なんだか不機嫌な千冬は、黙って俺の後に続く。
二葉キャンパスから歩くこと10分。道の角に建つ、二階建てのアパートが見えてくる。
色褪せたベージュの壁と、何度も塗り直された鉄製の外階段。
そこの2階の角部屋が、俺が借りてる部屋だった。
「狭ぇ部屋だけど、適当に…わっ、」
部屋に着くなり俺に振り返った千冬は、靴も脱がず、俺を閉じ込めるように玄関ドアに手を突いた。
背中にドアの冷たさが染みる。
薄暗い部屋の中で、濃さを増した栗色の瞳が、ギラリと光った気がした。
「派手な方と大人しい方、どっちですか」
「は、………え?」
な…、なぞなぞ…か?
何を聞かれているのか、全く分からねぇ…。
けど、聞き返せる雰囲気じゃない。
張り詰めた表情で詰め寄る千冬に、俺はただ口元を引きつらせた。
「はぁ…。お店にも来てた、さっきの二人組ですよ。どっちに色目使われてるんですか」
「色…っ、そんなことされてねぇよ」
「二人共ですか?」
「違うって言ってんだろ」
俺の否定を無視して続ける千冬に、思わず口調が強くなる。
体の横にある千冬の手をどけようとするけど、びくともしねぇ。
力で抵抗するのは早々に諦め、俺を強く射抜く暗い瞳を、負けじと睨み返した。
「………」
「………」
肌がピリピリするような空気の中、アパートの他の住民が共用廊下を歩く足音と、ドアを開閉した音だけが、やたら大きく響く。
「……っ、はぁ…」
たっぷり十数秒は睨み合い、先に折れたのは、千冬だった。
綺麗な顔を悲痛に歪め、苦しげに息を吸い、一瞬止め、一度に吐き出す。
吐き出す息と一緒に項垂れ、俺の肩に額をつけた。
泣き出しそうな小さな声が、呟くように言った。
「……伊織先輩は…、ああいう感じの女性が…、…好き…なんですか…?」
「………は、はぁ?」
何を言ってるんだコイツは。
いよいよ呆れ交じりの問い返しが出てしまう。
ドアについていた千冬の手が力無く落ちていき、そのまま俺の体を、控えめに抱きしめる。
絞り出すような、苦しい声。
「……僕じゃ、だめですか…?僕じゃ、足りませんか…?」
「だめなんて…、」
「何が足りないですか?男だからですか?」
「おい、ちふ、ぅ゛、」
身体が潰れるんじゃないかというくらい、強く抱きしめられ、肺が圧迫される。
く、苦しい…。
「どうしたら、先輩を、…僕に、縛り付けられますか…?」
余裕のない、懇願するような声が零れ落ちた。
酸欠の頭でそれを聞いても、うまく理解も判断もできない。
とにかく酸素が欲しくて、空いている手で、千冬の背中を叩いた。
千冬はようやく、俺が呼吸困難になっているのに気付いたのか、殆ど声になってない声で「ごめんなさい」と言って、腕の力を緩めてくれた。
「っはぁ…はぁ…。千冬…、落ち着けよ…」
「………」
宥めるように背中を撫で、俺の肩に乗った俯いたままのピンク頭に触れる。
ふわふわの髪が、柔らかく指を通り抜けていった。
「柑奈も柚月も、何でもねぇから」
「……」
「柑奈はただの同級生だし、柚月も…ちょっと、頼まれごとしてるだけで…」
「頼まれごとって、何ですか」
千冬の質問に、言葉を詰まらせる。
いくら千冬相手でも、柚月の片思いを勝手にバラしてしまうのは、よくねぇよな…。
「それは…、今は言えねぇけど…」
ピンクの髪を指に絡めながら、優しく梳く。
千冬のこんがらがった勘違いも、この髪のようにするりと解けるようにと願いながら。
それで、柚月の頼み事の件は、あとで本人に確認しておこう。
言っても良いと言ってくれたら、千冬にもちゃんと教えてやれるしな。
「だけど、…俺は別に、どっちも何とも思わねぇし。…俺が好きなのは、ちゃんと、千冬、だから…」
返事の代わりに、千冬が顔を傾けた。
鼻先が甘えるように俺の首をくすぐる。
くすぐってぇ。
「機嫌、直せよ…。俺は今日、千冬と会えるの、楽しみにしてたんだからよ…」
「……」
「いつもみてぇに…、千冬と楽しく話してぇ」
諭すように優しく語る。すると、ようやく千冬が顔を上げた。
ずっと俺の肩に顔を当てていたせいか、目元も頬も、泣いた後のように赤くなっている。
重たそうな瞼は、千冬の栗色の瞳を少し隠し、端正な顔にアンニュイな雰囲気を纏わせていた。
「…確認、したいので…、…キス、してもいいですか…」
許しを乞う声は、掠れている。
何の確認だよ?とツッコんでやりたくなるけど、恋人の弱々しい声に、ちょっと微笑むだけにして、静かに瞼を閉じた。
少し間を空けてから、ゆっくり、唇が重ねられた。
柔らかい唇が優しく押し当てられ、しばらくそのままでいる。
お互いの温度が混ざり合うと、今度は形や感触を確かめるように、上唇、下唇と順に唇で挟まれた。
「…ん…っ」
「…はぁ、」
優しく喰まれる気持ちよさと、千冬が唇を動かす度に微かに聞こえるリップ音が、俺の息を上げる。
何度か繰り返し、やがて千冬の唇が離れたのを感じて、そっと目を開いた。
部屋の中はもう暗くなってしまっている。
それでも、千冬が眉を下げて俺を見つめているのは分かった。
「僕の…、伊織、先輩……です」
俺に向けてというより、自分に言い聞かせるような言葉だった。
その声は、もう落ち着いている。
泣き止んだ子供みたいな千冬に、俺は笑顔を返した。
「ふはっ、……ちふゆ?」
もう元気出たか?落ち着いたか?
ただ名前を呼び、ニッと笑って、首を傾げる。
すると千冬は、眉を寄せ、強引に俺の両腕を掴んだ。
衝動的に俺を引き寄せ、葛藤に苦しむような顔が、躊躇いながらも近づいてくる。
ま、またキスか?
身構えるようにぎゅっと目を瞑るが、唇に、なかなかあの感触が来ない。
その代わり、千冬の大きなため息と、独り言みたいな言葉が聞こえた。
「………、ご、…ごめん、なさい…。これ以上は…、多分、…良くない……ので、……やめて、おきます……」
「……おう?」
腕から手が離され、目を開く。
千冬は顔を逸らしたまま、その手を、降伏のポーズのように頭の横に持っていった。
「…千冬?」
千冬の言動が不思議で、栗色の瞳を覗き込む。
千冬は、俺と目が合うと、手の甲で口元を隠し、照れと気不味さを誤魔化すように視線を逸らした。
「………そろそろ、電気、つけましょうか…」
「そうだな?あ、あと買い出しも行かねぇと。材料まだ買ってねぇから」
千冬に部屋に上がるよう言って、俺はやっと電気をつける。
うん、いつも通りの狭い俺の部屋だ。
いつも通りの、なんの面白味もない俺の部屋の真ん中で、やたらスタイルと顔のいいピンク髪がいる。
そいつは絶景観光スポットにでも来たかのように、目を輝かせ、じっくり部屋の中を見渡していた。
変な感じ。
だけど、胸の内側が、くすぐったい。
「俺は買い出し行ってくるな」
「僕も行きます」
「おう。なら要らねぇ荷物は置いてけよ」
「はい」
俺も学校のカバンから必要なものだけ取り出して、玄関の端に下ろす。
「出れるか?」
「はい、行きましょう」
綺麗な笑顔を向けた千冬に、俺も微笑み返した。
ドアを開くと、外はすでに夜の色。
玄関の鍵を閉め、千冬と外階段を下ると、行きは重々しく感じた鉄の階段を踏む音も、今は軽やかな響きに感じた。
「そういえばお前、あの二人のこと、『派手』と『大人しい』だけで認識してんのか?」
「はい。伊織先輩以外の人は、みんな同じに見えるので」
「………お前、ギャグセンス低いな」
「ええっ?」
真顔で聞き返す千冬に、今度は声をあげて笑った。
そんな冗談を言う千冬も、俺は面白くて、好きだな。


