胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 05.

始緣は己の服に付いた血と黒水(コムンムル)で滲んだ顔を拭う気力すらないまま、崩れた化粧のまま虚ろな視線を乱れさせていた。留まる家の玄関先で物音を立てる気配が聞こえた。気配を感じた瞬間、始緣が首を巡らせるや否や鉄製の玄関扉が荒々しい音を立て、引き剥がされるように乱暴に開いた。険しい面構えの三、四人の男が入ってきた。踏み入った一人が、怯むように身を引く始緣の頭をいきなり足で大きく蹴りつけた。始緣の額が見知らぬ男の続く手荒い殴打で裂け始めた。唇が腫れ上がり弾け、黒い水が横へ飛び散った。始緣を床に叩きつけた後、倒れた始緣を真ん中に置いて四方を囲むように陣取った。見知らぬ者たちが始緣を蔑むように見下ろしていた。後退りして逃れようとした始緣の首を足で踏みつけ、起き上がれぬよう押さえつけると、始緣が両手で喉を絞めるように押さえつけた男の足首を掴み、引き抜こうとした。嘲る者たちの嗤いが、黒い水をべったり付けたまま、何の傷跡も残らぬ始緣に届いた。このまま踏み潰して始緣の首の骨を折ろうとするかのように、次第に激しく踏みつける足先の力に、始緣は咳すらまともに吐けない有様になっていった。蒼白に変わった始緣の顔色とひっくり返りゆく瞳を見ながら、ニヤつくように愉しみ始めた頃、しばし互いに目配せした後、ゆっくりと足から力を抜いて始緣を放した。荒々しく咳き込みながら辛うじて息を整える始緣は、己の体を支えることすらできなかった。恐怖をたっぷり呑み込み、素早く周囲を見回した。怯えた始緣の視線を愉しむように、始緣の首を踏みつけていた男が膝を落とし、倒れていた始緣の絡まった髪を無理矢理掴み上げた。始緣と視線を合わせるように前にしゃがみ込んだ。

傭兵 (ヨウヘイ)_05 : どこにやった?

始緣 : な、何を。

傭兵_06 : 横領した金だよ。

無実だった始緣はまともに答えることもできなかった。荒々しく首を横に振り、自分はやっていないと示したが、誰もその意を信じるはずがなかった。信じたとしても、始緣の望み通りに放っておくはずもなかった。始緣の頬を拳で殴りつけ、始緣の口から真実を吐き出させるつもりだった。立て続けに振るわれた拳に、始緣の口から傷が裂け、血ではなく黒い水が横へ飛び散った。床に転がった始緣をさらに踏みつけ、始緣を容赦しなかった。倒れた始緣を己の憂さ晴らしにしようとするかのように、蹴りと殴打は途切れなかった。倒れた始緣の目に、床へ流れ出た体液が映った。体に刻まれた傷から飛び散った体液は、赤い血ではなかった。誰も意に介さなかったが、始緣は己の回った視界に映る黒い水の流れを見分けた。憎悪も、恐怖も、何の感情も湧かぬまま、しばし呆然とした視線で己の傷から飛び散った黒い水を見つめた。始緣が己の裂けた唇を片手で遅れて撫でた。拭った手にも黒い水が残っていた。倒れていた始緣の髪を再び乱暴に掴み上げて半ば座らせ、黒く染まった始緣の口から己らが聞きたい答えを引き出そうと、拳を再び激しく振るった。鈍い音が続いた。肉と肉が荒々しく摩擦を起こす音だった。拳ひとつと始緣の髪を掴んでいた腕が居間の上に落ち、板の間の上を赤く染めた。驚きのあまり何の反応も示せなかった男の首がそのまま切り落とされた。頭が床に落ちるまでの短い刹那だった。恐怖に怯えていた様とは異なる空気を纏った始緣が、呆然とした視線のまま床から捩じるように己の体を起こし、残った者たちを周囲に置いたまま、その場にすっくと立った。主を失った頭が床に落ちて鈍い音を立てた。訳は分からなかったが、重要ではなかった。一人が素早く我に返り、懐から短い刃物を取り出し、始緣の血の付いた服の上を力いっぱい突き刺した。始緣が刃を腹に受けたまま、己を刺した男の手首を掴み、何の表情も浮かべぬまま手首を力任せに握り、丸ごと引き千切った。始緣が己の腹に刺さっていた刃を自ら引き抜き、己に刃を突き立てた男の首を刃で切り裂いた。男の首が半ばだけ切れたまま揺れ下がった時、始緣がそのまま足を回すように踏み替え、まだ手に握った刃で背後に立っていた男の目を突き刺した。瞬く間に起きた殺戮に、残った一人は何もできずに呆然とした表情のまま始緣を見つめた。目に刃が刺さった男まで床に力なく崩れ落ちると、残ったのは己だけだと知ったただ一人の男。始緣が嗤いをたっぷり含んだまま歩みをゆっくり運ぼうとした時、ぬかるむ床の血が始緣の素足に触れた。始緣がその場にすっくと立ち止まり、のろりとした嗤いを含んだまま床を見下ろした。遅れて己が犯した一瞬の出来事を見渡した始緣が、前に立って始緣自身を恐怖の眼差しで見つめる男と目を合わせた。のろりとした嗤いはいつしか始緣の顔から消えていた。始緣は己が犯したことではないとでも言うように、いや、信じられないとでも言うように、何が起きたのか信じることすらできないとでも言うように、己の手に付いた他者の血を震える手を辛うじて持ち上げ、しばし見下ろした。

傭兵_07 : な、おい。

言葉すら詰まる男を意に介さぬ始緣が、力の抜けた膝を折り、床に崩れ落ちるようにへたり込んだ。男がようやく足を運んで後退った。始緣をそのまま放り出したまま、外へ素早く逃げ去った男。始緣が己の手を見つめ、周囲で死んでいる二体の屍を呆然と見やった。瞬間。押し寄せる嘔気に嘔吐を吐き出した。しばらく続いた嘔吐を堪えきれなかった始緣が、再び押し寄せた頭痛に頭を抱え、床に崩れ落ちた。


Scene 06.

古びたアパートがさほど遠くない距離に見える公認仲介事務所の内部。一枚ガラスで造られた店内で、所姬(チョ・ソヒ)が契約書への署名を終え、押印まで済ませた。いくらか急いた心持ちで取引を終えた所姬が、怪訝そうに問う仲介人をようやく振り返った。

不動産仲介人 : でも、学生さんはなんであんなボロボロのアパートを買うの? 近くに何もないのに。

印鑑とペンをポケットにしまった所姬は、取り合いもしなかった。大したことでもないように現金を取り出し、仲介人に渡した。

所姬 : 仲介手数料と初月の管理費です。

額を数え、間違いのない金額を確かめるや否や、鍵を所姬に手渡した。所姬が鍵を受け取り、いくらか急いた気分で席を立った。

不動産仲介人 : じき取り壊されるよ。この界隈全部。再開発もされないだろうし。文化財保護区—

お節介な仲介人の続く忠告を無視して、所姬が慌ただしく扉を開けて外へ向かった。仲介事務所の前に停めた自分の車に乗り込んだ所姬が、急いでエンジンをかけ、その場を離れた。


Scene 07.

遠くない距離であったため、所姬の車はすぐにアパートの共用駐車場に辿り着くことができた。駐車線など重要ではないとばかりに急いで車を降りた所姬が、アパートの玄関を通り過ぎ、エレベーターすら待つ間もなく階段を駆け上がった。開いていた玄関を急いで押し開けて中に入った所姬。中には血まみれの二体の屍と、吐瀉物をそのまま敷いて倒れた시연(始緣:シヨン)がいた。痙攣の続く始緣を、所姬が急いで抱え起こした。吐瀉物など意に介さぬ所姬が、始緣を支えるように抱いた後、始緣の口を慎重に開き、用意していた흰모래(白砂:フィンモレ)を流し込んだ。始緣の痙攣が治まり始めた。所姬が公認仲介人から受け取った鍵を確かめた後、始緣を担ぎ上げるように支え、急いでその場を離れた。


Scene 08.

書類があちこちに散っていた。身を縮めながら怒鳴り声を受け止める지영(知暎: カン・ジヨン)の頭が深く沈んでいた。前に座り、叱責と慰めを行き来する中年の上司が、知暎の度重なる遅刻と勤務態度を指摘するかのように、知暎を立たせたまま収まらぬ怒りを浴びせていた。外まで聞こえはしなかったが、こっぴどく叱られているということくらいは誰にでも容易に見て取れる有様だった。知暎が腰を深く折った後、事務室の外へ歩を運んで出てきた。知暎が急いでスーツのズボンのポケットから電話を取り出し、不在着信を確認した。電話を見てから周囲を窺った知暎が、小走りで近くの喫煙所へ向かった。出られなかった電話に遅れた返事を寄越した。

知暎 : うん。クソ怒られてて出れなかった。何かあった?

所姬 : 別にたいしたことじゃないんだけど、契約うまくいったよって。

知暎 : あの子は。

所姬 : かなりよくない。

知暎 : 後でまた降ろさなきゃいけないんでしょ。

所姬 : そう。だから、時間があまりなさそうで、悪いんだけどオンニの服持ってきちゃった。同じだからサイズも同じでしょ。

知暎 : いいよ。そういうの電話しないで持ってって構わないから。

まだ知暎の姿はまともに見えなかった。茂みの合間に据わった知暎の肉厚な唇がわずかに動いた。思いのほか深く感じる疲労感に、知暎がすっかり乾いた唇の上にリップバームを重ねた。

所姬 : とにかく。ありがとう。

知暎 : 何が? 今さら。

所姬 : オンニや。ダンチョウがいなかった—

所姬の短い声と心からの感謝を、知暎が落ち着いた声で遮った。

知暎 : ソヒ。

所姬 : うん。

がさつに軽く喋っていた知暎の声が、静かに沈んだ。微笑みを湛えた知暎の大きな姿が所姬に伝わった。

知暎 : 後悔しないために選んだんでしょ。そうでしょ?

所姬 : うん。

知暎 : じゃあ、もう、そう遠くないよ。私たちがお母さんって呼べる日も。だから、後悔しないでいてほしい。

所姬が知暎の静かな促しにしばし言葉を止めた。知暎を急いで呼びに来た一人の社員の姿を知暎が確認した後、落ち着いていた様子など瞬く間に消え去り、慌てふためいた声を所姬に投げた。

知暎 : あ、シバル。ちょっと待って。また呼ばれてるっぽい。あシバル。マジで。

知暎の悪態と嘆息を最後に電話が切れた。


Scene 09.

切れた電話をポケットにしまった。眩い陽射しが次第に高くなっていった。部屋に置かれた鏡の前で化粧を落とし始めた。弱く見えまいとしていた仮面をひとつずつ剥いだ後、소희(所姬:チョ・ソヒ)がしばし鏡をぼんやりと見つめた。聞こえぬほど深い胸の内で呟いた決意だった。小さな呟きにも不安だった所姬が、目を閉じ、のろいため息を継いだ。所姬が見据えた遥かな道に横たわる皆の事情だった。その悲劇と喜劇の双方が揃ってこそ解ける糸口だった。所姬は皆にひどい選択を強いた罪人のように、頭を垂れ、閉じた目のまま、遠くにある希望に向かって盲目的に抱いていた自責を仕舞い込んだ。背筋をまっすぐに伸ばした。居間に出た所姬が、あらかじめ運び入れてあった家具のうち、長く据えられたソファの上に横たえておいた시연(始緣:イ・シヨン)に向かった。近づく所姬の気配に、始緣がぎくりとして目を開け、ソファに横たわっていた体を飛び起きるように起こした。驚いたのは所姬も同様だった。所姬の姿を見ていくらか安堵した始緣が、まだ震える体をかろうじて立て直し、横たわっていた体をまともに座らせようと素足をようやく降ろした。

所姬 : 大丈夫?

始緣が頷いた。所姬が黙って部屋に入り、지영(知暎:カン・ジヨン)の衣類とタオルを持ち出してきた。

所姬 : 洗ってきて。この服、たぶん合うよ。

さりげなく差し出した所姬の無骨な親切さに、始緣がしばし所姬の渡した衣類をじっと見つめた。

始緣 : 私。

始緣の力ない声に、始緣へ渡そうと差し出していた知暎の服をいったん下ろした。

始緣 : 本当に死んだのか? 頭の中にぎっしり詰まったあれ。勝手に動いたやつ、あれ、何だよ。

所姬が服を腕組みに挟んだ後、軽いため息とともに手をぱっと払った。所姬の手から生まれる赤い糸束を始緣がちらりと見やった。

所姬 : 私たちは、こういうありえないものを宿した人間だよ。昨日死ぬまでは知らなかっただろうけど、死んでからは、あんたも微かにだけどありえないものを宿した。

始緣 : お前も俺みたいに死んだのか? 死ななきゃそういうのできないのか? どうして、死んだのにここにいられるんだよ?

所姬 : いいえ。私たちは生きている人間だよ。あんたみたいな人が生まれないようにするか、もし生まれたなら壊すか元に戻す仕事をしてる。

始緣が所姬の言葉にたじろいだ。

始緣 : 何だよ。じゃあお前も俺を—

始緣のかすかな警戒に所姬が首を横に振った。

所姬 : そうするつもりなら、この道を歩いたりしなかった。私をあんなに助けてくれた私のオンニはとっくに死んでたよ。

始緣が複雑そうに頭を抱え、手で顔を拭おうとした。そんな始緣の手を止めようと、手に持っていた知暎の衣類とタオルを改めて差し出した。

所姬 : とりあえず。洗ってきて。出てきたら続き話すから。ううん。直接見せるよ。