「いらっしゃいませー!」
喉の奥から絞り出した声は、店内に響く揚げ油の微かな⾳と、砂糖が焦げる⽢い⾹りに溶け込んでいく。エプロンの紐をきつく結び直し、磨き上げられたカウンターの向こうに⽴つ。この場所は、学校の窮屈な制服や、家の張りつめた空気とは無縁の、もう⼀つの世界だ。ドーナツの⽢い匂いが、まるで魔法のように思考を切り替え、⽇常の雑念を洗い流してくれる。ここでは、ほんの少しだけ、普段とは違う⾃分になれる気がした。
「ねえ新⼈くん、今⽇もシフト詰めすぎじゃない?」
先輩の⼭⽥さんの声が、背後から⾶んできた。彼⼥は⼩⻨粉で⽩くなった⼿を、腰のエプロンで無造作に拭いている。その表情には、呆れと同時に、どこか⼼配の⾊が滲んでいた。
「稼ぎたいんで」
反射的に⾔葉が⼝をついて出る。揚げたてのドーナツが並ぶショーケースのガラス越しに、⾃分の顔がぼんやりと映る。疲労の⾊は隠せないが、それでもこの場所で得られる充実感は、何物にも代えがたい。
「彼⼥でもできた?」
⼭⽥さんのからかい混じりの問いに、⼼臓が⼩さく跳ねる。違う。断固として違う。しかし、その否定の⾔葉は、なぜか喉の奥で詰まってしまった。
「違いますよ。」
なんとか絞り出した声は、⾃分でも驚くほど硬かった。
「じゃあ何のために?」
一瞬、頭の中に答えが浮かぶ。でも、それは絶対に言えない。山田さんは悪い人じゃないし、笑うだけで終わるかもしれない。でも——でも、嫌だった。あれは、誰かと気軽に笑い合える話じゃない。
「……ちょっと欲しいものがあって。」
苦し紛れに⼝にした⾔葉は、ひどく曖昧で、⾃分でも情けなく思った。
「何が欲しいの?」
⼭⽥さんの追及に、さらに⾔葉を探す。脳裏をよぎったのは、最近発売されたばかりのゲームの広告だった。嘘は、驚くほど滑らかに、そして⾃然に⼝からこぼれ落ちた。
「新作のゲームです。」
「なるほどゲームか。」⼭⽥さんは納得したように頷き、ふっと笑った。「若いっていいね、ガチャとか課⾦とか」
「まあ、そんな感じです」
愛想笑いを浮かべながら、内⼼で深くため息をついた。誰にも⾔えない秘密を抱えているというのは、想像以上に重い。このドーナツ屋の⽢い空気も、その重さを完全に消し去ることはできない。
この店で働き始めて、もう三ヶ⽉が経つ。⾼校⽣を雇ってくれるバイト先は、そう多くはない。偶然にもこの店に拾われ、さらに幸運なことに、職場の雰囲気も悪くなかった。そして、もう⼀つ、俺にとっての「運」があった。
それは、働き始めて最初の週から、ほぼ毎⽇、決まった時間に現れる常連客の存在だ。
その⽇も、⼭⽥さんとの他愛ない雑談の最中だった。
カランッ、と、店のドアベルが澄んだ⾳を⽴てる。その⾳は、まるで合図のように、俺の意識を瞬時に引き寄せた。不思議なことに、ドアベルが鳴る前から、彼の存在を予感していた。店内の空気が、ほんのわずかに、しかし確実に変化する。無意識のうちに、俺の視線は、吸い寄せられるようにドアの⽅へと向けられた。
「……いらっしゃいませ」
俺の声は、いつもより少しだけ、緊張を帯びていた。
「どうも」
返ってきたのは、いつもの、抑揚のない声。そこに⽴つのは、やはり彼だった。
他校の、濃紺のブレザーの制服。すらりと伸びた背丈。無愛想に引き結ばれた⼝元。伏せがちで、その表情を読み取らせない瞳。そして、その全てを覆い隠すことのできない、整った顔⽴ち。
最初は、もう少し笑顔があれば完璧なのに、と思っていた。しかし今では、その無愛想な佇まいこそが、俺の⼼を捉えて離さない。この感情が、⼀体何なのか、⾃分でもまだわからない。ただ、彼の存在が、俺の⽇常に、ささやかな、しかし確かな波紋を広げていることだけは、確かだった。
喉の奥から絞り出した声は、店内に響く揚げ油の微かな⾳と、砂糖が焦げる⽢い⾹りに溶け込んでいく。エプロンの紐をきつく結び直し、磨き上げられたカウンターの向こうに⽴つ。この場所は、学校の窮屈な制服や、家の張りつめた空気とは無縁の、もう⼀つの世界だ。ドーナツの⽢い匂いが、まるで魔法のように思考を切り替え、⽇常の雑念を洗い流してくれる。ここでは、ほんの少しだけ、普段とは違う⾃分になれる気がした。
「ねえ新⼈くん、今⽇もシフト詰めすぎじゃない?」
先輩の⼭⽥さんの声が、背後から⾶んできた。彼⼥は⼩⻨粉で⽩くなった⼿を、腰のエプロンで無造作に拭いている。その表情には、呆れと同時に、どこか⼼配の⾊が滲んでいた。
「稼ぎたいんで」
反射的に⾔葉が⼝をついて出る。揚げたてのドーナツが並ぶショーケースのガラス越しに、⾃分の顔がぼんやりと映る。疲労の⾊は隠せないが、それでもこの場所で得られる充実感は、何物にも代えがたい。
「彼⼥でもできた?」
⼭⽥さんのからかい混じりの問いに、⼼臓が⼩さく跳ねる。違う。断固として違う。しかし、その否定の⾔葉は、なぜか喉の奥で詰まってしまった。
「違いますよ。」
なんとか絞り出した声は、⾃分でも驚くほど硬かった。
「じゃあ何のために?」
一瞬、頭の中に答えが浮かぶ。でも、それは絶対に言えない。山田さんは悪い人じゃないし、笑うだけで終わるかもしれない。でも——でも、嫌だった。あれは、誰かと気軽に笑い合える話じゃない。
「……ちょっと欲しいものがあって。」
苦し紛れに⼝にした⾔葉は、ひどく曖昧で、⾃分でも情けなく思った。
「何が欲しいの?」
⼭⽥さんの追及に、さらに⾔葉を探す。脳裏をよぎったのは、最近発売されたばかりのゲームの広告だった。嘘は、驚くほど滑らかに、そして⾃然に⼝からこぼれ落ちた。
「新作のゲームです。」
「なるほどゲームか。」⼭⽥さんは納得したように頷き、ふっと笑った。「若いっていいね、ガチャとか課⾦とか」
「まあ、そんな感じです」
愛想笑いを浮かべながら、内⼼で深くため息をついた。誰にも⾔えない秘密を抱えているというのは、想像以上に重い。このドーナツ屋の⽢い空気も、その重さを完全に消し去ることはできない。
この店で働き始めて、もう三ヶ⽉が経つ。⾼校⽣を雇ってくれるバイト先は、そう多くはない。偶然にもこの店に拾われ、さらに幸運なことに、職場の雰囲気も悪くなかった。そして、もう⼀つ、俺にとっての「運」があった。
それは、働き始めて最初の週から、ほぼ毎⽇、決まった時間に現れる常連客の存在だ。
その⽇も、⼭⽥さんとの他愛ない雑談の最中だった。
カランッ、と、店のドアベルが澄んだ⾳を⽴てる。その⾳は、まるで合図のように、俺の意識を瞬時に引き寄せた。不思議なことに、ドアベルが鳴る前から、彼の存在を予感していた。店内の空気が、ほんのわずかに、しかし確実に変化する。無意識のうちに、俺の視線は、吸い寄せられるようにドアの⽅へと向けられた。
「……いらっしゃいませ」
俺の声は、いつもより少しだけ、緊張を帯びていた。
「どうも」
返ってきたのは、いつもの、抑揚のない声。そこに⽴つのは、やはり彼だった。
他校の、濃紺のブレザーの制服。すらりと伸びた背丈。無愛想に引き結ばれた⼝元。伏せがちで、その表情を読み取らせない瞳。そして、その全てを覆い隠すことのできない、整った顔⽴ち。
最初は、もう少し笑顔があれば完璧なのに、と思っていた。しかし今では、その無愛想な佇まいこそが、俺の⼼を捉えて離さない。この感情が、⼀体何なのか、⾃分でもまだわからない。ただ、彼の存在が、俺の⽇常に、ささやかな、しかし確かな波紋を広げていることだけは、確かだった。
