらぼうに放った言葉をしばし自ら噛み締めながら、始緣の住処の前に辿り着いた。扉を開けると、居間に群がる蠅とともに、早くも腐り始めた死体が臭気を漂わせていた。だが当の所姬は何食わぬ顔で、運動靴を履いたまま中へ踏み入っていた。状況を受け止められないのは始緣の方だった。とても中へ入れずにいる始緣の手をそっと握った所姬が、始緣を掴んで引き入れた。顔を懸命に背ける始緣。一体なぜこんな状況に自分が置かれているのか、見当もつかなかった。所姬が片手を出し、赤い糸玉を流し放った。袖口に連なる長衫袍(ジャンサンポ)のように、赤い糸玉が所姬の片手を覆い隠し、長く赤い布を紡ぎ出した。始緣を握っていたもう片方の手を始緣の手からそっと離し、ともに前へ差し出して、赤い長衫袍を両手にまとった姿を形作った。長衫袍(ジャンサンポ)の裾を振り撒くように、腕を大きく翻した。目を逸らしていた始緣が、所姬の赤い舞の姿をちらちらと盗み見ていた。古い舞に見える所作をしばし見せた所姬。所姬の袖口に連なった赤い長衫袍がたなびきながら降りた。所姬がゆるりと手を引き出し、合わせるように合掌して腰を深く折った。火薬が弾けるような小さな爆発音が響いた。蒼い煙の中から出っ歯を覗かせた、蒼みがかった小さな도깨비(鬼:トッケビ)が一匹、蒼い煙の間からひょっこり飛び出した。
春宰 : キムソバン! 今日はどういった風の吹き回しだい?
所姬が合掌したまま折っていた腰を少し上げ、現れたトッケビに懐かしげな挨拶を返した。
所姬 : あ、춘재(春宰:チュンジェ)님がいらっしゃるとは。
春宰 : 頭目の小さな、小さな友が呼んだもんで、おれが内緒で出てきたのさ。この前の濁酒の席もありがたかったし。キムソバン家のキムソバンがまた面白い話を聞かせてくれるかと思ってな。
所姬 : ありがとうございます。お呼びに応じてくださって。
春宰 : ん?
小さな棍棒を肩に担いだ春宰というトッケビが、始緣を見てわざとらしく驚いた顔をした。
春宰 : き、キムソバン。あのキムソバンは。
所姬 : はい。死者(シジャ)でございます。
春宰 : アニ、ああ何と、おやおや。やれやれ。現世(イスン)に死者が足をつけているとは。こいつは、頭目が知ったら大騒ぎになるぞ。
所姬 : 私どものオンニが直接お話し申し上げます。すでに、頭目様も多少はご存じでいらっしゃいますし。しばし見て見ぬふりをしていただければ……。
所姬の説得に、小人よりもなお小さく蒼いトッケビが、大監にでもなったかのように小さく空咳を零した。
春宰 : まあ、うん。ふむ。そうだな、とにかく。それで、おれを呼んだわけは。
所姬 : 後ろに。
春宰がちらりと首を回したとき、二体の死体を確かめた。
春宰 : ああ。なるほど。こういうのは簡単さ。
両の掌に唾を吐いた後、棍棒を両手で握り締め、肩を揺すりながら興に乗った仕草をふわりと躍らせた。始緣は今起きていることを目にしながらも、信じられないという表情を浮かべるばかりだった。棍棒が死体の体を打つと蒼い炎が跳ね上がり、瞬く間に灰も残さず燃え尽きていった。弾む棍棒の浮かれた仕草が、一帯のあらゆる死体と痕跡を蒼い炎に焼き送った。棍棒を床にとんと突いた後、見せつけるように蒼い인불(人火:インブル)に乗せ、死んだ者たちの痕跡を一度に消し去った春宰。春宰が自ら腕前を誇るように出っ歯を見せ、晴れやかな笑みを浮かべたまま所姬をちらりと見やった。
所姬 : 今日も、ありがとうございます。
春宰 : おれたちゃあ、干し柿と話さえもらえりゃ、いつだって呼んでくれていいのさ。요승(妖乘:ヨスン)がいかんせん退屈でなあ、現世に足繁く来たいのもあるし。濁酒を一杯、頭目に隠れて飲むのが、おれはそりゃあ好きなんだ。
所姬 : たくさんのお話を差し上げたいのですが、今日は時間があまりございませんで。後日、機会がございましたら改めてお越しくださいませ。面白い話をお聞かせいたします。
春宰 : そうか。まあ、おれは今日は何も見てないからな。
所姬 : はい。ご安心くださいませ。
終始ぶっきらぼうだった所姬の声が、丁寧な恭しさを湛えていた。そんな所姬に手を振って挨拶を送った後、小さな爆竹の音とともに姿を消した春宰。所姬が腕をふわりと払い、袖口に連なっていた赤い長衫袍を霧散させた。始緣は今自分が目にしたすべての状況を、理解すらできずにいた。そもそも理解できることではなかった。
所姬 : あのトッケビ様が見えたでしょ。トッケビはあたしたちみたいに力を持った人間か、死んだ人間じゃないとなかなか見えないんだよ。
始緣 : トッケビ? マジで? いるの? あれが?
所姬 : 人間をキムソバンと呼んで、いつもあたしたちを助けてくださるの。困ったことがあればいつだって後始末をしてくださる方たちだよ。多分、聞いたこともないでしょ。このすべてのこと。あんたが死ぬ前、あたしたちみたいな人間を知らなかった理由の一つが。さっき見たトッケビ様の後始末とあわせて、起きた事件の分だけ時間を巻き戻せる呪術(ジュジュツ)の行いのせいなんだけど。
始緣 : 時間を巻き戻すって……??
所姬 : 今は呪術も、呪術を使った目撃者もいなかったから、あたしが見せることはできないけど、見せない方が一番いい状況でもあるんだよ。
始緣 : それまたどういう意味だよ。
所姬 : 事件が起きる前に時間を戻す代わりに、その分だけ呪術を展開した人間の命も縮む。時間を戻した分だけ、あたしの命が短くなるってこと。
始緣 : つうか、こういうのあたしも全部知っとかなきゃダメなの?
所姬 : もう知ってるよ。
始緣 : あたしが?
所姬 : あんたが飲み込んだ검은 모래(黒砂:コムンモレ)。黒砂を操る呪術師が全部の情報を詰め込んで、あんたの頭の中に植え付けたんだから。それが入りすぎたせいであんたに頭痛が来てるの。それをあたしは흰 모래(白砂:フィンモレ)を操る呪術師に頼んで、情報が順番に入るようにしたんだよ。だからあんたが痛くなくて済んだの。だんだん分かるようになるよ。一つずつ。
これらすべての状況を見守った始緣が、黙って躊躇っていた。知ることはできるとはいえ、受け入れ難い話ばかりが山のように積まれていた。怖気づいた始緣のためらいと、逃げ出したいという気勢を、所姬が知らぬはずはなかった。深い本心とは違う言葉を始緣に向けた。慰めではない慰めであり、つい最近まで所姬自身も抱えていた束の間の迷いだった。始緣も変わるまいという判断から、本心と異なる勧めを始緣にそれとなく差し出した。
所姬 : 逃げたいなら逃げてもいいよ。受け入れるの辛いだろうし。でも。
始緣 : でも?
所姬は始緣の問い返しに容易く答えられなかった。ポケットに手をまた入れ、体を翻して外へ向いたとき、一人呟くように答えた。
所姬 : ただ。そうしないでほしい。
玄関口に立った所姬が、中で物思いに沈んだ始緣を促すように呼んだ。
所姬 : もうすぐ、あの女が来るよ。逃げるなら今が最後のチャンスだろうね。もうあたしにはあんたの道が見えない以上、あんたを追うことはできない。もちろん、追いもしない。あんたが本当に必要だけど、あたしが選んだことだけど、あんたの選択が先。まだ、あんたは何も選んでない。あんたが選ぶなら、あたしは無視しない。恨みもしないから。
始緣 : じゃあ、あんたは。どうなるんだよ。
所姬の言葉を遮るように渡ってきた始緣の問いに、所姬はしばし答えなかった。
所姬 : あたしの選択が間違いだったって認めればいいだけだよ。だから、あたしの心配はしなくていいから、あんたのことをまず考えな。あんたが先。
素っ気ない言葉の内に籠もった悔恨が滲んでいた。しばし思い悩んでいた二人の足がそのまま止まっていた。始緣を一人残して立ち去ろうにも、所姬の小さな足がどうにも離れなかった。過ぎた日のことが絶え間なく浮かんでいた始緣は、黙って立ったまま指先を震わせていた。その姿をしばし見つめた所姬が、深い溜息を吐き、ポケットから흰 모래(白砂:フィンモレ)の詰まった小さな瓢箪瓶を取り出した。
所姬 : ごめん。
始緣 : ……何が……。
所姬 : あたしにもう少し才があったなら、こうしてわざわざ他人の手を借りなくても済んだのに。あたしが直接あんたにいい記憶をあげられたのに。
所姬が始緣に小さな瓢箪瓶をそっと差し出した。
所姬 : 少し薄まるよ。怖いもの。
所姬が渡した瓢箪瓶をそっと手に取り、震える手をもじもじさせながら、呟くように独り言を零した。
始緣 : まずかったんだよな。これ。
所姬 : 言ったけど、薬みたいなもんじゃないよ。あんたの中にあるいい記憶を、少しだけ先に思い出させるものだから。
始緣 : じゃあ意味ないな。
所姬 : なんで。
始緣 : そういうの大してないから。
所姬 : 作ればいいじゃん。これから。ここでも、どこか別の場所でも。
所姬の淡々とした慰めだった。始緣が手にした瓢箪瓶から一瞬視線を外し、慰めを寄越した所姬を見つめた。所姬の気取らないぶっきらぼうさに、始緣は文句も言わず瓢箪瓶の中の白砂をすべて飲み干した。始緣の空になった瓶を所姬がまた受け取った。ポケットにしまい込んだ小さな瓢箪瓶を指先でいじりながら、所姬が再び歩を進めようとした。
所姬 : 今日は、特に気をつけて。危ないことが多いだろうから。もしも、離れると決めたなら、それがどこであっても、そこでもいつも気をつけて。
さほど長い時間は経っていなかった。所姬が長い言伝とともに玄関を離れた。始緣が不思議なほどがらんと空になった部屋をぼんやりと見回した。血と肉片と蠅がひとかたまりに群がっていた光景がたちまち消え去り、始緣が初めて来たときのそのままの姿をした部屋を見ながら、床にどさりとへたり込んだ。着ている他人の服をしばし見下ろした。震えていた指先も次第に鎮まり、深いところに巣食っていた恐怖も次第に薄れていった。言うべき言葉がなかった。聞いてくれる人もいなかった。聞いてほしいと願う人も、これまではいなかったように思えた。深く垂れ込めていた孤独が、この数日で凪いだような心地だった。怖かったが、また独りになりたくもなかった。どちらがより大きな苦痛なのか、量ろうとしていた深い逡巡がやがて果てを見せたかのように、始緣はいきなり床に大の字に寝転がった。迷いと恐れを退けた始緣が、重くなった瞼をゆるりと下ろし始めた。
